BAD HOP THE FINAL

 久々にとてつもなくポジティブなヴァイブスに溢れたものを目撃した。特にガチなヒップホップヘッズというわけでもないタイミングから今までインターネットの端っこからひっそりと見守っていた、2010年代以降の日本語ラップシーンを牽引していた存在、BAD HOPによる目の前でのアンセムのつるべ打ちには興奮して頭がクラクラし始めると同時に、ドーム中が、そして俺の横にいる青年がとにかくずっと全力でシンガロングしまくっているその空間は多幸感に満ち溢れていた。演者もすごいけれど、オーディエンスの熱気や反応が瑞々しくて、どピュア。ついつい、これはヒップホップ走馬灯なのかとも思ったけれど、むしろこれは現在進行形で大きくなっているドリームなのだろう。

 ¥ellow BucksBonberoを始めとしたここ数年のフレッシュなラッパー、そしてZeebraMC漢、SEEDAANARCHY日本語ラップ史を辿るような客演は、iPhoneの中に動画として収めておくだけでもかなりご利益がありそうだ。Zeebraのヴァースはとても感動的だった。自分とほぼ同い年の人間で東京ドームでライブをするような大きな存在が川崎区のゲットーから現れるとは想像がつかない。そういった時代なのだなと肌感覚で理解した。

「瞳をとじて」鑑賞後メモ

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 「古い記憶と出会いなおすための装置としての映画」についての物語であるように思えた。現在の視点(観客席)から過去を見つめ直す眼差しと、スクリーンの内部に収められた過去から未来の世界に向けられた眼差しとが重なり合う瞬間の高揚、スリル。言葉よりも早く瞬間的に何かが伝わっていく、あるいは伝わっていないことが理解されてしまうほどにその解像度は鮮明だ。物語の後半における老人ホームの食堂での視線のやり取り、そして主人公らが海兵時代に習得した紐を結ぶ仕草を通した無言のコミュニケーションを行っている場面を見たとき、この静かなトーンの作品のうちに込められたとてつもない熱量の、「届け」「届いてほしい」というエモーションの存在に気付かされ、目の奥がビキビキと痛むほどに目頭が熱くなった。この作家が映画を作るということにおいて根幹のモチベーションに据えている凄まじい思いは、しかし、3時間弱という長い上映時間がむしろどんどんプラスに作用していくような心地よさ、繊細なライティングのセンスにより映像作品としてあまりにも上質に仕上げられたタッチを通して我々の瞳にゆっくりと浸透していく。

 時間が経過していくことの残酷さ、「別人」として相対化されて描かれる若き日の自分、そしてそれらと出会い直しその姿を直視することの困難さが、物語が進行していくにつれて浮き彫りになっていく。ペンキまみれで作業を行う主人公らの姿と、「悲しみの王」が最後に取る行動との対比にこの作品の悲哀のピークが収められている。

 「見つめること」を諦めないでいたい。瞳はいずれ乾いて、とじられてしまうから。

 あまりに完璧な終わり方に、思わず暗闇の中で笑みを浮かべた。

「夜明けのすべて」鑑賞後メモ

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 さながらプラネタリウムのような映画だと思った。観客が目撃するのは「周期」についての物語であり、世界のあらゆる場所にバラバラに存在する、ひとやものがそれぞれ内包する周期が交錯し合う様子が常に映し出されているように感じられた。藤沢さん(上白石萌音)は月に一度のPMS月経前症候群)を、山添くん(松村北斗)はパニック障害というコントロールを効かせる事が非常に難しい身体的ないし精神的な周期を抱えながら日々を過ごしている。

 今作では日常生活において不意に訪れるそれらの症状を治す、というよりかはいかに藤沢さんや山添くんの日々の暮らしのリズムにその周期を寄り添わせるかという試みが描かれ、その調和を示すモチーフとして星座についての話が引用される。眼差しを向ける=その存在をそこに認める、見守る、知ろうとするという映画鑑賞のアナロジーはそのまま星座やそれらを映し出すプラネタリウム、そして身近なひとに対するケアのひとつの在り方に重ねられていく。そのいくつもの視線のレイヤーが社会や世界という空間を構成している、ということ。

 三宅唱の前作「ケイコ 目を澄ませて」は音楽的な比喩を用いて表すならば、街の喧騒によって表象される情報過多なノイズをひとつずつ解いていくことで澄み切った静かな視界、世界を取り戻してくような構造をしていたが、この「夜明けのすべて」はそれとは対を為しており、ひとりぼっちのところから始まった藤沢さんや山添くんが自分のリズムを取り戻すためにパーツをひとつずつ組み上げていくような、そんな印象を受けた。

