「異人たち」鑑賞後メモ

youtu.be

 人肌の温もりをたしかに感じた。実際に触れたとか、そういう物理的な意味合いではないのだけれど、現実と非現実の混じり合う空間においてそれを実感する2時間だった。作品冒頭、朝日が昇り始める瞬間を一方的に見つめている感覚に陥りかけた瞬間にふっとそこにオーバーラップし始めるアダム(アンドリュー・スコット)のシルエット。静かに日常にフェードインし始める、自分を見つめ返す視線との交わり。実際、ここにこの作品の全てがある。2人以上の人間同士が顔を突き合わせて対話をすると、そこには一定の温度感を孕んだ情感が立ち上り始め、表情の変化や声音の響き、言葉の選び方といった細部に感情の機微が表出していく。それに対して、窓の傍に立ち尽くして外の景色をぼんやりと眺める姿を捉えたショットはまるでスマートフォンやパソコンのインターフェイスに向き合い続ける現代人特有の虚しさを端的に象徴しているようでもあり、前者との対比によって温度の感覚はより強調される。

 そういった温度感が最も際立つであろう、ひとの肌と肌とが触れ合う官能性にこれほどまでに喜びが伴う作品はそうそうないのではないだろうか。互いに思いを打ち明けて、共有し、時間をかけて理解し合おうとする関係性の尊さにも胸を打たれる。限られた時間の中で完全に心が満たされることはないとしても、小さな灯りのともるベッドルームで見つめ合いながら、やがて同じ暗闇を肩を並べて見据える日常に溶けていく、その胸を締め付けるような切実さと愛おしさ。両親や恋人との関係性を描きながらも「異人たち(英題:ALL OF US STRANGERS)」というタイトルであることが鑑賞後に効いてくる。渋谷のど真ん中の映画館にいることなど、とうに忘れてしまっていた。

「オッペンハイマー」鑑賞後メモ

youtu.be

 映画という形態にどれだけ多くの情報量を搭載できるのか、という限界にクリストファー・ノーランは挑んでみたのだろうかと思ってしまうほど、とにかく次々にあらゆるものが視覚と聴覚、そして全身を刺激し続けてくるような印象を受けた。アクション映画ではないが、過去のどの作品よりもハイテンポで物語が進行し、尚且つ各登場人物、特に主人公であるオッペンハイマーキリアン・マーフィー)の台詞の量も膨大であり、さらにそれに加えて劇伴や細やかなサウンドエフェクトがひっきりなしに鳴っているので、見ているこちら側の脳みそまで爆発寸前になる。それでも、今作のこの目まぐるしさはオッペンハイマー自身の世界の見え方、感じ方とリンクしているので、決しただ節操のない作りというわけではないことは確かだろう。終盤における原爆投下後のオッペンハイマーの演説場面における演出がその結びつきを明確に示してもいる。

 人間を突き動かす強いエネルギーのひとつに好奇心というものがある、というところからこの物語は始まっていく。水溜まりに落ちていく雨粒が水面に小さな波紋を起こしていく様をぼんやりと眺めているアヴァンタイトルの印象的なショットを起点に、様々な人間や場所、アイデアとの出会いが続く。その中で浮き沈みする人々の思いはまるで、核エネルギー反応の如く、膨張し、衝突し合い、収縮したかと思えば再び燃え上がる。ひとりの人間から始まった運動の連鎖が無数のレイヤーを編み出していく。理論でまとめられた既知の感覚と未知とのせめぎ合いが全ての人間の好奇心を刺激し、突き動かす。善も悪も喜びも悲しみも戸惑いも混ざり合った、業の深みに溺れていく。かつて若きオッペンハイマーの中で無邪気に揺らめいていた、煌めく粒子と波のイメージとが結び合わさって現実に昇華された末に広がる光景が爆炎と轟音、そして彼自身ですら思わず目を伏せてしまうほどに強烈な閃光であったことに対しての悲哀、自省の念がピークに達するラストショットは、胸に痛みを残す。実際、ノーラン作品の特徴として頻繁に語られる「映画についての映画」である以上に、今作は彼自身の内省的、私小説的な側面が強いようにも思われた。フローレンス・ピューやエミリー・ブラントが演じる女性たちの描き方も含め、強烈な自戒の念を感じた。

