「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」鑑賞後メモ

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 90年代以降のハリウッドにおいて数多くのヒット作を手がけていた映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる性的暴行事件を告発する記事が「ハーヴェイ・ワインスタインは何十年ものあいだ性的嫌がらせの告発者に口止め料を払っていた」という題とともに2017年10月5日のNYタイムズ紙に掲載された。それはやがて全世界に波及することになる# MeTooムーブメントに火をつけるきっかけとなり、実名とともに過去の性的被害をカミングアウトする女性の数も増えていった。今でこそ女性による発言や表現活動に対しての注目度は高まっているようにも感じられ、少しずつそれがいい意味でも悪い意味でも当たり前なもののようになっているけれどそこに至るまでには想像以上にハードな過程があったのだということが「SHE SAID」では描かれている。

 まず、実名で被害を告発するという行為が女性にとっては比喩ではなしに命懸けの行為になりかねないということだ。勇気を振り絞って声に出してみたところでもみ消されてしまうことが多いのは、この社会が男性優位的な構造とともに成り立っているからで、その象徴としても序盤に2016年のトランプ就任の報道が描かれている。NYタイムズ紙の調査報道記者であるミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)は当時の大統領選の最中にトランプからセクハラ被害を受けたという女性からの証言を得て、それをもとに記事を書くもその直後に何者かから脅迫を受けてしまう。その後は周知のようにトランプによる統治が始まっていった。

 トゥーイーと同じく同紙の記者であるカンター(ゾーイ・カザン)はワインスタインの元で働いていた女性が不自然な形で辞職している例が複数ある事実をつかみその周辺を調査していくものの、なかなか物事の核心に迫ることができない。やがて被害を受けた旨をオフレコ(記録に留めないこと)前提で少しずつ語ってもらえそうなところまで行き着くも、そこにおいて被害女性たちは法的な拘束力を持った秘密保持契約書や口止め料により告発することがほぼ不可能な状態に長い間追いやられていたという事実をトゥーイーたちは知ることになる。この作品はワインスタインというある種象徴的な存在を通してハリウッドや、そもそもこの世界全体を覆っているともいえる歪んだ社会構造を炙り出していくスケールのものであるということがこの辺りから鮮明になっていく。今作を監督したマリア・シュラーダーはNetflixの「アンオーソドックス」を手がけていたひとで、そういえばこの作品もかなり厳格なユダヤ系の家庭で育った女性が生まれ育った場所を飛び出すことで自分自身を外側から見つめ直す物語ではあったのでそういった面では今作もその作風に準じた構造を伴ってはいるだろう。

 劇中においてさりげなく描かれているのが道端で歩くトゥーイーとぶつかりそうになった直後に「あ、すみません」ときちんと謝るアフロ・アメリカンの青年とバーでナンパ男を怒鳴り倒した直後に目の前にいたカンターに謝るも「謝らないで」と言い返す彼女との対比で、これは要するに「リスペクト」しなさいよってことだよな、と。たしかに、作品を最後まで観てみるとその10月5日の記事を出すことがどれだけ大変な、計り知れない恐怖や不安を伴うものであったかは身に染みて感じられるし、よく実現させられたなとしか思えない。トゥーイーやカンターのような取材を行うときの誠実な姿勢とか頭の回転の速さであったり、やがては最初に実名を出すことを決断したローラのような勇敢さなど、自分は持ち合わせていない。実際、普通に生活してるだけでも何人キレさせたかもう覚えていない。

 これを書いている自分は男なので、どうしたってこの社会構造に加担している側面はあるだろうから正直ずっと複雑な気持ちで観ていた。基本的にはストイックなジャーナリズム映画なのでわかりやすいカタルシスもほとんどないし、音楽とかもウェルメイド感というか、すごいお堅いカンジだ。それなりに年齢だけは大人になってきたものの心の中ではどこかでKOHHのリリックの如く「可愛い子は今も好き」みたいな単純なことばかり考えてしまう脳みその構造であることは変わりないので、そんな幼稚な人間には厳しさがビンビンに感じられる129分間だった。そんなくだらない人間でもこういった作品に触れることで女性がこの世界で生きるうえで突き当たることが多い困難さのようなものであったり、普段生活している社会の構造なんかを相対化して考えてみたり見つめ直すような機会を得ることは可能なので、それくらいは今後も続けていけたらなとは思う。

 