 街の音がとても静かな作品ではあるが、視界にはいくつもの映像的なリズムが飛び込んでくる。それだけでとてつもなく豊かな体験になっているのだから不思議だ、と思う。

Taylor Swift / THE ERAS TOUR

 昨夜、2月8日木曜日のテイラー来日公演2日目、東京ドームでのライブを友人と共に観に行った。

 ライブを見終わってからはずっと脳内で”Cruel Summer”が流れ続けている。今はまだ冬だし、なんならこれから花粉症シーズンだったりで、マッドな恋愛模様が個人的に展開されているわけでもないのだけれど。まあ、でもテイラーの書く歌詞はけっこう好きだな、とライブの前日くらいに思い出したようにYouTubeで和訳つき動画を見続けている内に感じていたりなんかして、要はミーハーな自分も普通に楽しんできたということだ。

 3時間強、ぶっ続けで続くわけのわからないスケールのパフォーマンスは、人間の限界を3周くらい超えた空前の時間芸術としか思えなかった。見てるだけで俺も友人もクタクタになっていたというのに、テイラーは全く疲れたような素振りを見せない。どんな生活を送ればそんなバイタリティを獲得できるのかと想像を巡らさずにはいられない。

 普段自分が出向くようなどのライブ会場よりも圧倒的に若い女性客の比率が多かったし、かなり陽性なムードというかテイラーのステージ衣装のようなキラキラをまぶしたコーディネートを身にまとっている人が何人もいたのが印象的というか、ネオ美川憲一の様相を呈していた。

 世界一のスーパースターをリアルタイムで、目の前で観ることなどもしかしたらこの先もうないかもしれない、あってもそんなに多くないだろうから、見終わった今となっては嬉しいような寂しいような。でも最近はライブを見に行く事が少し億劫になってきたというか、単純に周りにたくさんの人がいるなかで音楽を聴くことは自分が心地よいと感じる音楽の視聴環境とは少し違うものかもしれないと今更ながら感じ始めたところであったりもしていたので、そういった自分自身の心境の変化、そしてさらには2010年代的なムードに対して自分の中で一区切りついてしまったような、そんな諸々を思ったりした一夜だった。

 そんなことを言いながらも、今度、BAD HOPのラストライブを観にまた東京ドームに行く予定なのだけれど。

「みなに幸あれ」鑑賞後メモ

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 この世界に生きていることが幸せなのか不幸なのか、もはやわからなくなりそうになる。それこそが「みなに幸あれ」の「ミソ」なのではないだろうか。まあ、いざ死にそうになったらなったでなんとか生き延びようとするのが人間であるはずだ。ただ、だからと言ってその結果生み出されたシステムが清廉潔白な純然たる価値観に乗っ取って構築されているかどうかというのはまた別問題になってくる。かつてどのような価値観が重宝され、または見捨てられてきたのか、その歴史が凝縮され時を経て発酵し始め、そうするとやはり「ミソ」になる(どうしてここまで味噌を強調するのかは、冒頭の場面を見て貰えばすぐにわかるだろう)。

 ホラー映画において最も根源的な恐怖として据えられるのは、生物としての物理的な死であることが多いと思われる。しかし、この作品において浮き彫りにされるのは、どこか呑気にふんわりと進行していくような時の流れのなかで当たり前のように滲み出してくる(一般的には)理解に苦しむ非人道的な行為や現象の数々にまみれた社会ないし世界で生き続けなければならないということに対しての戸惑いであるように思えた。ゆるやかではあるが先行きが全く見通せない、そんな作品構造のなかで「善行」も「悪行」もすべてが同列に並べられ、相対化されていく。どちらも理解できるし、同時になんとなく受け入れ難い、そんなような感覚が鑑賞中常に付きまとってくる。

 この作品のとても面白いポイントのひとつは、上述したようなあらゆる価値基準の境界線の曖昧さというものが、作品自体のトーンやジャンル性を軽やかに横断していく部分にまで落とし込まれているところだ。エンタメとアート、ホラーとコメディ、現実と非現実、常識と非常識を、それは見事な鮮やかさで飛び越えていく。しかし同時に固定されたカメラによるショットを中心に構成されていることで圧倒的な重力のようなものも感じさせる。どこまでもいけるけれど、どこにもいかれない。村の因習モノというジャンル的な要素と同時に、インターネット以降の社会における自由さと束縛感もその構造によって端的に示されている。そういった感触とともに鑑賞を終えた後、「みなに幸あれ」というタイトルはヤケクソのような、投げやりなトーンを内包しているようにも思えた。