「カード・カウンター」鑑賞後メモ

youtu.be

 「同じことの繰り返しだ。どこかへ向かっている気が全くしない」と話すカーク(タイ・シェリダン)に対して、「ああ。ひたすら回ってるんだ。納得いくまでな」と返す主人公のウィリアム・テルオスカー・アイザック)らふたりの劇中におけるこのやり取りに今作が語ろうとしていることが端的にまとめられているように思えた。ブラックジャックや拷問というモチーフを通して語られるのは、人間があらゆる物事において「負けた」と感じる心の動き、そしてそれを引き起こす根本の感情とは「納得が出来ない」という単純ではあるが激しい戸惑いや不安なのではないかということについて、だ。本編を通してカジノ会場やブラックジャックの現場にたびたび姿を現しては「勝ち」続ける「ミスターUSA」と、ブラックジャックにおけるチャンスと引き際を見極めるための高等技術であるカード・カウンティングによって納得がいくタイミングで手を引いていくウィリアムとの対比によって先述したようなテーマが浮き彫りになっていく。まるで何かから逃げるようにひたすら同じ物事を繰り返し続けているようで、実はそれは、そのひと自身にとって最も恐ろしいものに対して途方もない時間をかけて向き合おうと、納得しようとしている過程なのではないか、というひとつの人生論めいたものをこの作品から受け取った。

「デューン 砂の惑星PART 2」鑑賞後メモ

youtu.be

 IMAXの巨大なスクリーンにとてつもなく巨大なものが現れたり動いている様子が映し出され、さらに緻密に構築されたサウンドデザインの音響や劇伴が全身を貫いていく心地よさ。「デューン」自体は非常に情報量の多いSF小説ではあるものの、ドゥニ・ヴィルヌーヴによるそれは映画鑑賞の快楽性を押し出す方向性に振り切っている。個人的には少し拍子抜けするくらいに物語自体はシンプルに見えるようにまとめられているのは、やはり、とにかく全身で映画を浴びることの喜び、そしてそこにこそ「楽園」が生じうることを本気で信じていることの証だろうと思う(実際、このトーン&マナーで進行してもらえる方が見やすく心地よい)。映画が運動を捉えるものであるということ。ここで用意されている3時間はその大きな物体による運動がゆっくりと時間をかけて我々の心と体を通過していくための時間だ。ポール(ティモシー・シャラメ)がサンドワームに初めて飛び乗るシークエンスは圧巻。

 他にも印象的だったのは、この2020年代のタイミングにおける戦争の描き方で、あくまで単純なカタルシスにはまとめることはせずに、争いや暴力の禍々しさをそのまま抽出していくような映像と音の演出が施されている。復讐という無限の暴力のスパイラル、そして「選ばれし者」という存在に対しての現代的で懐疑的な視線をクールに体現するチャニ(ゼンデイヤ)。「選ばれし者」ですら、結局は既存の物語に踊らされているだけなのではないか、と。この点においては監督の過去作である「ブレードランナー 2049」とも重なる、冷静な自己批評的視点が含まれているようにも感じられた。

RAFRAGE / Kamui

open.spotify.com

 サイバーパンクという過剰さからこぼれ落ちる、ささやかで繊細なKamuiの人間性。というものが「YC2.5」というアルバムから垣間見えるものだとすれば、「RAFRAGE」から立ち昇るのは、現実という殺伐とした世界をベースにしながらも、そこから肥大し始めるひとつの巨大な虚像=強い怒り=RAGEとしてのKamuiなのかもしれない。一曲目のタイトルにも冠されているPlayboi Cartiに対しての印象をKamuiは「曖昧な存在」と自身のYouTubeでの動画において述べていたし、それをわざわざ冒頭に持ってきていることは決して先述した内容と無関係ではないだろうと思う。