 以下に自分が参考にしたものを添付しておく。当たり前なのだけれどこちらの方が勉強にはなる。

www.ele-king.net

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「ノースマン 導かれし復讐者」鑑賞後メモ

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 最近はU-NEXTで「serial experiments lain」を観ている。まだ5話までしか観れていないのだけれどこの作品のことは好きになりつつある。エピソード開始直後に毎回メタ的な視点を意識させるような演出があったり、街の騒音には何故かフェイザーのようなエフェクトがかかっていたり、ほとんど明確な筋がないまま物語が淡々と展開していったり。人や物語を描きたいというよりは観る側に対して主人公である玲音という少女が現実に対して覚える感覚をそのまま主観的、ダイレクトに体感させようとしている意図があるように感じられる。本編を貫くダウナーなトーンはたしかにホラー作品的なしんどさを伴うものでもあるが、段々とそれが不思議な心地よさにもつながっていく。録音やミックスが繊細に構築されているのでダークアンビエントにも近いのだと思う。OP映像に登場するカラスや玲音の部屋の窓際に大量に飾ってあるぬいぐるみ、そして「みんなつながっている」というフレーズが醸し出す不穏さからは、リアルワールド=現実世界において玲音が独りになりきれない、そうさせてくれないことに対しての怒りや苦しみが物語の芯にあることを思わせてもくれる(まだ全部観ていないけれど)。

 「ノースマン 導かれし復讐者」の(ほぼ)冒頭場面にもカラスが登場する。主人公であるアムレート(アレクサンダー・スカルスガルド)の父であり島国の王でもあるオーヴァンディル(イーサン・ホーク)のトレードマーク(?)であり、北欧神話においては主神として存在しているオーディンの使者でもある。玲音は独りになりたそうだけれど、アムレートは本編開始10数分くらいで突如としてどん底の孤独に追いやられる。オーヴァンディルの「威厳」に惚れ惚れとしたり、ウィレム・デフォーがヌルッと登場したりもしている独特な成人の儀式において父の振る舞いを一つひとつ真似ていく様子はアムレートの中でオーヴァンディルという存在が「神話」のように心に強く刻まれているのだということを視覚的に提示しているし、だからこそそれ以降の復讐という行為に対しての異様な執念深さが恐ろしくもあり悲哀を帯びたものとしても受け取られる。

 本編を中盤くらいまで観ると、アムレートの想像と現実における実際の状況とに隔たりがあるということが示され始める。中性的な顔立ちをしていた少年期を遠く置き去りにしていくように身体を鍛え上げ屈強な肉体をものにし、わざわざ奴隷になってまで復讐相手であるフィヨルニル(クレス・バング)の本拠地アイスランドに潜り込んでいったのにも関わらず。ちなみにそのギャップの描き方も含め妙にシュールなトーンが常になんとなく作品全体を貫いてもいるのでちょくちょく笑ってしまう部分があった。例えばヴァイキングの屈強な男たちが狼の真似をして「アオーン!」と吠えまくったあとで「ドゥーン」という低音とともに場面が移り変わると殺風景な野原のショットに切り替わったりと、男のマッチョ性をコケにすることで膝カックン的な笑いが生じるようにしている箇所がいくつかある。さて、少し話が逸れたけども要は前半から中盤にかけてアムレートは自身がかつて心に刻み込んだ「物語」に次第に翻弄されることになる。復讐のための段取りは割とスムーズに進んでいくものの「物語」を生きる主人公としての主導権は段々と奪われていき、現実と乖離していくような感覚を覚え始める。魔剣を入手する場面やお祭り(?)でオルガ(アニャ・テイラー=ジョイ)と再会する場面における不思議な演出はその乖離する感覚を表すためのものであったのではないだろうか。そしてその感覚がピークに達するのが母(ニコール・キッドマン)と対峙する場面だ。この場面を境に彼の「物語」に対しての認識は少しずつ変化していく。一度は船に乗ってオルガと共にアイスランドを抜け出るもののアムレートは再び海に飛び込んで復讐のため舞い戻っていく。この瞬間彼は「物語」を自分自身で描いていく人間になったのだという風に個人的に解釈した。一度はコケにされた自分の「物語=生きる意味」をそれでもやり抜くのだという強い意志をこのときのアムレートは心の中で燃え上がらせていたのではないか。まるでオーディンという言葉が持つ「狂う、激怒する」といった激しい感情の如く。