 これはもはや「ウィッカーマン」や「ミッドサマー」などにおけるカルトや非キリスト教圏の遠い国の世界の話でもない。いま生きている自分自身の日常における「ふつう」という感覚についての物語であるというリアリティに満ちている。家父長制という概念を逆照射することによって浮かび上がる禍々しいなにかが、ごく普通の戸建の一室に存在しているということ。

私の日は遠い #17

 心が揺れ動き続けて定まらないような状態はとても疲れるなとシズオは思った。人の心なんてわからないものであるということはあまりにも分かりきったことだろうけれど、現実にはあまりにもそういったことが多すぎて心がすぐに許容範囲を追い抜かれてしまう。ただ取り止めのないような日々を過ごしているだけなのに、それでへとへとになることはしばしばある。スッと、自分が一番思っていることを伝えたり、分かりやすい言葉で胸の中を切り取ることができたらな、と彼はよく思う。

 

 好きな人に対しての気持ちの持ち方は、今はもう軽い感じでもいいのかもしれないと思った。昔はベタベタにハマりきってしまう方が気持ちの純度も高い気がしていたけれど、それはその後で報われなかった分がネガティブな感情に転化してしまうことが多いだろうし、結果的には他人を傷つけることにもなってしまうと思うから。今までやってきたような感覚で、ふつうの感覚で他人に優しくしようと努めることがいちばんいいのかなと思う。とにかく、軽やかな感じでいたい。それがラク

 こういうような考え方に変わってきたのは、体力や年齢的な問題というよりは複数のレイヤーを通して状況を見れるように、多少はなってきたからということが原因なのではないかと思う。まあ、アホなのでそれほど多くのレイヤーがあるわけではないけれど、要は単純に考えることや気づくことが自分にとってあまりに多くなってきてしまったということなのだろう。見え方が変わってきたのだろう。

 

 あるひとの存在が自分の心の中で完全に特別なポケットに入れられてしまっていることをシズオはふと確信した。これはもう、その人に対しての想いが完全に誤魔化しようのないものとなってしまったようなところがあり、それによって自分が傷つくことをもはや避けようがないところまできてしまったのだということでもある。全てを受け止めるしかない、とシズオは少しシリアス目に考え始めたりしている。実際どうなるのかは、まだわからない。好きになるとはこういうことでもあるのだな、と。

 

 休日ではあったが、なんだか疲れていてシズオは結局日がな一日なにも特別なことはせずにただのんびりと過ごした。それでもいいと思えるほどに疲れていたし、最近は映画やら音楽もたくさんリリースがあってそれらを追うのにも少し辟易としていたところもあったのでちょうどいいといえばちょうどよかったとも言える。むしろ最近は、こうした「何もなさ」こそが自分の日常や人生そのものであるのではないかとすら考えていたりする。ただひたすらにシュールで、訳のわからないことが多々起きる日々をゆるやかに受け止めるための、シズオなりの世界の見つめ方でもあった。

 

 季節の変わり目、突然涼しい風が吹き始めると暑さで消耗されていた分のエネルギーが横溢する感覚に囚われるように、シズオには思えた。情緒不安定と言ってもいいような、少し大きめな心の振り幅に彼自身ですら驚くことがある。話したいことをずっと胸にしまっておかなければならないような、そんなことだけで不意に涙が溢れそうになる。彼のように、自分の心はプラスチックでできているのではないかと疑ってしまうような人間でさえ。

 

 好きな人がいるということだけで心が異常にハイになっていることをシズオは自覚していたが、その凄まじさは理屈でどうこうできるものではなかった。かなり大きく心が振り切れて、脳みそがぶっちぎれそうになる。その後でふと冷静になって少し辛くなってきたりもする。この気持ちが思ったような形で報われなかったらどうするのかと言ったような、まるで中学生のようなピュアすぎる胸の痛みをいまだに創出してしまう。シズオにとっての恋愛はボブスレーのようなもので、とにかくものすごい速さで一方通行の道を駆け抜けていくのだ。その先にあるのがゴールであろうと落とし穴であろうと、もう彼自身に決定権はない。ただ、その相手が用意してくれる結末に全速力で飛び込まされる。だからこそ彼は何度も酷いダメージを受けてきており、しかし、それにも関わらず数年に一度はこの地獄のレースに出走していた。

