「ザ・キラー」鑑賞後メモ

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 弾薬、食事、コワーキングスペースiPhone、シェアスクーター、輸送、そして音楽と時間。とにかくあらゆるものを片っ端から消費していくことでマイケル・ファスベンダー演じる殺し屋(The Killer)は生きている。目には見えないけれど遠くに薄ぼんやりと光り輝くように存在していると信じてやまない「安心」を求めて、しかし、あくまで唯物論者的なドライさを伴う思想をベースにして落ち着くことを忘れないようにしながら(しかししばしば忘れることになる)。

 彼の中で「安心」の感覚と80年代イギリスの代表的なロックバンドであるThe Smithsの音楽とはおそらくどちらもぼんやりとした亡霊のようなイメージという共通点において密接に結びついていて、だからこそチャプター1における暗殺のミッションを行う際にはライフルを構えて照準を合わせるような重要なタイミングにおいても「ながら聴き」しているのだろう。だがしかし、彼が強く追い求めるほどにそれはスッと遠のいていってしまう。実際、この作品の推進力の軸となっているファスベンダーによるモノローグにおいても、暗殺対象が遠くにいる場合のミッションの退屈さ、煩わしさについての言及が何度かある。あともうひとつ、それに関する印象的な演出として彼が病院内で知人の安否を看護師に尋ねようとする場面があるのだが、その瞬間に(1秒程度の短い時間ではあるが)建物内の照明が明滅して一瞬辺りが暗闇に包まれるといった描写がある。結局最も消費させられているのは、本来消費を行う主体であるはずの彼自身なのではないかという構図もこの辺りから浮かび上がってくる。

 個人的に面白かったのが、ある場面を堺に主人公に対しての感情移入が困難になるような演出がおそらく意図的に配置されていたところだ。それはチャプター2のドミニカ共和国における主人公とタクシー運転手とのやり取りの顛末のことなのだが、明らかに善良な市民でしかないその運転手をためらいもなく射殺し、さらに車内のラジカセは手に持って持ち帰っていくというお茶目な(?)行動を描写する辺りで戸惑う観客は少なくないのではなかろうかと思う。それはまるで、この演出を挟み感情移入の感覚を削ぐことによって我々を単純なカタルシスから遠ざけ、今作の主人公があらゆるものを消費し尽くすような淡々とした感覚そのものを追体験させようとしているようだった。

 とはいうものの主人公が消費していくのは基本的に物質的なものであって、そこに親密でアダルティーな女性関係やそれを直接的に示すような描写が絡んでくることはないのでなんとなく実直な少年のような無邪気さを感じさせてはくれるというか、トータルでは彼に対して可愛さを覚えなくもないといったバランスには仕上がっている。まあ、今作の殺人の描写はどれもカタルシス皆無でしんどみが深いけれども。

 予測できない未来というイメージに起因する不安を捻じ消すための消費とそれによる安心の希求。今作で言及されていることを一言でまとめるとそんなところだろうか。

 ちなみにこれは余談なのだけれど、最近はKen CarsonDestroy LonelyYeatらの「rage」や「pluggnb」に括られるようなラップミュージックやGeorge Clantonの新作「Ooh Rap I Ya」などが個人的にとても刺激を受ける音楽だったので、「消費」といった概念がキーになっている「ザ・キラー」はそれらと同じ感覚で楽しむこともできた。