 あともうひとつ言及しておきたいのが今作の撮影について。この作品は北欧神話をベースにした壮大な叙事詩のような物語であるにも関わらず基本的にはどのシーンも一台のカメラで撮影されている。そのためロケーションが切り替わらない限りカットが割られずに長回しされているという、作品の規模に対してはかなり特殊なアプローチをしているのだけれどこれがアムレートの「物語」に対しての主観性の強さと結びついているし、シンメトリックな画面構成も作品の寓話性をより強固なものに高める効果を生み出していた。

 上映時間は137分と少し長めだけれど退屈はしない。それでいてなんだかよくわからない余韻も残る。作品を観終えて劇場の外に出たときに眼前に広がっていた渋谷センター街の景色がなんだかしばらくピンと来なかったので俺は大きな声で吠えた。まるで狼、シルバーウルフの如く。俺は行く。

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「そして僕は途方に暮れる」鑑賞後メモ

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 「ハウスはあるけど、ホームはない」

 こんなようなことをROTH BART BARONの三船雅也がタナソーのポッドキャストで話していたのを思い出した。生活を送るための住居としての「ハウス」と、自分が本当に安らぐことが出来る場所としての「ホーム」はまた別のものであるという意味合いでふたつの言葉は使い分けられていた。三浦大輔監督の新作「そして僕は途方に暮れる」において菅原裕一(藤ヶ谷太輔)が一時的な「ハウス」として滞在していた場所を飛び出す際に荷物を詰め込むバックパックは彼にとっての「ホーム」を象徴しているようでもあったし、だからこそ今作において何度も印象的に映される、菅原が後ろを振り返るショットは背後に「ホーム」の存在を無意識的に感じ続けてしまうが故のアクションなのではないかと思わずにはいられなかった。

 しかしこの菅原裕一という主人公には不可思議なところがある。彼の恋人である里美(前田敦子)は仕事前に彼の分まで充実したボリュームの朝食を作ったり、心がギリギリの状態になるまで彼の浮気を咎めずにいたほどに先述の「ホーム」を体現するかのような優しさや辛抱強さを持ち合わせている人間ではあったにも関わらず、彼女を悲しませ続けてしまうのだ。作品を鑑賞していくうちにこれが「家」についての物語であるということはわかってくるのだが、菅原のこういった破滅的な側面は一体どこに由来しているのかと疑問が湧く。それについては中盤において描かれる彼の両親の人柄、また彼らとの関係性の中にヒントが込められている。優しさに溢れているが精神的にデリケートな側面も併せ持つ母親(原田美枝子)と、あまりにも破滅的で逆に愛着が湧きかけてしまうダメ男な父親(豊川悦司)との間で宙吊りにされるような感覚の中で生活していたことが彼の日常的な思考回路に何らかの影響を及ぼしているのではないかと思うし、だからこそ彼や姉の香(香里奈)は東京へ飛び出してきたのではないだろうか。東京と北海道という極端なロケーションの違いによるコントラストもそれを視覚的に暗示していたと思う。とすると菅原にとっての「ホーム」は安らぎだけではなく自らを圧迫する強迫観念のようなものとしても機能しているのかもしれないし、これによって後ろを振り返るショットの意味合いもより重層的なものになっていく。安らぎを得るために現在地を飛び出し、別の「ハウス」にたどり着いてもしばらくすると菅原の中にある強迫観念的な「なんか」が疼き始めて破滅を呼び起こしてしまう。素顔が映されない菅原の浮気相手の存在はまさに彼にとっての破滅の象徴でもあった。単にダメな人間というだけではなく、彼にとって逃げるというアクションは生きていくための手段そのものであり、避けることが出来ない業のようなニュアンスさえ帯びていく。

 そんな菅原が後半において少し笑える状況ではあるものの完全に追い詰められてしまう瞬間があり、そこにおいて彼は涙ながらに何度も謝るのだけれどそこで繰り返される言葉は「なんか、すみません」という曖昧で情けないフレーズだ。これ以上逃げようがないシチュエーションにおいても菅原は自身のなかで強く波打つエモーションの正体をはっきりと掴むことは出来ないのだが、しかし逆にそれによって彼なりに苦しみ続けていたという事実がある種具体性を帯び始めるので観ている側はここで最もグッときてしまう。三浦監督自身もインタビューにおいて言及しているが、これは完全に藤ヶ谷大輔の演技力による賜物であったように思える。自分の中の「なんか=曖昧さ」をそのまま取り出して他者に伝えることが出来ないもどかしさは、このSNS時代においてやはりタイムリーなトピックであることは間違い無いだろう。東京において恋人、親友、先輩と後輩に見せる表情や態度がハッキリと違っていることもその曖昧さを認識できていなかったことと無関係では無いはずだ。