 

 結局自分は地道な思考の積み重ねの先にまとまった、落ち着いた考えを導き出すことができるタイプの人間なのだなとシズオはふと思った。力んだり、勢いで行動すると毎回確実に後悔しているし、やはりそのいっときの強い感情に心を支配された状態では冷静な判断力に欠けているということなのだろう。それでもう何度も酷いことをしてきた自覚もある。もう今は、自分のエゴを誇示する必要もないと少なくとも理屈では理解できているし、だからこそ自分のことに関してはとにかく毎日の地道な努力だけが重要なことであり、それと同時に他者の気持ちを可能な限り思い浮かべて、自分の周囲の人間や環境に良い流れを生み出すようなそんなイメージを持つことを大切にしたいとシズオは考える。自分はいつも周りからたくさんのものを受け取っているのだから、それに感謝してなにか良いものを返していくべきなのではないか、と。シズオにしては珍しい謙虚モードだった。

 

 職場ではこれといって面白いことは特になく、シズオ自身も今日は最初から疲れていた。要は全くやる気が起きなかったし、色々とどうでもよかった。そんなふうに考えるべきではないのかもしれないし、周りには同じように働いている人間もいるのだからやれることをやるべきというのが普通のところなのかもしれないが、シズオは自分に対して嘘をつくようなことすら面倒だった。正直に面倒くさがっていた。蝉の抜け殻がフラフラしているのと同じようなものだったと思う、今日1日に関しては。

 

 シズオは早朝の5時に目が覚めて、それからなんとなく思い立って秋っぽい服装に着替えて散歩に出かけた。妙に目が冴えてしまっていて、休日なのに予定がなにもなかったこともあり、いつもと違うことをしようと彼は考えたのだった。久々に朝焼けを見ることができたが、特に感動したというわけでもなかった。珍しい柄の野良猫を見かけた程度の些細な驚きといった具合だろうか。ただ、とにかく涼しくて快適だった。当然人通りも少なく周りも静かで、イヤホンをしなかったのはやはり正解だったなと思った。途中で何人かの人たちとすれ違ったが、なんとなくこの人たちは毎日この時間帯に同じその場所を歩いているタイプの人たちに思えた。動きがどことなく事務的だったからだ。それに対して俺はずいぶんテキトーにフラフラと小一時間程度歩いて、それからセブンイレブンに行ってホットコーヒーとマフィンとカレーパンを購入した。レジで会計をしてくれた若い女の子は某地雷系YouTuberに少し似ていた。

 

 今日はあの子と少し会話が出来る瞬間があって、ほんの束の間ではあったがシズオはそのことにやたらと強い満足感を感じた。いい歳して、会えるだけで嬉しかった。そういうのは久々で、今となっては自分勝手な気持ちでもあるなと思いながらも、それは確かな事実として存在していた。出来るだけ冷静な方向に自分の心をチューニングしておきたいと彼は考えているものの、それでも心の奥底で立ち上る熱のようなものがあるように思えた。心置きなく喋れる仲間たちとの会話とはなにか違う、ある種の歪さのようなものがあの子とのやり取りの間にはあった。今はあの子の気持ちを聞いてみたい、とシズオは考えていた。

 

 「日常がつまらない」という事実を盾にして、棘のある言葉を吐き続けるだけの人間に怒りを感じているのだとシズオは気づいた。彼自身はユーモアというフィルターを発する言葉に対してかけることに意識的であり、それによって周りの空気を柔らかいものにしたいということを常に考えていた。自分が優しさを与えれば周りも優しくしてくれる、そんな淡い期待を心の隅の方で静かに抱きながらシズオは自分が口にする言葉をチョイスしていく。自分なりの愛情の示し方であるのかもしれないとも思った。

 

 特に大したことはなかったが、好きな人がいる状態であることは面白いので今のうちに色々やっておくのもありかもしれないとシズオは考え始めた。この時にしかない気持ちの揺れ動き方とか、その傾向なんかを自分なりに確かめておくのもなんだか楽しそうだ、と。好きな相手が近づいてくる瞬間のドキドキとか、どう声をかけてみるのかとか、そういった細々としたことを覚えておいてなにか学べることがあれば良いなと思うし、少なくとも今はこの曖昧な時間を楽しんでいるシズオがいた。

 

