「窓辺にて」鑑賞後メモ

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 劇中のセリフの中で一度だけ村上春樹の名前が出てくるが、「ねじまき鳥クロニクル」でも10代の女の子が30代の男性と共に行動していたよなあとぼんやり思い出す。しかし、この作品の主人公は浮気をする妻を必死に追いかけるようなことはしない。窓の外に広がる景色をその内側からそっと見守るように日々を過ごし、その中で出会う人々との緩やかな繋がりを確かめながら自分自身の中に根ざしている「静けさ」のルーツを辿ろうとする。

 子供の頃にはスマスマで毎週見ていた稲垣吾郎の顔を久々にじっくり見ると、さすがに歳を重ねたんだなあという感じで序盤はずっとそんなような感慨に浸っていた。それでも彼の人柄というか演技から滲み出る、少し隙のあるようなゆるさは相変わらずで、それは最初から最後まで見ていてとても心地よかった。非マッチョ的な男性像、というかただただ稲垣吾郎稲垣吾郎のままでいるだけであって彼自体は国民的スターなわけだけど、今泉力也による前作「街の上で」において若葉竜也が演じていた主人公よりも個人的には親しみやすさを感じることができたし、不意に口から漏れる「あっ」というちょっとした声や同じ言葉を2回繰り返して言うようなところ、フォークで一口大に切ったケーキを一瞬取り損ねるところなど細かな所作のチャーミングさはなかなか誰でも醸し出せるものではないだろう。

 悩んだり迷ったりする日々といったような、まだ心がどの形にも固まり切っていない不定形な時の中を過ごす人間の物語を今泉力也は常に描いてきている。また、そういったタイミングで人間を突き動かしているのが誰かやなにかを思う気持ち、すなわち「好き」という感情であると言及されるわけなのだけど、その着地も常に一筋縄ではいかないのも今泉監督作品の魅力のひとつだろう。というか、「着地」はいつもしていないようにも思える。それは「mellow」ラストのショットで映される飛行機のごとくずっと宙に浮いたままで動き続けている。結局は何も成長していないような気もしてくる。が、この世界を見つめる角度を少しだけ変えることは出来る。そこにこそ変化していくための道筋が開かれ、生活の意味が宿るのかも、と。

 自分は誰かのために何かの役割を果たすことが出来ていないのではないか、何もしてあげられていないのではないかということを稲垣吾郎演じる市川茂巳が口にする場面があるが、むしろこの物語は彼が中心の軸として存在していることで進行している構造になっているため、彼の存在こそが最も重要なピースのひとつではあったりする。妻である紗衣(中村ゆり)や友人の正嗣(若葉竜也)、作家の久保留亜(玉城ティナ)らとのやりとりが幾重にも重なることで茂巳の日常は過ぎていくが、その中でふと、喫茶店でひとりになって窓から降り注ぐ光をグラスの水に透かして見つめている瞬間にこそ彼はこの世界との最も適切な距離感を見出すことが出来ているのではないだろうか。本編冒頭とラストにおけるそのショットに主人公自身の「好き」という感情そのもののピークが宿っている。