 曖昧さを抱え続けながら生きていくということ。ラストシーンにおける菅原の振り返りはまさにそれを体現するかのように表情が不思議な揺らぎ方をする。「ホーム」はどこなのか、そもそも存在するのか。まだ結末のわからない自分自身の物語をロングショットで俯瞰し始めた彼の表情はしかし、生きることを楽しみ始めているようでもあった。あるいは、途方に暮れているようにも。

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「THE FIRST SLAM DUNK」鑑賞後メモ

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 「ノイズだらけのアナログレコード 回れば本気モード」

 主人公が桜木ではなく宮城リョータにスイッチしているということがまるで劇中の山王戦におけるパス回しのように原作ファンの意表を突いたことは間違い無いだろう。一方でこの文章を書き始めた自分自身のようにそもそも原作にタッチしていない人間も強固なディフェンスの如く製作陣の前に立ちはだかっているわけで、それをどう超えていく?

 桜木は恵まれた体格とともに「飛ぶ」才能を発揮することで壁を突破しダンクシュートをきめることが可能だが、身長の低いリョータはドリブルでそれを超えていくことを試みる。父、そして兄のソータを亡くしてからの日々と山王戦のタイムラインを交互に反復する構成はそのまま彼がドリブルを行う運動とリンクしていく。劇伴においては1度と5度の和音=パワーコードがドッシリとしたディストーションサウンドで鳴らされる。豊かなハーモニーとは言い難い直情的で硬質なサウンドが太いベース、ドラムスと共に叩きつけられる。湘北は少しまとまりを欠いている。固すぎる山王のディフェンスを前に苦戦を強いられる。リョータの過去がフラッシュバックする。ソータの残像を自分自身に重ねようとする幼いリョータは能面を被り、兄の部屋で「月刊バスケットボール」を読み始める。しかし、やがて母のカオルに「ここに来るな」と告げられる。

 「でもな 母ちゃん そこだけは譲れねんだ 百歩も 一歩も 半歩も」

 リョータはドリブルを続ける。少しずつ進み続ける。

 やがてパスの技術を認めてくれるひとの存在を彼は知る。コートの上でまなざしを交わし合うことで「しゃべる」感覚を仲間と共有し始める。

 桜木がリバウンドを決めた。流れが少し変わる。やがて劇伴のアンサンブルにピアノのフレーズが絡む。ハーモニーが立ち上がり始める。湘北のスタメン5人がそれぞれ抱える物語がリョータのドリブルと共鳴しあう。リズムが刻まれる。ボトムを増したグルーヴで点差を詰め始める。その勢いに呼応するかのように山王も熱量を増し始める。ドリブルの勢いは増し、感情の振れ幅が広くなる。リョータの過去がフラッシュバックする。

 沖縄の海、夏の夕立。かつては防空壕であったことを思わせる秘密基地の洞穴の中でソータの残像と自身を重ねる。

 「行けるとこまでどこまで逃走する が小動物なりに闘争する」

 リョータはドリブルを続ける。身体は悲鳴をあげている。でも諦めていない。勢いは増す。三井の右手が鮮やかなスナップと共に3ポイントシュートを放つ。彼を蘇らせるサウンドがコートに響く。赤木は床に突っ伏す。かつてのしがらみを思い出す。そこでもがいた分だけ強固なものになっていった湘北のグルーヴの上で桜木が再び飛ぶ。派手なソロプレイをキメるためではなく、グルーヴを繋ぐための跳躍。流川のマインドがそこに共鳴する。山王の圧倒的エースである沢北を欺く一手。流れが変わる。

 「諦めたら、そこで試合終了ですよ」

 試合は続く。円陣を組む。5人の物語が重なる。湘北のグルーヴは数段上のグレードへ上がる。

 リョータはドリブルを続ける。

 「黄金期はいつだったんだ?」

 リョータは自身に重ねていた兄の残像を超える。劇伴に歌が加わる。それはひとつのソングになる。湘北のパス回しが縦横無尽に駆け巡る。5人全員で空中においての自由を獲得する。カメラワーク=作画は限界を超えアニメであることを観客の意識から一瞬完全に奪い取っていく。不意を突くスティール。山王が湘北のサウンドに呼応する。熱量が増す。

 「頑固者の中の頑固者と呼ばれてきた 何度も」

 誰もがボールを追う。やがて音が消える。選手たちは風になる。

 最後の数秒は最も静かで、かつラウド。その瞬間において、全てのまなざしは一点に重なる。

 「持ってるヤツに 持ってないヤツが たまには勝つと思ってたいヤツ」

「ホワイト・ノイズ」鑑賞後メモ

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 OMG

 ここはどこなんだ?

