「MEMORIA メモリア」鑑賞後メモ

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 まるで仙人のような映画だ。説教を垂れるのではなく、そこに進むべき道があること、いや、もうただゆっくりと思うがままに歩んでいけば良いのじゃと言わんばかりに我々を静かに「物語」へと誘ってくれる。それは至高の体験と呼んでもいいかも知れない。まるで最高品質の鍋と出汁が始めから用意されていて、あとはお好みの肉や野菜を好きなペースで入れては食べられる店のようというか、そもそも座るソファやテーブルの材質から選ばせてもらえるようなそんなレベル(それは逆に面倒臭くないか?)。まあ、要は全編に渡ってとにかく映像と音の快楽に溺れることが出来る。なのでまずはみんな観てみよう。

 さて、いきなりやたらと褒めちぎってしまったが、逆にはっきりとした筋書きや派手な展開を求める人には向かない作品なので、ある意味好き嫌いの分かれやすいものではあるかも知れない。(駄目だった人は「サイバーパンク」か「リコリコ」を観よう)

 本編冒頭、薄明かりがカーテンから透けている寝室が映される長回しのショットでこの作品の基本的なテンポ感がなんとなく示される。非常にゆったりとした作品であり、それでいて情報量は多いということを数分間に渡る寝室を中心とした場面のみで示す手腕のスムーズさに始めからシビれる。その予感が裏切られることはない。病室やレコーディングスタジオでのやりとり、また交差点でのとある出来事を映した場面から示唆されるのは、この作品が一人ひとりの物事の捉え方の違いを描くものであるということだ。同じものを聴いたり見たりしているけれどそれを通して感じていることや考えていることは全く異なっている。それでもその感覚を誰かに可能な限り正確に伝えようとする行為の尊さを描いているし、まさにこの作品自体がそれに対する一つの試みであることは間違い無いだろう。

 「伝える」という行為において鍵となるのは記憶だ。聞き手の記憶に共振するような伝え方をすることでより具体的な理解を目指す。それは映画というアートフォームが観客に感動を与える構造とも合致する。他人の心に直接触れることは不可能だ。作品の後半に登場するある男が「眠る」姿によってそれをまさに体現しているようでもあった。それに対して作品内において人々の間の架け橋となるのが「音」を通して示される物語だ。ミュージシャンたちによるセッションや終盤での主人公たちのやり取りがそのモチーフになっている。「妄想の深淵」において、人々は指先ではなく波動によって誰かの心に触れることを試みている。

 そしてさらにこの作品の凄みは、物語という形式の根幹に普遍的に宿る感情にまで深く潜り触れようとしているところにある。作品終盤において、物語とは痛みだというひとつの見方が提示される。主人公が抗不安薬の処方を医師に求めた際に「そういった薬は共感力を失くす」という旨の台詞が返されるのは物語による共振のメカニズムの根幹に痛みという感覚が存在していることを示すためでは、と考えている。生活において避けがたく存在する様々な不安や痛みはときに我々を容赦なく追い詰めるが、それらは共感力、エンパシーといった能力に転化することも可能であり、他者をサルベージするための鍵になり得るという希望がここにあるのではないだろうか。

 とまあ、色々書いてきたが、こういった主題に沿って他にも不思議なポイントがいくつもある映画だ。複数の自動車の警報装置がなんの前触れもなく作動して不思議なアンサンブルが始まったり、ティルダ・スウィントンvs野良犬という謎の構図が拝めたり、急にどこかに消えてしまう人がいたり…しかもなにげにユーモアのセンスもバリ高くてちょいちょい笑える箇所がある。恐るべし、アピチャッポン。

 ラストのとあるトンデモ演出も含め、やはりあくまで「触れざる領域」がそこにはある。それでも1日のうちの2時間16分をこの作品のために割いて物語に深く潜る価値は十二分にあると言えるだろう。その深淵に響く「あなたにしか聞こえない」波動にそっと耳を澄ましてみればいい。