 暇な休日にシズオはひとりでスカイツリーに行ってみた。よく晴れた涼しい秋の日というカンジで気持ちがよかったし、450メートルの高さから東京の街を見下ろしてみると、「この街でまともに生きれていない俺、なんか狂おしいほどに可愛らしいな」なんて思ったりした。要は何もかもシュールに感じられるほどに、そのミニチュアのような光景はどこか気の抜けた滑稽なアンビエンスを纏っていた。視点をズームイン、アウトするかどうかの違いでしかないのだなと思うと、また少し世界の見つめ方を学ぶことができたようにも思えた。追加料金を払うと入場できる天空回廊みたいな名前の空間でEXILEが流れ続けているのは面白かったし、海外からの観光客の人たちはどんな気持ちでこの空間にいるのだろうかということを案じてしまったりもした。

 

 なんだかあらゆることに対して力んでもしょうがないのではないかとシズオは感じ始めた。もっと力を抜いて、自分が普段から大切にしているようなことを地道に積み重ねていくことに意識を向けていたいし、それがいちばん健康的なのではないかと彼は考えた。悩んでもしょうがないことを思い続けるよりも、自分が本当に辿り着きたい場所、みたいなものに目線を向けようとし続けることが重要なのかもしれないし、変に周りの人間を勘ぐり続けてネガティブな感情を抱いてしまうことは避けたかった。未来の自分が今よりも美しい存在になっていればいいなと思う。

 

 あの子の仕草が少し変わり始めてからの1ヶ月は言葉でやり取りすることが異様に難しく感じられたが、それは見方を変えると無言のうちにいくつものやり取りを重ねているようにも思えて、まるで言葉や文字を介さない交換日記のようだった。自分のところまで歩いてきたり、近づいてきたりする頻度はまるでなにかのモールス信号にすら思えるほどに目まぐるしいものに感じられ始めたし、それはなにより自分の自意識が変性状態にあることを強く認識させてくる。このゲームでしかやり取りを許されなくなってしまったようなこの状況を、いまはゆるやかに受け止めてひとつ楽しんでみるのが良いのかもしれない。

 

 最近は新しい音楽のリリースが多くて追いつくのが大変だとシズオはふと思った。楽しいけれど、あんまり聞かずに放置したままなのも気になってしまうので嫌になったりする。それでも探していたいと思うのは、そうすることで彼自身の生活のサイクルというか推進力を生み出しているようなところがあるからだ。音楽に限らず、映画や本においても同様だ。自分がどの時間軸を生きているのか見失いそうなとき、そういったものたちがひとつの指標になってくれる。自分自身の輪郭を可能な限り鮮明に把握してなぞるために、なけなしの好奇心に日々火をくべているようだと思う。

 

 つまらないポエムを100個くらいは余裕で書けそうなほどにシズオは強い思いを拗らせていた。仕舞い込んでいるその感情を、気づいていないフリをするだけでなんだか呼吸も苦しくなってくる。完全に倒錯しきっているようにも思えるが、カラダやココロが勝手に動き出してしまっているのだからしょうがないなと彼は思う。いつか打ち明けられたら良いなと思うし、それで良い結果になればなお嬉しいものだけれど、そんなようなことになったことは今まで一度としてなかったのでやはり今回も、なかなか悩ましい。しかし、これはこれで楽しいとも言える。

 

 たまにギターを弾いてみようかと思う瞬間がシズオの中で訪れることがあるのだが、それは自分に対しての自信のなさが表出していることの表れなのではないかと彼はふと思った。かつての自分の得意だったことを引っ張り出すことで虚しさを補完しようとしている節があるということであって、実際、いざ弾いてみるとあまりしっくりこなかったりする。ノスタルジックな成分が強すぎて新鮮味はもうそこにはない。ただの、かつての手癖をなぞる行為でしかないのだ。だから今は、これ以外の新しい方法で不安定な感覚を優しく受け止めることが大切なのかなとシズオは思う。たとえばこうして文章を書くことなどもあるが、これに対してはまだギターほどの手応えや自信、テクニックなどが揃っていなくて、未熟な段階なのだということなのだろう。

 

 単純にあの子はまだ心を開いてくれていないような印象があるようにシズオには思えた。これから関係性がどうなっていくにしろ(もしくはなににもならないにしろ)、もっと距離感を詰めていっても良いのではないかというふうにも感じられる。もちろん、それは相手が不快にならない範囲を見極めながらになるのだけれど。やはり焦る必要はないということなのか。仲良くなろうと努めることは、毎日少しずつでもできるだろうから、今はそういった姿勢で臨むのが良さそうだとシズオは思った。今日、あの子と会話をしながらそういった事柄に今更気づき始めたことで、少し心持ちも変わったような気がする。時間をかけて仲良くなれたら良いなと思う。