 え、2023年なのか、もう。そうか。

 どうしようか、とりあえずマスクをしてコンビニにでも行こうか。なんかダルいし、モンスターエナジーを買って体に流し込む。エネルギーを体内で循環させる。コーラも飲んでおこう。スーパー行くなら洗剤も買って、野菜も肉も買い足しておこうか。不足してしまっては不安だからな。詰め込めるだけカートに詰め込んだら人混みをかき分けながらレジまで駆け抜けていく。荷物は車のトランクに詰めてしまおう。ガソリンを少し足してから家に戻ろうか。いつもの道路を駆け抜けていく。少し窓を空けて風を感じながら、そう思ったけれど想像以上に寒くてすぐに窓を閉めた。ガレージに車を止めようとしたら、さっきまでそこでくつろいでいた野良猫が慌てて逃げていった。車をバックさせている途中でなぜか、鼻の内側にニキビが出来ていることに気づいた…

 ノア・バームバックの新作「ホワイト・ノイズ」はNetflixで観れるので、年末年始の暇な時間に観始めた。割と狂ってるな、という印象を序盤から持った。69年のハリウッドを舞台にしたタランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム イン・ハリウッド」や73年のサンフェルナンド・バレーを舞台にしたポール・トーマス・アンダーソンリコリス・ピザ」など、70年代アメリカを舞台にした傑作が最近は多いような気がするけれど、この「ホワイト・ノイズ」に関してはひたすらカマしにきているというか、少なくとも賞レースを狙った作りではないように思われた(「マリッジ・ストーリー」でそこはやり切った?)。とにかく極端なエナジーに溢れている。一見、色鮮やかなようで段々と毒々しさを感じてきてしまうようなカラーコーディングに感情の振り幅が広い人物たちのやりとりが四方八方にとっ散らかっていく。全てはどこか破滅的な勢いのままに突き進んでいく。どこに向かって?それは、死。

 映画という表現形態、特にアメリカから生み出されるそれにおいて車体が衝突し合う瞬間の美しさや興奮を語る幕開けと、その後実際に起こる衝突事故による有害な化学物質の拡散。それらの相反するような運動はこの作品において人間やこの世界全体を循環させる原理を表すモチーフとなっている。アダム・ドライバーグレタ・ガーウィグ、そして彼らの子供たちの家でのやりとりはまさに衝突と拡散の連続だ。アダムが抱える男性としての劣等感とヒトラーへの関心、それから不意にグレタを惑わす死への恐怖と「ダイラー」の副作用による忘却。さらに3人の子供たちのやたらとスピーディなやりとりなど、とにかくぶつかって、飛び散る。カット割りも細かい。色鮮やかなスーパーマーケットはわかりやすく資本主義社会の構造を示してもいて、これ見よがしにケロッグプリングルズ、コカコーラなどのロゴが目に飛び込んでくるようになっている。資源の枯渇という「死」が現実の世界においても少しずつ具体性を帯び始めているが、我々はそれでもスーパーマーケットやコンビニに行き続けるだろう。それは破滅の物語を更新していく行為でもある。

 衝突、破滅、そして死。物騒な言葉ばかり並べてきたが、この作品の過剰にファニーなトーンはどこからやってくるのかというとそれはオプティミズム、即ち楽観主義的なものの見方だ。それは冒頭でのドン・チードルの語りの中でも言及されている。アベンジャーズではウォー・マシンとしてミサイルをぶっ放したりしながら戦っていた彼がここではスクリーン上に投影される自動車の衝突場面と共に落ち着いたトーンでそれの存在意義を語っている。浮遊感、手放しの楽しさ、それらが「衝突」を極上のエンターテインメントに仕上げる。ぶつかって、飛び散る。それは我々が抱える不安や恐怖ごと燃やし尽くしてしまうようでもある。ある意味この楽観主義はアメリカ白人社会の病理としても描かれてはいるが、普段から映画を楽しんでいる人間としてはなかなか他人事でもない。スーパーマーケットとゴミ山の対比を通してそんな業の深さが視覚的にも提示される。