私の日は遠い #11

 朝から雨が降っていた。普段よりも落ち着いた空気の中を涼しい風が通り抜けてきて、ベッドで横になっていた達夫の肌をスッと撫でた。朝食まではまだ少し時間があるからということで、彼はしばらく寝転がりながら濡れた窓と景色を眺めていた。それは達夫にとってなかなか快適なひとときだった。まるで曇り空のグレーに自分の心を浸して潤いを取り戻していくような感覚を彼は覚えていた。どこまでも満たされて透き通るイメージと共にゆっくりと深呼吸をすると、近所のコンビニで雑誌を立ち読みしながら涼むことを夏の喜びだと信じていた小さな自分が少しずつ蜃気楼のように遠のいていく気がした。

 達夫は自分が寝ている部屋を見回してみた。寝室だけで一般的な一人暮らしの部屋よりもデカかったし、家具はどれも無駄に黄金でピカピカしていた。コカコーラを飲むために借りたグラスでさえ王者のような輝きを放っていて達夫はもはや気後れするような感じすらした。ドレイクとかビヨンセぐらいになれば現実でもこういう家に住めるのだろうかとくだらない妄想も浮かんだ。

 オグレの屋敷でしばらく過ごしても達夫には彼が一体何者なのかはよくわからなかった。二人で食事をとったりバカでかい庭でテニスに興じてみたり、大浴場で同じ湯船に浸かったりもしてみたが肝心なことがボヤけているような気がしてならなかった。いつも微笑んでいて余裕がある様子でくつろいでいる彼はただのんびりしている人にしか見えない時もあるが、どこか技巧的というか作り物を見せられているようでもあった。風呂に入った時もなぜか湯けむりが濃いように感じられて彼のモノのサイズ感も達夫は確かめ損ねていた。それがなんだか妙に悔しかった。とにかく色々と快適ではあるが、常に小さな不安が胸の片隅に張り付いているような心地のまま出来の悪い夢の中でくつろいでいる、そんな感じだろうかと達夫はさっき鼻から引き抜いた長めの鼻毛を静かに眺めながら思った。

 

 しばらく後になってメイドの女性が朝食の準備が出来たことを知らせに来てくれた。年の頃はたぶん23歳、とかその辺りだろうかと思われるその細身の女性はこれまたオグレと同じく常に微笑みを表情に纏っていたが、そこに温度感はあまりなかったためどうしても得体の知れないところがあった。それでも、基本的にはずっと良くしてもらっていたので達夫は素直に彼女に礼を言った。何日か前に彼女が部屋を訪ねてくれたとき、部屋に常備されているチョコレート菓子を彼女に勧めてみたのだが、やはり丁寧に断られた。今後、彼女との距離感がふとしたきっかけで縮まることもあるのだろうかと考えながら、そのひとがドアを閉じて去った後で達夫は服を着替えた。

 食堂までの無駄に長い廊下や階段を、特に急ぐ必要もなかったので達夫はゆったりと歩いた。

 屋敷内の通路はほぼ全て赤い絨毯が敷かれており、足を踏み込むとふわりと柔らかな弾力を感じることが出来た。達夫にとってそれは訳がわからないレベルのホスピタリティ精神であり、この親切さを全人類に均等に配分出来れば忘れかけた大切な感情を取り戻し始める人々も増えるのではないだろうかと思われた。

 階段を下り食堂がある階に向かう。すると、降り切ったところでオグレと鉢合わせた。すっかり見慣れた微笑みと共に軽い会釈を寄越してきたので達夫も適当に軽く頭を下げて反応した。それから、二人で並んで食堂まで歩いた。