 

 部屋の隅で埃を被ったギターケースごと、シズオは弾かなくなっていたエレキギターを友人の手に引き取ってもらった。新たなものを得るために手持ちのものをひとつ手放すような、そんな感覚とともに手渡した。久々に外の空気に触れて友人の背中に背負われたそのギターケースを見ていたらなんとなくシズオはホッとした。あるべき場所に返してあげることができたようにも思える。「またいつか弾きたくなる日が来ると思う」という友人の言葉が、その現実とともに再び自分の元に帰ってくる日が来るのかどうか、今は全く想像がつかないけれど、それまでになにか新しいものを自分の手にすることが出来れば良いなと彼は思った。

 

 ギターを手放した次の日、シズオはなんとなく心寂しいような、頼りないような感覚を覚えた。10年以上付き添ってくれたものを、友人の手に渡しただけとはいえ手放すのは割と大きな決断だったのかもしれないと彼は気づいたりもしたが、その分清々しさのようなものもいくらかあった。なにかにしがみついたままでは辿り着けないところもきっとあるだろうと、しばらくはそんな気持ちで生きていこうかと彼はいつもより広い空間を抱えた心とともに考えてみたりした。

 

 28歳の自分が「好きな子がいるから頑張れる」ということをまだ真剣に考えたりしているとは、シズオは意外と想像していなかったなと思った。いつまで経っても案外そういうものというか、なんだかピュアすぎるなとも思ったけれど変に腐った感じになってしまうよりかは自分らしいのかなとも考えてみたり。そんなわけで今日も意味のわからない頑張りを発揮する瞬間があった。それはそれで良いのかもしれないが、この思いをいつかちゃんと本人に伝えられる日が来るのかどうか、それに関してはタイミングを掴むのが難しすぎて最近は途方に暮れ始めていた。

 

 ギターを手放してからなんとなく心許ない気持ちが胸の中で魚の小骨のようにつかえている感覚をシズオは感じていたが、自分の得意なことを身体から切り離したのだからそれは当然かもなとも思った。とりあえず今は文章を書く技術や知識量といった、自分の中でまだまだ未熟な部分を少しずつ努力しながら成熟させていくタイミングに差し掛かっているということのなのだろうかと考えをまとめてみたりしていた。

 

 安易に口にしてはいけない言葉というものは意外と多く存在するのかもしれないとシズオはふと思う。エゴイスティックな内容であったり、他人にとって曖昧さの多く残る言葉というのは最終的には自分自身の足枷になることが多いというか、実際にそういったことで思い当たる記憶がいくつかあった。それとは逆に、きちんと言葉にした方がいいという言葉はおそらく他人をケアするような目的のものかもしれない。どれだけ周りの気持ちを汲んであげられるかというところで、自分が発する言葉の種類も変わってきてしまうのだろう。上手くやること、空気がきれいに循環するようなムードを創出することも大事なのだろう。

 

 なんとなく日々、新しく夢中になれるものを探しているようなところがあるなとシズオは自分自身に対して思ったが、今はそういった模索の行為自体がメインテーマの時期なのかもしれない。なるべく自分の心から古くて使わなくなったものを整理していきながら、今まで知らなかった知識や感覚を取り入れようとする流れを生み出していくことが何より大切で、それによってこれからの生き方のような少し大袈裟なレベルまで考えをまとめていけるのかもしれない、と。そんなふうな意識で時間やお金を使うことができたらいいなとシズオはぼんやり考えた。

 

 たまの休みの日にいらない服やものを整理したり、自分の今の好みに合わせた必要そうなものを揃えたりといったことをこの数年の間にシズオは繰り返していたが、ここ最近になってようやくそうした細々としたものたちの分量が自分のキャパシティに見合ったものになってきたような感覚を彼は覚え始めた。ここまでくるのになぜか30年弱を要した自身の容量の悪さに彼はなんとなく心を震わせたが、それでも自分の把握しやすいモノの量が感覚的にわかるということは非常に安心感をもたらしてくれるというか、物理的な面だけではなく精神面においても心の状態を整理したり把握したりするのにも有効な状態であるように思えた。ここからは今のモノの分量を基準に足りなくなったり壊れたりしたものなどを補填するような感覚でいればいいのかなと彼は思った。