 ところで、序盤における長男坊の「すべては車」というセリフもとても象徴的だ。金を出してガソリンを足して、それが尽きるまで走って、また足して。それを繰り返し続ける。マスクをして有害なウイルスを避けながら、人体に有害かもしれないものを購入し続ける。我々はそんな社会で暮らしている。みんなが死に向かっている。それでも、その道中の「曖昧」な瞬間こそが人間にとってはとても大切な物語になり得るのではないか。全てのメディアから垂れ流される情報はどれも少しずつ曖昧で、それをもとに生きる我々もどうしたって曖昧さを抱えたままではあるけれど、その中から少しずつ希望をでっち上げていくしかないのではないか。戦争、各国の右傾化、格差社会、資源の枯渇、気候変動など、破滅のシナリオは考え始めると無数に広がっていく。それでも、ひとのなかに宿る白い靄のような曖昧さやだらしなさをそのまま肯定しようとするまなざしはいつの時代においても尊いはずだ。偶然性と想像力に導かれて、この旅はまだまだ続く。朝は遠すぎる。それでも、心臓は高鳴り始めている。

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「ケイコ 目を澄ませて」鑑賞後メモ

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 2020年の4月ごろからコロナ禍という言葉で形容される時代の中で生きることになって、そこからの日々は今振り返ると正直キツかった。ユニクロのエアリズムマスクが発売されても売り切れていたので買えず、最初は使い捨てのマスクを使い捨てずに使い続け、耳はヒモが当たり続けて痛いし自分の口臭で生地がクサくなっていくし何もいいことがなかった。社会人1年目もいまはハッキリと思い出せないくらいしんどかったけれど、目に見えないウイルスに怯えながら生きるのもなかなか面倒くさくて、そんなブレードランナーみたいな世界で生きているうちに少し鬱っぽくなったりもした。べつに毎日呑気に生きているのだけれど、ふとしたときに自分が何者なのかを忘れた。どんな日々を送ってきて何を大切に思っていたのかを忘れると自分自身に生きている価値を与えられなくなる、でも自殺するのは怖くて出来ない。自分の話で笑ってくれた友人たち、生きたくてもCOVID-19に感染し亡くなってしまったひとたち、そして命を落としてもおかしくはなかった状況を生き延びた親友のことを思い出したりしてみる。それで自分が今まで生きていられた理由を少しだけわかったような気持ちになれたりなれなかったりしながらまた少しずつ歩き出す。その場所から少し離れられてからようやく「ちょっとセンチメンタルすぎたな」「悩む必要ないことで悩むの意味ないね」なんてまた呑気にひとりごとを言ってみたりして、2021年も過ぎていった。映画や映画批評、哲学の本を通して自分の中で世界を見つめるためのチャンネルを少し増やせたのが良かったのかなと思う一年だった。ブログを始めた年でもあった。

 「ケイコ 目を澄ませて」は再開発とCOVID-19への感染対策に塗れた2020年の東京が舞台で、主人公のケイコ(岸井ゆきの)は生まれつきの感音性難聴で両耳が聞こえない状態で日々を過ごしている。朝早く起きランニングをして、日中はホテルの客室清掃員として部屋の清掃業務を行い、夜は1945年からその地に門を構えている小さなボクシングジムでトレーニングに励む。街の中では常にあらゆる方向に向かってたくさんの自動車や電車がすごい速さで駆け抜けていき、もはや人間には理解不能な秩序でもってノイズまみれのカオスを形成し続けている。それに加えて人々はマスクをしているため、口元の動きが見えず手話話者でない人とのコミュニケーションも困難を極め、ただ日常を過ごすだけの描写も常にスリリングだ。会長(三浦友和)とケイコが早朝の河原でふたり並んで準備体操をしている場面は心地よい安心感を覚えるシークエンスではあったりするものの、序盤におけるケイコの表情に滲んでいるのは主に理解できない、わからないといった思いであったように感じられたし、それは彼女のボクシングの試合時における恐怖心と無関係ではなかっただろう。まるで真っ暗闇の中にポツンと浮かんでいる空間のように切り取られるリングはケイコの心の葛藤を目に見える形にしているようでもあった。