 「昼にはあがるらしいですよ」とオグレは言うと視線を窓のある方に向けた。相変わらずパタパタと雨粒が弾ける音がしていた。

 「マーサさんも顔出しに来るかな?」と達夫。

 「まあ、天気予報の通りになれば来るのではないでしょうか」とオグレが返す。

 「中世ヨーロッパ風の屋敷に住んでるくせに天気予報はチェックしてるんだな」

 「便利ですからね、そういうテクノロジーには頼っていきたいものです」そう言うとオグレは手首に巻いてあるスマートウォッチのような装置のモニターに目をやった。

 「とは言うものの、いつチェックしても私の体調には数値的な変化がなかなか訪れないので場合によってはただ鬱陶しいだけですね。少し落ち着きすぎなようです」

 「お前はガジェットマニアか何かなのか?」と達夫が尋ねる。

 「こんなところに住んでおいて難ですが、そういう側面はあるのかも知れないです。あるいは単にミーハーっぽいのかも、なんてね」とオグレはいたずらっぽく笑ってみせた。

 「俺も大人になってからはテレビゲームやるのに興味ないんだけど、最新のゲーム情報とかチェックするのはなんか今だに好きなんだよね。それみたいなカンジ?」

 「なるほど、そういう感覚があなたにもあるのですね。つまりは子供の頃の習慣が今だに心身に染みついたまま、ということなのでしょうか」

 「オグレの子供時代なんて想像しにくいな。母ちゃんの腹の中から出てきた瞬間からそうやって微笑んでそうだもんな、お前」と達夫は冗談めかして言った。

 ふふふ、とオグレが小さく笑う表情を達夫は横で眺めていたが、透けて見えてきそうな彼の過去の幻影はそこにはないように思えた。

 そうして見つめる視線に反応するようにオグレがふっと達夫の方に顔を向けてきたので彼は少しドキッとした。

 「もしくは、交信していたいのかもしれないですね」とオグレが何故かさっきよりも少し落ち着いた響きでポツリと呟いた。

 しばらく反応に戸惑った後で、達夫は「…それは誰と?」と返した。

 すると、オグレは再び前に向き直ってから言った。

 「夢、ですかね」

 オグレが真面目なのかふざけているのか達夫は捉えかねて、思わず立ち止まってしまった。

 数歩先の方まで歩いたオグレがそれに気づいてゆっくりと振り返った。

 「訳のわからないことを話してしまってごめんなさい。好きなんですよ、こういうこと考えるのが」

 さあ、食堂はもうすぐそこですよと言いながらまた歩き出したオグレの後を追うように達夫もまた歩き出した。湯けむりでボヤけたオグレの股間のことを思い出しながら。

 

 

 

続く

「ザ・ミソジニー」鑑賞後メモ

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 高橋洋監督による前作「霊的ボリシェヴィキ」において描かれていたのは人間が触れざる領域や力とのすれ違いであったと思う。直接的にはっきりと目にしたり手に触れることはほとんどないが確かに存在していることだけはなぜか確信出来てしまう、言葉では説明できない何か。各登場人物の体験をそれぞれの語りのみで描くことでその言葉に出来ない感覚を倍音の如く増幅させ、あまりにも奇妙な、しかしそれでいて無駄なく研ぎ澄まされた降霊の儀式をカタチにしていた。それに対して最新作である「ザ・ミソジニー」はそもそも人間の中に存在している触れざる領域を「神秘」として描いている。

 そもそもミソジニー、つまり女性蔑視という感情自体が人間に特有の屈折した感情だ。あまり専門的な知識はないが、個人的にはこの感情は母性的な愛情を強く求める感覚と分かち難く存在しているのではないかと考えている。劇中の「母娘」の描写の如く互いに愛情のピースを嵌めることが出来ないことに強い苛立ちを覚えると同時に、無意識に理想的な母性に執着し続けてしまうことでマグマのように噴き上がるどす黒い感情なのではないか。だからこそイメージ通りの型に当てはまらない(つまりは「理想の母」以外のすべての)女性たちを憎むことになる。これは「神秘」というよりは「地獄」であるかも知れないが、人間として生きていく上では誰もが避け難い領域であるはずだ。たとえ論理的な理解が可能であったとしても、だ。

 ミソジニーについて語られるとき、男性が持つそれについての話になることが多いとは思うが、この作品においては「母」と「娘」の関係性を通して語られる。「男は死んでも何もないが、女は流した血の量に比例したダークな感情を抱えて蛇に生まれ変わる(ちょっとうろ覚え)」という劇中での言及が、男性原理主義的な社会構造に起因する怨嗟の連鎖に絡め取られ続ける女性性のひとつの側面を端的に表していた(もちろん人によってその感覚は異なるとは思うが)。