 

 シズオが高校生の頃に買ったギターアンプを粗大ゴミとして回収してもらう日が来た。朝起きてアンプを見つめていると思ったよりも湿っぽい気持ちが湧いてきたが、わざわざ涙を流すほどでもなかった。しばらく考えてから、なんとなくアンプの埃を被った角っこにそっとキスをしてみた。なんでそうしようと思ったのかはよくわからないしカッコつけすぎている気もしたがそれほど後悔もないようにシズオは思った。アンプの取手を掴んで階段を降りて玄関のドアを開け、少し冷える朝の道路沿いに運んでいった。あんまり湿っぽくなっても良くないと思いあえてサッと置いてさっさとまた家に戻った。鎮魂歌としてそのアンプでよく練習したB’zを聴いてみたがなんだか退屈な音楽に思えて、やっぱり途中でやめた。これから自分はどうなっていくのだろうかという揺れるような思いと、新しい自分になりたいという仄かな前向きさがシズオの胸の中で小さくじんわりと広がっていくような気がした。

 

 いざ気になるあの子としばらく話してみてシズオが気づいたのは自分自身の中で肥大しすぎた誇大妄想的な思考があまりに盲目的に繰り広げられていたことだった。誰かを好きになるということはそもそもそういうことなのかもしれないが、何気ない会話の中でなんとなくドライブしない感覚を覚えてしまった瞬間に実際の現実の温度感をそこで始めて知るような、少なくともそんな感触があった。なぜ今まで好きな子が遠く感じられるたびに自分が強くストレスを感じる瞬間があったのか、そこで今更のようにシズオは理解し始める。霧のように曖昧なイメージへの執拗な執着というものがいまだに、というかこれからも自分自身にに付き纏い続けるのだろうかと、彼は少し途方に暮れたりもした。

 

 誰か特定の人に対して無思考に怒りをぶつけることは何か違うとシズオは思う。そもそもこの世界で巻き起こるほとんどのことにわかりやすさなどはないわけで、ひとつ一つの事象には何かしら具体的な原因はあるのかもしれないが、それらが無数に絡み合って理解不能なカオスを生み出しているのがこの現実世界の実像のようなものであると彼は考えているので、もし仕事やプライベートにおいてなにかしら怒りや苛立ちといった強い感情を胸の中に感じたときは頑張ってそういった実像のイメージについて思い出すことに努めるようにしていた。100%納得がいくことなんてほとんどないのだから、訳がわからないということをまずは受け入れてから静かに胸の内のほとぼりが覚めるのを待つしかない。それが彼なりのネガティブな感情に対しての向き合い方だった。

 

 イヤホンで音楽を聴きながら街中を歩いたり、動画を見ながらご飯を食べるといったような「ながら」的な動作がうまく出来なくなってきたということについてシズオは職場の先輩である年上の女性との会話の中で話したのだが、その人はシンプルに「疲れてるんじゃないの?」と返してくれた。あまりにシンプルな答えだったのでシズオは一瞬面食らったが、確かに最近は自分が神経質な人間であることについてばかり考えていたりしたので、本当にそうなのかもしれないと思った。とはいうものの、どうすれば効率よく疲れが取れるのかについては、シズオは30年弱程度生きてきているにも関わらずほとんど知らない気がした。風呂に入るといった程度のことしか思い浮かばなかった。

 

 シズオは眠っている間に面白い、というか変わった夢を見た。夢の中で彼は高校生くらいの学生に戻っていて、たまたま知り合った同い年の女の子と仲良くなって彼女の家に遊びに行くことになる(急すぎる気もするが)。そのときすでに辺りは夜になっているのだが、いざ彼女の家に着くとそこには全く電気が灯っておらずとても誰かが住んでいるようには思えないほど全体的に汚れているというかくすんでいる。しばらく彼がその家のまえで呆然としていると突然後ろの方から足を引き摺るようにして歩く四十代前後と思しき女性がまるで茫然自失といった様子で歩いてくるのに気づいて驚くのだが、女の子はその女性を見るなり「あ、お母さん」と呑気な声をかける。するとその直後に今度は家の壁を伝うようにして白い仮面をかぶったスーツ姿の男性がヨタヨタとシズオの元に歩いてきて、彼は腰を抜かして驚くのだがこれに対しても女の子は「お父さん、帰ってきてたんだ」と当たり前のように反応する。だいたいこんなような夢を見た。その家に辿り着く前にラーメン屋のそばを通るのだが、そこでもとある小学生くらいの男の子に出会う。彼は自閉的な様子を見せているというか、女の子が声をかけても目を合わせることはせず、微かに頷いたりするのみ。しかしそれが当たり前のやり取りのようであり、彼女が特に気にするそぶりは見せない。日常的に面倒を見てあげているという様子なのだ。

