映画という形態にどれだけ多くの情報量を搭載できるのか、という限界にクリストファー・ノーランは挑んでみたのだろうかと思ってしまうほど、とにかく次々にあらゆるものが視覚と聴覚、そして全身を刺激し続けてくるような印象を受けた。アクション映画ではないが、過去のどの作品よりもハイテンポで物語が進行し、尚且つ各登場人物、特に主人公であるオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の台詞の量も膨大であり、さらにそれに加えて劇伴や細やかなサウンドエフェクトがひっきりなしに鳴っているので、見ているこちら側の脳みそまで爆発寸前になる。それでも、今作のこの目まぐるしさはオッペンハイマー自身の世界の見え方、感じ方とリンクしているので、決しただ節操のない作りというわけではないことは確かだろう。終盤における原爆投下後のオッペンハイマーの演説場面における演出がその結びつきを明確に示してもいる。
人間を突き動かす強いエネルギーのひとつに好奇心というものがある、というところからこの物語は始まっていく。水溜まりに落ちていく雨粒が水面に小さな波紋を起こしていく様をぼんやりと眺めているアヴァンタイトルの印象的なショットを起点に、様々な人間や場所、アイデアとの出会いが続く。その中で浮き沈みする人々の思いはまるで、核エネルギー反応の如く、膨張し、衝突し合い、収縮したかと思えば再び燃え上がる。ひとりの人間から始まった運動の連鎖が無数のレイヤーを編み出していく。理論でまとめられた既知の感覚と未知とのせめぎ合いが全ての人間の好奇心を刺激し、突き動かす。善も悪も喜びも悲しみも戸惑いも混ざり合った、業の深みに溺れていく。かつて若きオッペンハイマーの中で無邪気に揺らめいていた、煌めく粒子と波のイメージとが結び合わさって現実に昇華された末に広がる光景が爆炎と轟音、そして彼自身ですら思わず目を伏せてしまうほどに強烈な閃光であったことに対しての悲哀、自省の念がピークに達するラストショットは、胸に痛みを残す。実際、ノーラン作品の特徴として頻繁に語られる「映画についての映画」である以上に、今作は彼自身の内省的、私小説的な側面が強いようにも思われた。フローレンス・ピューやエミリー・ブラントが演じる女性たちの描き方も含め、強烈な自戒の念を感じた。