 世界を取り巻く既存の構造から抜け出しきれない人間の愚かさ、執着の強さがミソジニーの根源にある。「すべては神秘に始まり政治に終わる」ことは、ある種の地獄であるのだろうか。

 それでもこの作品が最後に二人の女性が互いに手を振り合うショットで終わるのは、あくまで人間が持つ神秘性を肯定したいということだったのではないか。一方が手を振り、それに反応して相手も手を振ってみるというあまりにも単純な言葉を介さないやりとり。まるでふたりはこの混沌に塗れた世界において友達同士のように励まし合っているふうにも見えた。

 いくつドアを開いてもまともに把握しきれない領域が無数に存在し折り重なるこの世界の中で、それでも人間はときに途轍もない執着心と共に「見えないもの/触れざるもの」を呼び起こそうと力を尽くす。その姿は俯瞰して見るとクスッと笑えるほどに奇妙なものであるのかも知れないが、そこに魔があり神秘もある。それを映画というアートフォームを通して表現しようとする人々がいるということが、とても素敵に思える。

「LAMB/ラム」鑑賞後メモ

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 アニメ版チェンソーマンの主題歌は米津玄師の「KICK BACK」という書き下ろしの曲になるそうで、しかもモーニング娘。の「そうだ!We’re ALIVE」からサンプリングしたネタを使っているらしい。実際にモー娘。のその曲を聴いてみたら70年代のディスコ的なサウンドが鳴っていたからヒップホップ的な感覚で使われているものとしてなんとなく理解したりするなど。MVもこの時代に見るとなかなか感慨深いものがあった。サンプル元というフィルターを一枚通すことでリリックに対してもあくまでひとつの時代性を象徴していたものという視点を導入することが出来るから不思議な哀愁すら感じた。ストリーミングで配信されていない楽曲というのも割とミソなのではないか、なんて考えたり(YouTubeで聴けるけれど)。

 というか、なぜいきなりこんな内容から書き始めているのかって、それは、やっぱり人間生きてる限りは「幸せになりたい」と思うよね〜って話をしたかったからである。でもそれって一体何によって担保されるのだろう?タダで、ふとしたラッキーで幸せになることもあるかも知れないが、実は案外薄皮一枚めくったところに腐臭が漂っているものかも知れない。

 「LAMB/ラム」は人間社会における搾取構造についての話だ、と語ることもできるだろう。真面目なテンションで見るとこう読み取るのが最もシンプルな気がする。強者が全てを手にして、弱者がその足元に横たわっている。アイスランドの、なんとなくシガーロスとかビョークとか安易に連想してしまう広大な自然のど真ん中で繰り広げられる話なのに気がついたら資本主義社会についての寓話にもなっているというのがなんとも捻れた構造だ。

 しかし、この真面目な語りからもう少し我々の生活感に近い感覚にこの物語を手繰り寄せるなら、やはりこれは「幸せになりたい」という感情についての物語だと捉えるのもアリではないか。満たされないのは嫌だ、失うものはあってもタイムマシンはない。時間旅行も理論的には可能らしいが、イヤイヤ訳わからんしそんなの関係ねえ〜とばかりに我々はタブーを犯し続ける。

 もう一つ書き記しておきたいのは、この作品は動物の視点に合わせたショットも多分に含まれているということ。冒頭なんて初めて人間が出てくるまでに割と時間がかかったので、思わず「ウォレスとグルミット」的な映画かと思いかけたほどだ。これが動物と人間をあくまで並列して描いていくという作り手からのエクスキューズとして上手く効いており、それによって逆に人間特有の暴力性が浮かび上がる構造にもなっている。

 その暴力性は、「境界線を引く」という行為によって表現されている。これについても冒頭から「内」と「外」を意識させるようなショットが続き、強調して描かれる。異質なもの、日常を脅かす(と思い込んでいる)ものを退けるために柵を設け、ドアを閉め切る。また時にはその線を意図的に飛び越えて新たな快楽を得たり。この物語には数人の登場人物しか出てこないにも関わらず、ひょこっとひとりの他者が介入してくるだけで主役である夫婦の関係性もこじれていく。それもこれもやはり起点にあるのは「幸せになりたい」という感情だろう。