 と、だいたいこんな感じの夢だった。

 

 シズオはマリオの新作のゲームを退屈凌ぎとして買ってみたが、2時間プレイしてみたところで全くエキサイトしていない自分の気持ちに気づいてしまい、そのまますぐブックオフまで行って売ってしまった。6,000円で買ったものが2時間で千円札4枚に変化した。俺にとって映画や音楽はかなり面白いものというか、少なくとも売ったマリオのゲームの100倍くらいは楽しめていることがはっきりとわかったのでそういった点では非常に実りのある時間や金の使い方ではあった。

 ブックオフからの帰り道、シズオは歩きながら心の中で、自分が常に追い求めているものや文章を書くことを通して得ようとしている感覚は「心の平穏、安らぎ」なのだということをやんわりと確信した。

 今日の「マリオ事件」は自分の心の中で哲学的な寓話として静かに、永遠に刻まれるかもしれないとシズオは思った。自分の中でこれだと決めた気持ちのカードを一枚だけ据えておくこと。最初に自分が始めた思いを最後、ケジメがつく瞬間まで保ち続けることが何より大事なのだと。単純で即物的、物質的な豊かさが欲しいのではなくて、自分の気持ちにきちんと決着をつけることが自分には必要な気がする。

 

 好きな人の近くまでいって実際に会話をしてみると、改めて自分の胸の中に立ち上る情感が不思議なもののようにシズオには思えた。何が好きだから、とかこういうところがいい、というような具体的な理由があるからというよりはもっと直感的な、感覚的なものでしかないような気もする。それは雑な言い方をするとただの性欲ということにしかならないのかもしれないし、果たして透き通る水面のように清らかなものであるかどうかはよくわからなかったが、その「よくわからなさ」こそが大事なのだろうか、と。要は、シズオは今日もその人の前ではドキドキしてしまったということなのだが。

「エクソシスト 信じる者」鑑賞後メモ

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 アメリカという国を構成している根幹的な思想として存在するキリスト教的なマインドを解体していくことを今作は試みているというか、より平たく言えばアメリカに暮らす白人中年男性による自己批判的なトーンが本編を覆っている。それぞれの人物造形が図式的すぎるきらいはあるものの言及している事柄自体は非常にシリアスで根深い問題だ。

 主人公のヴィクター(レスリー・オドム・Jr.)は過去の経験により宗教に対しては懐疑的な感覚を抱いている黒人男性であり、とはいうものの基本的には理知的な柔軟性を元にした思考や行動を取れる人物であることは一人娘のアンジェラとのやりとりなどを通して端的に示される。その他にも、今作における女性は基本的に物事を落ち着いて捉えることが出来る存在ということが一貫している(というか監督であるデヴィッド・ゴードン・グリーンが自戒的なテンションに振り切っている)。また、アンジェラと彼女の親友であるキャサリンとの関係性においては直接的な言及はないものの、森の中での降霊術的な儀式における親密さにおいて若干クィア的なムードも仄めかされているようだった。こうした人種、ジェンダー、ジェネレーションのレイヤーによって、今作においては彼らが保守的な白人男性コミュニティ(教会やその関係者が象徴的)と対をなす存在であることが示される。

 上述したような人物造形の振り幅があるものの、最終的には全ての人物(非白人的な存在であっても)がキリスト教的な神話の構造に包摂されていくような展開となっていく。その中で浮き彫りになるのは、自分自身の思考体系を構成する根幹的なマインド(今作においては特にキリスト教)を相対化すること、そしてその思想を超えて身近な人間の実像を捉えることのある種普遍的でもある難しさだ。ここにおいては、ヴィクターが職業カメラマン(虚像を見つめ続ける仕事)であるという設定が静かなアイロニーとしても効いている。アフロ・アメリカンであるヴィクターやアンジェラらが強いられる苦難も切実なものではあるが、Z世代の若い白人女性の行き場のなさの描き方はかなり厳しいというか、やはり最初に記したような自己批判的な意味合いが非常に色濃い印象を受けた。