「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」鑑賞後メモ

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 アヴァンタイトルにおいてアメリカ先住民の人々による死者を弔う儀式が執り行われる様子が映し出されるのは、作中におけるアメリカ白人男性たちとの「死」に対する見方や価値観の決定的な違いを印象付けるためであるように思えた。先住民の人々は皆ひとつの死に対する悲しみを時間をかけて分かち合うよう感覚を持つ者たちとして描かれるが、主人公であるアーネスト・バークハートレオナルド・ディカプリオ)や彼の叔父で今作における黒幕的存在であるウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を筆頭とする白人男性たちは終始他者(というかアメリカ先住民)らの死を石油の受益権や資産の移動としか捉えておらず、とにかく彼らにとっては金が手元に入るかどうかの問題でしかない。共有するという感覚がそこには存在せず、ひとりで全てを手に入れようとする精神性がギャンブルのイメージとも重ねられるなどしながら描かれていく。

 そもそも、1920年代のアメリカはオクラホマ州において莫大な富を保有するアメリカ先住民の部族 ーオセージ族ー がいたという事実を全く知らなかったのでまずはそこに驚き、さらにそれを富の分配のシステムごと搾取していたウィリアム・ヘイルという白人男性が存在していたということに関してはなかなか信じ難いところがあったが、これは実際にあった歴史上の出来事だ。ヘイルは物語の中盤あたりでフリーメイソンの会員であることに関しても言及しているが、まさにカルト的な方法論において彼が暮らしている街やその周辺地域の人間の強固な信頼を構築してしまっているのは非常に気味が悪いし、これは現代におけるポリティカル・コレクトネス的な価値観が極端なレベルまで進行しているような側面が多く垣間見られるようにもなった近年の北米のウォーク・カルチャーに代表される「正しさ」の暴力のイメージとも重ねられているように思えた。

 ディカプリオ演じるアーネストも作中では例に漏れずヘイルのことを完全に信頼し切っている様子が描かれるが、そこにオセージ族の女性であるモリー・カイル(リリー・グラッドストーン)との損得勘定を(ほぼ)度外視して愛し合える関係性というレイヤーが重なっていく。それによって今作におけるエモーションは3時間半近くの長い時間をかけてゆっくりと増幅していくのが今作の肝なのではないだろうか。欺瞞と嘘によって築かれたシズテムの上で育まれた愛情は果たしてどこまでが真実と言えるのだろうか。例えほんの短い瞬間であったとしても、その欺瞞を食い破る愛はたしかに存在しうるのだとしたらそれはとても尊いことなのであろうし、そういった感情をこそ他者と分かち合えれば本当の意味で豊かなコミュニティというものが醸成されていくのかもしれない。終盤におけるアーネストの「後悔ばかりで、もうすでに悲劇だ(意訳)」という台詞やその後の展開には思わず胸を打たれたが、同時に冒頭から仄めかされていた、先住民と白人男性(ないしアーネストとモリーの間)との決定的な死生観の違いがそこにおいて浮き彫りにもなる。

 ラストショットにおける光景は悲劇的な歴史上の出来事に対する哀悼の意と、それに対しての怒りを暴力ではなく仲間たちと共有することで時間をかけて受け入れていこうとする静かな、しかし同時に激しくもあるアメリカ先住民の人々の慎ましい側面を表しているようであった。