 

 余分な説明的要素を排除する省略話法によって醸し出される不穏さは魅力的なところもあるが、個人的にはそれによる余白が大きすぎるようにも感じられた。演出のキメが少し粗いような印象も。

 それでも基本的なプロットや主題自体は個人的にとてもしっくりくる内容だった。だって、憧れちゃうよな。「幸せってやつ」に。

「百花」鑑賞後メモ

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 「他人の始まり」というフレーズを思い出した。これはECDの著作の中で出てくる言葉だ。家族という続柄や社会的な立場から解き放たれて再びひとりの人間、生き物へと純化していきやがてはこの世界からも逸脱していく。それは泉(菅田将暉)の視点から見れば母親のアルツハイマーの症状が進行するシリアスな過程でもあるが、百合子(原田美枝子)自身はそれをどのように感じていただろうか。

 百合子のなかでバラバラだった時間や記憶、空間がまるで本編のワンカットで撮影されたシームレスな映像のようにつながっていく。最終的に彼女が迎える結末からは、人間を力強く駆動させるものは「悲願」のような感情なのではないかと思わされた。何故かそれが果たされる瞬間というのはなかなかやってこず、それでも手を伸ばさずにはいられない。これは作中の百合子に限った話でもないだろう。そんな、もがきのような過程のなかで百合子は泉という息子を授かった。彼女はきっと泉を通して新たな喜びを知るとともにかつて果たされなかった願いもそこに見ていたはずだ。それが百合子にとっての愛の始まりであったであろうから。

 全編を通して録音も非常に優れており、これが長回しのショットと合わさることで観客は彼女の空間感覚を自分自身に重ねることが出来る。それはあくまで彼女のひとつの側面であり、物語の中に数多く残された余白のごとく「真実」を知ることは限りなく不可能に近い。それでも、百合子が忘れていった記憶が息子の泉にある種誤配されることで今度は彼自身の記憶が想起され始める。それは百合子とは違う視点の物語ではあるが、確かに母親とその瞬間を共有したという事実は存在していた。幸福なすれ違いのなかで、他人としての母親/百合子の姿が浮かび上がり始める。

 水面に反射する花火のごとく、実像の全てを目に焼き付けることはできないが、その美しい断片/虚像の中に忘れられない記憶が宿る。それはひとを癒し、苦しめ、追い詰め、やがて少しずつ透明に澄み切っていくのだろうか。

私の日は遠い #10

 どこまでも真っ直ぐに伸びていくような渇いたアスファルトは真夏の太陽の熱に晒されて蜃気楼にボヤけた空間を生み出していた。その揺らぎを切り裂くように法子は、明るめのブルーの塗装が施された67年型のインパラを走らせていた。カーステレオからはラジオが垂れ流されていて、今はボサノヴァのような音楽がかかっていた。法子はボサノヴァに詳しくはなかったが、涼しげな音が気持ちいいので機会があればいつかレコードを購入してみたいと今まで何度か考えては時間が経つとそのことを少しずつ忘れていった。そしてふとしたタイミングでまたそのことを思い出した。まだボサノヴァのレコードは一枚も棚に収められていない。

 レコードと言えば、音楽好きの友人夫婦の家に招かれたときに分けてもらった手作りのマーマレードを久しく味わっていないことを法子は思い出して少し懐かしいような寂しいような気持ちにもなった。冷蔵庫に入れておいてキンキンに冷えたのを食パンにベタベタ塗って食べるだけでそれはほんとうに美味しかったし、ひんやりふわっとした食感が朝に食べたりすると気持ちよかった。

 法子が訪ねたとき、その友人の家のレコード棚で端の方に並んでいた真っ白なジャケットに彼女はなんとなく興味をそそられた。それはビートルズの「The Beatles」というアルバムで、通称「ホワイトアルバム」と呼ばれているのだというようなことを法子は教えてもらった。よかったら聞いてみますかと旦那さんが気を利かせてプレーヤーに盤をセットし針を落としてくれた。法子にとってはそのタイミングで初めて聴くアルバムだったので、正直そんなにすぐには音に対してピンとくるものがないように思われた。しばらくそんな調子で曲をかけながら法子たちは談笑なんかをしながら過ごしていたが、不意に聴こえてきたピアノのフレーズが妙に胸に響く感覚を覚えて法子は曲名を尋ねた…。