 三宅唱監督の前作「きみの鳥はうたえる」においてもそうであったが、この作品は大事なことをアクションや演出を通して語る。本編がフェイドインから始まることでいまもコロナ禍の日本で暮らす我々の日常と地続きの物語であるという印象を与える効果が生まれているし、繰り返し登場する鏡はラストショットにも繋がるこの作品の主題をはじめから示唆している。右、左、前、後ろを見たりその方向に向かって動いていくこと全てが登場人物の心情と絡み合う。例えば、ケイコが試合に対して前向きな気持ちを見出せていないときにジムの中を通り抜ける場面があるのだけれど、この瞬間ジムにいる全員が違う方向を向きながらそれぞれが別々のトレーニングに励んでいる。それに対して、後半の場面でケイコがジムのトレーナーである松本(松浦慎一郎)とのミット打ちを行っているときに同じくトレーナーの林(三浦誠己)と若いボクサーもケイコらの動きを目で追いながら同じステップで動き始める瞬間があり、そういった演出の対比によってバラバラに離れていたように思えた登場人物らの心情が少しずつ重なり合っていく様子が描かれている。この瞬間の気持ちよさはもう実際に観て体感してもらうほかはないと思われる。このシンプルな映画的カタルシスをある種究極的に突き詰めた作品であることは間違いないだろう。

 会長は記者からの取材においてケイコのことを「才能はないかなぁ」と評するが、その後で「人間としての器量があるんですよ。素直で率直で」と語る。その器量とは何なのか、それはおそらく会長の妻(仙道敦子)による朗読の場面に全て込められていたのだと個人的に感じた。心の中で会長やジムに関わるひとたちのことを思いながら試合に臨むケイコ、さらにその後ろから彼女をずっと見守り続けていた会長という構図が視覚的に示される夜のジムでの一幕がそれを裏付けていると考えている。そこからの試合に向けた練習を描くシークエンスも含めてほんとに拳で殴られるような勢いで感動させられる。バラバラだったものがスッときれいにひとつに折り重なって澄み切っていくようで、これはほんとに圧巻としか言いようがない。

 何者でもないけれど連続的な時間の流れのなかで生きてきたこと、多くの人々と繋がっている瞬間があったことが何よりも特別で、それが自分にとってなにひとつかけがえのないものとして静かに存在している。再開発の破壊とノイズに塗れて消えゆくものの中にはそうしたものがきっと多く含まれているのだろうし、日本に限った話ではないことも確かだろう。銃弾が飛び交い爆撃が繰り返されること、そして資源問題に対しての具体的な解決はまだなく、厳しいキャンセルカルチャーによって精神的にも排除されゆくものはきっと数多くあるだろう。時代の変わり目、進歩、淘汰。そんな2020年代をこれから生きていくらしい。どうやって?わからない。けれど、目を澄ましてみたらかつて出会ったひとからの応答があった。そのラストシーンにおけるケイコの表情の独特な揺れ動き方と、その後のアクションはあまりにも完璧で、素直で率直だった。

 そういえば、カフェで友人たちと会話している場面でのケイコの笑顔がなんだか恐竜みたいで大学のときの親友を思い出して懐かしい気持ちになった。だけど今はもう2022年の1216日で、あと二週間と数日で2023年が始まる。

「MEN 同じ顔の男たち」鑑賞後メモ

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 ラナ・デル・レイの来年リリースされる新作からのリードトラックが先日リリースされていて、”Did you know that there’s a tunnel under Ocean Blvd”という長い曲名を目にした時には少し笑ってしまった。この曲名の長さには懇願のような気持ちも含まれているのだろうか。オーシャンブルバードの下には古いトンネルがあって、今は封鎖されているそう。正直あまりその場所に関しての詳しい知識はないのだけれど、おそらくはキラキラしたカリフォルニアの地下に潜むそのトンネルの存在を彼女自身のパーソナリティや女性性と重ね合わせているのだと思う。テイラースウィフトの新作にも参加しているのに、なんだか切実だなと感じる。「I can't help but feel somewhat like my body marred my soul/身体が魂を傷つけている気がする」というラインは特に印象的で、これは加齢によって身体的な側面での女性性が失われていくことに対する恐怖感についてのものなのだろうか。「Don’t forget me」と繰り返し歌い上げているのはまるで身体性と乖離していく純粋なラナの心の叫びのようでもあり、穏やかな曲調ではあるものの胸に鋭く突き刺さる鋭利さを兼ね備えている。