 前作のような一貫性のあるストーリー性、とは対照的に、半ば散発的に、あらゆる方向に粗々しく飛び散っていく感情はKamuiという存在の輪郭を曖昧にしながら膨張させていく。過去、現在、未来が一緒くたになってグツグツとマグマのように熱い鍋の中で燃えたぎっているような、そんな印象を抱いた。意図的にぼかされていく解像度の荒いイメージはどんどん軽やかさを纏い始め、宙に浮かび上がっていく。高音によって発生する上昇気流がやがてハリケーンを生み出していく。ゲーム音楽のような、デジタル的な質感が強いRAGEのビートにドロドロとした人間性、生々しさを落とし込むことに成功しているのは、Kamuiの決して線が太いとは言えない発声の仕方がもたらす、怒りを滲ませながらも常にどこか儚げな印象や、「独特なフォークボール」の如く予測不能で変則的なフロウを地道に積み重ねることが可能な確かなラップスキルによってそれが担保されているからだろう。

 「幕張の一番遠い客席」=誰もいないひとりぼっちの自室に置かれた、パソコンやスマホの液晶の前(個人的な解釈)に佇む筆者の胸に、今作は確かにCriticalな一撃として突き刺さっている。

youtu.be

「ほつれる」鑑賞後メモ

youtu.be

 「冷たさ」についての映画。現代の東京を主な舞台としているが、カメラが切り取る主人公らの暮らすマンションの一室や街の景色、自動車やロマンスカーの鉄とガラスの質感はヒンヤリと冷たさだけを帯びていて、まるでSF映画を見ているような心地がする。全編を通してほぼ全ての人間が「本当に言いたいこと」をストレートに話す瞬間がなく、婉曲的で柔らかさだけを突き詰めた(しかしそれにより遠ざけられる本音は無言のうちに鋭さを増す)会話が積み重ねられていく脚本は見事だと思った。温泉という、誰もが安らぎとともに体を温めることが出来そうなロケーションを映している瞬間さえヒリヒリとした空気感を孕むこの作品内で、どこに「暖かさ」が存在しうるのか。それはきっと、目に見えないもの、すでに目に見えなくなった時間の中に見出しうるのであり、それを体現しているのが染谷将太が演じている人物であるように思えた。

 画面のアスペクト比がスタンダードサイズになっていることで、闇の間に浮かび上がる光、熱としての映画という構造がより強調されているようにも感じられる。映画を観ているとき、我々は網膜を通り抜けていった無数のカットの連なり、その記憶を手繰り寄せている。本当に伝えたい思いをきちんとその手に取り戻そうとすること。

BAD HOP THE FINAL

 久々にとてつもなくポジティブなヴァイブスに溢れたものを目撃した。特にガチなヒップホップヘッズというわけでもないタイミングから今までインターネットの端っこからひっそりと見守っていた、2010年代以降の日本語ラップシーンを牽引していた存在、BAD HOPによる目の前でのアンセムのつるべ打ちには興奮して頭がクラクラし始めると同時に、ドーム中が、そして俺の横にいる青年がとにかくずっと全力でシンガロングしまくっているその空間は多幸感に満ち溢れていた。演者もすごいけれど、オーディエンスの熱気や反応が瑞々しくて、どピュア。ついつい、これはヒップホップ走馬灯なのかとも思ったけれど、むしろこれは現在進行形で大きくなっているドリームなのだろう。

 ¥ellow BucksBonberoを始めとしたここ数年のフレッシュなラッパー、そしてZeebraMC漢、SEEDAANARCHY日本語ラップ史を辿るような客演は、iPhoneの中に動画として収めておくだけでもかなりご利益がありそうだ。Zeebraのヴァースはとても感動的だった。自分とほぼ同い年の人間で東京ドームでライブをするような大きな存在が川崎区のゲットーから現れるとは想像がつかない。そういった時代なのだなと肌感覚で理解した。