 こんな調子で法子が思い出に浸っていたところを不意に後ろのトランクの中からドタドタと蹴りを入れるような音が遮った。割と長い時間が経ってしまったようだと法子は思った。

 さようなら、またいつか。淡いノスタルジーに対してのささやかな情を数秒間噛み締めた後で、彼女はアクセルを今までよりも少し深く踏み込んだ。

 

 なんだか疲れてきたな、と感じ始めた法子は適当に目に付いた通り沿いのダイナーの駐車場に車を止め、マルボロのメンソールを一本吸ってから車を降りると店内に入っていった。トランクからは蹴るような音が相変わらず聞こえていたが、人通りも特にないようだったので放っておいた。

 ダイナーのドアを開ける。昼下がりの時間帯で、客は法子の他には数人ちらほらといる程度だった。「いらっしゃい」と気の良さそうなコックのおじさんが厨房の奥から声をかけてくれた。

 法子はカウンター席に腰掛けるとウイスキーオンザロックで頼んだ。注文を受けた店員が厨房に戻ろうとしていたところで法子はふと思い立って彼を呼び止めた。

 「マーマレードと普通の食パンはここにおいてあるかしら?」と法子。

 店員は少し戸惑うような素振りを見せたが、「ないことはない」ということだったので持ってきてもらうことにした。

 程なくしてオンザロックが目の前に置かれた。法子は再びタバコに火をつけ、それを人差し指と中指の間に挟んだままグラスを掴み酒を何度か口にした。そしてしばらくぼんやりとした意識に浸った。クソ暑い夏の光がホコリを被った窓を通り抜けて新聞を読んでいるメガネの中年男性の後頭部を照らし続けていた。彼の目の前には鶏皮だけを除けてある、カレーライスを食べ終えた食器が置きっぱなしになっていた。それは誰にも気づかれずに置き去りにされ表面が渇ききっていた。

 あの食器を洗うにはまずしばらくは水につけておきたいなとぼんやり考えていた法子は「お待たせいたしました」という店員の声でやっと我に返った。大きめの食パンが2枚とマーマレードが入った小さな透明の瓶がひとつ置かれていた。

 「ありがとうね。何故だか知らないけれど、久しぶりに食べたくなったの」

 そういうと法子は彼に少し多めのチップを手渡した。それからマーマレードティースプーンで何度かすくっては食パンの表面にぶちまけていき、さらに全体に満遍なく塗りたくったところで一口かぶりついた。二、三口食べたところで彼女はふと、オンザロックではなくコーヒーを注文すればよかったと少し後悔した。けれどもう面倒臭かったのでそのまま最後まで食べた。ひんやりとした食感自体は気持ちいいものだったが、やはり思っていた味とは少し違っていて、なんとなく目当ての場所に帰り損ねたような感覚を彼女は覚えた。

 

 食事を終えると法子はさっさと店を後にし、車を駐車してある場所まで歩いて戻った。

 しかし、車から少し離れた場所で法子は異変に気づいた。トランクの隙間から銀色の液体が溢れ出していた。ボタボタと品のない様子で垂れていた。

 「こちとら食後なんだ。もう少し綺麗なもの見せてくれないか。せめてナイアガラみたく虹を纏って輝いてくれよ」法子は車に向かって歩きながら言った。

 「真夏の車内。想像もしたくないよな。俺としては南アルプスの天然水を意識したムーブだったんだがな」

 ドロドロの液体の一部が口の形をして大倉の声を発していた。

 「ここではまだあんたを始末するつもりはないよ。やってもらいたいことがあるんだ」法子はそう言うと、手に持っていたタバコを指先で弾いて捨てた。

 

 

 

