「ハロウィン THE END」鑑賞後メモ

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 本編が始まりユニバーサルのロゴが出てくるやいなやJack & Jimというテキサスの古い白人デュオの楽曲”Midnight Monster Hop”が流れ始める。60年代のロックンロール的なサウンドジョン・カーペンターの有名なテーマ曲が醸す80年代的な雰囲気とはかけ離れた、乾いた印象をもたらしてくれる。観客の意表をつくようなこの演出は、今作がブギーマン=マイケル・マイヤーズという存在を通してこの世界ないし社会に存在する害悪の根源、すなわち(主に)男性的な暴力性について言及する物語であるからだろう。アヴァンタイトルにおいて描かれる、新たな登場人物であるコーリー(ローハン・キャンベル)の物語もこのテーマにしっかり絡んでいる。

 2019年のハロウィンの夜、21歳の青年であるコーリーは幼い少年の面倒を見るシッターのバイトのためにある夫婦の邸宅を訪れる。何の気なしにその少年とホラー映画をみたりしながらリビングでくつろいでいたが、コーリーが冷蔵庫を物色しに彼のもとを離れると少年はちょっとしたイタズラのような感覚で「マイケル・マイヤーズが家に突然やってきた」フリをしてコーリーをからかう。やたらと本格的に少年が演技をするので本気でビビりながらコーリーは螺旋状の階段を最上階まで駆け上がるが、案の定彼は少年の罠にかかり部屋に閉じ込められる。これに対してブチギレたコーリーは鍵のかかったドアを全力で蹴り破るとその弾みで少年の身体は吹っ飛びそのまま三階分程度はありそうな高さを落下し一階のフロアに「胴体着陸」する。ここまでがアヴァンタイトルの展開になっている。

 その後は「ハロウィン KILLS」以降のローリー(ジェイミー・リー・カーティス)がどのように日々を過ごしていたかが描かれる。娘を亡くしたローリーはマイケルが行方不明になったことを機に生活スタイルを根本から見直し、改善できるよう彼女なりに努力し始めていたことが明らかになる。このシークエンスがあることによって今作がメンタルヘルスについて言及するレイヤーも持ち合わせていることが示される。先述のアヴァンタイトルにおいて描かれた階段を「上昇」する動きとその上から「落下」する動きもこの主題と重ねて見ることができる。その後はそういった心理的な側面における上昇と下降の動きも描かれる。ローリーとウィル(フランク・ホーキンス)のスーパーマーケットでの微笑ましいやり取りとその後の出来事、そしてアリソンとコーリーがハロウィン当日のバーでのパーティで踊っている場面においてそれはとても印象的に描かれる。こういった描写が盛り込まれているのは、(一応は)シリーズ最後となるこの作品でマイケル・マイヤーズというキャラクターや彼が表象する「恐怖」という感情そのものが生まれるプロセスを可視化するための演出であるように思えた。

 ローリーは武装を施していない住居を構えることで「恐怖を受け入れる」ことを目指し始めるがその一方でコーリーがリカーショップの前で10代の少年たちにからかわれているところを助け出した直後にその少年らが乗っていた自動車のタイヤにナイフを突き刺したりと、今だ彼女のなかに宿る激しい感情の揺れ動きを想像せざるを得ない。それに加えて個人的に面白いと感じた部分はアフロ・アメリカンの人々の描き方だ。それはスーパーマーケットの駐車場におけるローリーととある黒人女性とのやり取りにおいて最も顕著に表れているように、あくまでマイケル・マイヤーズに関する一連の騒ぎというものは勝手に白人同士が盛り上がって関係のない人々まで危険に晒しているだけではないかという、もはやこのシリーズ自体に対するメタ的な揺さぶりというか自己批判的な視点まで盛り込もうとしているのではないかというように思えた。そういえばこの作品が始まって一番最初に聞こえるのは黒人がDJをしているラジオ番組の音声であった。彼が冗談半分のようなテンションでトークを行い、尚且ついかにも白人的なハードロックの楽曲を流し続けているのも先述したような「黒人はあくまで蚊帳の外」といったような状況に対するエクスキューズを示すためのスタンスであったのでは、と思えてくる。

 今作の前半部分はコーリーというキャラクターを通して恐怖と暴力が生み出される過程のようなものが描かれ、そこにマイケルの面影も重ねることで彼のルーツにも言及していくような内容になっているが、中盤に差し掛かると「ワインにチーズも揃ってる」というセリフが象徴的であるように、いかにもといったような殺人のシチュエーションが整えられる。そこからはお待ちかねといったようなマイケルの殺戮が描かれる。正直、前半においてはとても観念的なお話や描写が続くためこの後半部分に差し掛かり始めるまでは物語の進行が鈍重な印象をどうしても感じてしまった。しかもその前半部分が恐怖という感情を解体していくような役割を果たしてもいるのだけれど、それによってマイケルが大して怖い存在にも思えなくなってしまっていることが後半部分における推進力の弱さを生み出してしまっているように思えた。実際、これはマイケルとローリーを実質的に紙一重の存在として描くために作り手が意図した構造ではあるのかもしれないが、過去の2作において示唆されていたもの以上の内容がそこに盛り込まれていたかというと少し微妙なようにも思えた(メンタルヘルスに対しての言及くらいだろうか)。それでも、ローリーとマイケルの最終対決を軸にした終盤の展開は全体的にしっかりと構築されている印象を受けた。近年のキャンセルカルチャーの様相を思わせるような人々の描写や神話的な構図も含んだあの結末を描くことによって、「恐怖を完全に受け入れることは出来ない」ということ、また「ひとは自らの身体に流れる血=穢れなくして生きることなど出来ない」「スリルなくして生きてはいけない」といったようなホラー映画というジャンルそのものの存在意義についての解答を示そうとする確固とした意思は感じられた。