 「MEN 同じ顔の男たち」においても序盤でトンネルは象徴的に映される。というか、そのトンネル含めこの作品は最初から最後まで性的なモチーフで溢れかえっており、そういったトピックに対してゴリゴリに言及していく作品だ。冒頭で映される部屋のライティングや屋敷の内装の基調が赤で統一されているのは女性性を象徴する空間であるからだろうし、林檎や木、尖塔や綿毛はモロに男性性を表していた。屋敷の中を映すショットやその周辺の森林地帯を散策する際に窓や暗闇が常に背景に位置している構図が続くことが多く、これによって男性の視点に常に晒される気持ち悪さを女性であるハーパー(ジェシー・バックリー)を通して感じ取れる構造になっている。ハーパーが友人であるライリー(ゲイル・ランキン)とビデオ通話を行なっている際に巻き起こる「グリーンマン」との接触は緊張感が一気に高まるシークエンスで、ドアのポスト口から彼が手を突っ込んでくる「侵入」の気持ち悪さはやはり生々しかったし、男としてはこの時点で既に身につまされるような思いでいっぱいになってしまう。というか、この作品において男性性という記号を一手に引き受けているのがロリー・キニアという俳優なのだけど、これは予告編とか何も見ないで行った人とかは本当に戸惑いまくるんじゃないかと思った。何にも説明はないのだけど出てくる男がよく見たらみんなロリー・キニアで、面白いけど地獄すぎるなというか。教会やバーでの場面でその違和感がギンギンになっていく奇妙さは凄まじく、バスとか電車の中で男性に囲まれてしまったときの女性の気持ちってあんな風なのかなあと考えてみたりすると、本当に落ち込みそうになるほどに強烈な演出だった。タレントのYOUが何かの番組で「生殖器を前にぶら下げているような生き物なんて信用できない」というようなことを言っていたのをふと思い出すなど。

 またトンネルのことに話を戻す。序盤において長いトンネルの中で歌声を反響させてハーモニーを作り出していく場面はこの作品において唯一ハーパーが楽しそうに過ごす瞬間でもあるのだけど、その声に対しての「応答」が直前の和音の心地よさとはあまりにも正反対の気持ち悪さを孕んでいて相当ギョッとする演出だった。作品冒頭でも示されるあまりにショッキングな過去の出来事を反芻することで悲しみに苛まれてしまうハーパーの心の動きを反響音というモチーフを用いて感覚的に理解できるものにまで昇華していく構造も見事だったと感じる。「グリーンマン」はその佇まいや終盤での綿毛を吹きかける動作なども含めて明らかにアリ・アスター作品からの影響をモロに受けた造形になっていたように思えるが、あれは単純にリスペクトっていうことなのかな?プロット自体も「ミッドサマー」とかなり重なる部分がある。ひとつ違う部分があるとすれば、一応今作の方が主人公が「自由」になれる希望がまだ少しは内包されているという点だろうか。だとすればアリ・アスターに対する「応答」という風にも取れなくはないのかもしれない。そういえば、トンネルに佇む時のハーパーの服装は緑のロングコートとピンクのパンツでこれは「千と千尋の神隠し」をやんわり連想させる構図にもなっていたり。

 この作品のクライマックスにおける一連のシークエンスを通して描かれるのは、女性性がこの世界で自由を獲得するには何度も何度も男性性を殺し続けなくてはいけないという悪夢的な感覚であり、そこに安らぎが存在する余地はない。なぜなら男性性は何度殺されても息絶えることはなく、「侵入」しようとする欲望を抑えられないからだ。死んだカラスの首を折る、脚を折るといったような去勢を連想させる演出が何度かあるが、それによっても男性側が欲望をコントロールできないのは女性を通して「夢」を見続けてしまうからなのだということが、ラストのとあるフレーズにおいても示される。それに対して返されるハーパーのため息は呆れるほどの諦念に溢れていたし、その感覚は作品冒頭の事件が起きたそもそもの出発地点に帰結させられるような感覚を伴っている。「彼ら」がハーパーの間近に迫りつつも彼女の身体にほぼ触れることがなかったのは、まるで彼らがそもそも自らの欲望を突き動かすものが何であるのかを正確に把握できていないことを表しているようでもあり、「彼」が庭先で大きな声を出した瞬間にハーパーが既に呆れたような顔をしていたのも、そこに透けて見えた男性性の根幹にある幼児性を感じ取ってしまったからではないだろうか。それはヒッチコックの「めまい」に対する冷たい「応答」だ。