続く

私の日は遠い #9

 シーラは自由自在に自身の姿を変えることができるが、戦闘には長けていない。暇な時にこっそり忍び込んだ図書館で読んだ生物図鑑でカメレオンの項目を見つけて読んだときは親近感が湧いた。カマキリやバッタも割と近いバイブス持ってるなと感じた。人間は身体を変形させることは出来ないが衣服というものを纏って日々違うフォルムを提示しているようだと、街中をふらつきながらシーラは気づいた。しかし、そんなことはそれほど重要なことではなかった。それよりも、シーラは早くもとの住処に戻りたかった。しかし方法がわからなかった。そもそも、どうしてこの世界に紛れ込んでしまったのかもよくわからなかった。

 人間が住む街には木々が少ないようにシーラには感じられた。それでも、コンクリートアスファルトといった硬質な素材で構築された都市の隙間をひっそりとすり抜けるように水が流れている場所もあり、シーラはその水が流れていく様子を見る度に仲間の存在を思い出した。シーラの住んでいる場所ではみんな基本的に本来の姿である液状のフォルムで生活していたからだ。

 しばらく歩くうちにシーラはきれいな水の流れる広場がある公園にたどり着いた。少し疲れていたので空いていたベンチに腰掛ける。昼間の暑い時間帯で、あまり人気もなかった。

 水辺を眺めながらしばらくぼんやりしていたシーラの視界にふと、一人の女性の姿が入り込んできた。スタスタとシーラのいる水辺の広場まで彼女は歩いてくると、特にためらう様子もないまま水に足を突っ込んだ。彼女の足元で大きな水飛沫が上がった。かなり勢いがあったようで、彼女が着ていたTシャツも少し水に濡れていた。涼しげな空気を纏い始めた彼女の顔は少しだけ微笑んでるようにシーラには見えた。

 呆気に取られたようにその様子を眺めていたシーラの目線が不意に彼女と重なった。私の今の姿とおそらく同じような年齢の人間だろうとシーラは思った。

 「水、めっちゃ気持ちいいよ」

 濡れたブルージーンズと黒いゆったりとしたサイズ感のTシャツを着た彼女が笑いながらシーラに声をかけた。少し舌足らずな発音で、しかしとてもチャーミングな明るい響きを持つその声は透明感のある優しさを纏っているようにシーラには感じられた。

 「私も、綺麗だなと思いながらここで眺めていました」とシーラは返す。

 「ねえ、よかったら一緒にここ入らない?」とその女の子は足元の水辺を指差していた。

 しばらくベンチに座ったままで汗もかいていたので、シーラは自然と履いていたサンダルを脱いで水辺に足を入れていた。強い日差しの中に晒されていたからか、水の中は少しぬるく感じた。

 「真ん中の方まで行ったらもう少し冷たいかもね」

 彼女は中央の噴水を見ていた。まるで小さな間欠泉みたいに天に向かって水が噴き出していた。

 「行ってみようか」

 そういうと急に彼女はシーラの手をとって駆け出した。驚いているシーラをよそに水飛沫をバシャバシャ上げて「ぎゃー」とはしゃぐ彼女は無邪気な魚雷のようだった。一度放たれると止まらずに突き進み続ける大きなエネルギーの塊だった。

 「うーん、思ったより涼しくねえな!」

 降りかかる大量の飛沫を浴びながら彼女は大きな声で言った。間近で見る噴水は鮮やかというよりかはまるで手に負えない暴走機関車のようで音も大きく忙しなかった。

 「でも、今のすごい楽しかったです!」シーラも大きな声で返した。水飛沫のせいでうまく目を開けていられなかったので、彼女の姿がボヤけて見えた。

 「あたしね、アリサって言うんだ。あなたはなんて名前なの?」とアリサ。

 「私の名前は…シーラと言います。少し変わった名前ですよね」とシーラも返す。

 「確かにね。でも、覚えやすくていいじゃん。シーラカンスみたいだし」

 「私もこんな状況で自己紹介をしていただいたのは初めてなので、多分アリサさんのことは忘れないと思います」

 シーラが妙に生真面目な調子でそう話したからか、アリサはふふっと少し笑うと、「こんなびしょ濡れな出会い、なかなかないよね」と言った。

 

 

 

続く