ラヴ・アンド・ディストーション

俺が音楽や映画のことを書く。それら以外を書くことだってある。

あのこは貴族

岨手由貴子監督の「あのこは貴族」を観た。

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金で仕切りが出来ている階層社会、男性原理主義的なパワーを中心に回り続ける資本主義社会において、人間はただの記号として消費される。

「権利配分」としての側面しか持たないような婚約の中にはもはや人間は誰もいない。挿げ替えが簡単に繰り返されていく。

全ての人間が加害者であり被害者でもある。尽きることのない苦悩のスパイラルにいとも簡単に掠め取られる。

 

移動手段をモチーフとして扱った演出が今作の中心人物となる榛原華子と時岡美紀のキャラクターや態度の変化を表すものとして印象的だった。

アヴァンタイトルでタクシーに乗る、いわゆる「お嬢様」の華子にはまだ行き先を自分でコントロールする力がない。

運転手を同等の人間と認識していないような節があるところは少し不気味でもある。

それに対して地方出の美紀は都会の中を自転車で駆け抜ける。行き先を自分でコントロールしようとする強い意志が感じられる。

また、華子が友人の里英と「にけつ」で東京のど真ん中を駆ける場面や華子が逸子と三輪車に乗って遊ぶ場面は、規定の枠組みの外側からでしか見つけられない喜びもあるということを提示しているように思われる。

 

「そっちの世界とウチの地元ってなんか似てるね」という台詞を、美紀が華子に語りかける場面がある。

型にはめられた世界が縦に層をなしている社会の中で、しかし二人は夜のベランダで肩を並べて同じ景色を眺めている。

物語のラストの場面とも呼応する象徴的なシークエンスだ。

階層やしがらみを取っ払って人を繋ぐものは存在する。たとえほんの短い時間であっても。言葉で語ると死ぬほど陳腐になりかねないその根源的な喜びのなかに、ひとの希望がある。

 

手を振る動作やソファにもたれかかる姿勢、視線のやりとりでひとの温もりや距離感の縮まりを表現する演出力の高さは今作の白眉とも言えるのではないだろうか。

序盤と終盤との対比で浮かび上がるそれに、映画を観る喜びを感じずにはいられない。

ハロウィンハロウィンハロウィン

先週から公開してる「ハロウィンKILLS」を観た。

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今朝この作品のホームページ見て初めて知ったけど、これ最初から三部作構想で企画が進められていたそう。知らなかった。

前作面白かったからなあ。「アベンジャーズ エンドゲーム」を観た数日後くらいに観たけど普通に見劣りせず面白かったからすごいと思った。

 

今回は物語の内容や繰り返し提示されるアクションから見て、「侵入」というのがテーマとしてあるように感じられた。前作なら「召喚」とか「復活」だろうか。

アヴァンタイトルがブギーマンことマイケルマイヤーズのお家訪問から始まるのがわかりやすく象徴的だ。

マイケルの武器が主に包丁などの、外部から内部に向かって突き刺さるものであったり、テクテク歩いて人の家にぬるっと入り込んでくるように、ブギーマンの怖さの本質は物理的ないし精神的な「侵入」であるということが提示される。

そして今回の「侵入」というテーマは同時にマイケルの内面へのそれも意味している。

なんで彼がひたすら静かに殺人を繰り返すのか。セリフでの説明はないが、他の家庭の父親的な人間をやたら執拗に刺して殺していたり、恋人同士の人たちは丁寧に死体をより合わせていたり…

復讐か、ただ単に楽しんでるのか、それとも彼はこの世界に絶望しきってるが故にある種の「救済」として殺人を繰り返しているのか。そんな面も描かれる。

自室の窓ガラスから「外の景色」をじっと見つめている姿も、悲哀があって、「素敵やん」という感じ。

 

あと今回は、最高のババアことローリーが前作で怪我してるので、代わりにいろんな人間が出てきてちょっと群像劇っぽい展開もある。現代の視点を含んだアメリカ論が盛り込んであったり。まあ、すぐ終わるのだけど。

 

ちなみに今回の三部作通してこの血祭りの一晩の出来事を描くものになるらしい。まあ、2時間×3で6時間だからほんとに一晩って感じか。

ていうか、マイケルからしたらこんな忙しい夜もないように思われる。殴られて燃やされて銃弾ぶち込まれて罵詈雑言の嵐に塗れて。メンタルが鬼。フィジカル的にも鬼か。

そんで、まあ、やっぱりババアに大暴れしてもらいたいなあ、40年も精神病みながらも鍛え上げてきて強くなったんだから。ということで皆さん劇場に行ってお金落としてきて、ラスト3作目作ってもらおう。じゃないとババアがかわいそうだから。

そういや、今作の予告編を初めて見た時が一番気の毒な気持ちになったの思い出した。「燃えたままにしといてや〜!」って。笑ったけれど。

 

こんな文章書いたけど、78年のオリジナルは1秒も見てない。どっかで見るね。

ひらいて

首藤凛監督の初の商業ベース長編作品である「ひらいて」をこの前観た。

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他者に想いを伝えるということは、命懸けの飛躍だ。

どんな出自の人間であっても、日常的に使用している言語が同じであっても、自分と全く同じ言語体系を持つ人間は誰一人としていない。

それぞれの人間がそれまで見て触れて感じた言語や知識、論理の蓄積がその人の世界を構築していて、そこはもう不可侵領域になっている。

だからこそ他者に向かって語りかける行為は、自分の世界の外側にどこまでも広がる暗闇へ跳躍を試みる行為なのだ。

飛んだ先に理想の着地点がある保証はない。それでも飛ぶことを止めはしない。「ひらいて」という祈りとともに、飛ぶのだ。

 

この作品は、同じ動きを対比的に見せる構造が繰り返し示されることで物語の推進力が生まれている。

さっき話した言葉と、その後発した言葉。昼と夜での自転車の乗り方の違い。カラオケで主人公の愛が歌う曲と美雪が選んだ曲の、時代性やリリックの差異。

この対比構造が繰り返し示される構造はまるで、劇中のモチーフとしても存在する折り紙のようだ。先ほどまで見つめていた面は折り返されることで裏側に周り、新たな側面が立ち現れる。観客はそれを追いかけながら、愛という人物を少しずつ知る。

 

愛は穏やかに絶望している。

社会性は持ち合わせているが、地方暮らしに未来を見出すことができていない。

そんな彼女はしかし、たとえと美雪の中に「ここではないどこか」を見ている。

 

教室の椅子に座りながらじっとたとえを見つめる愛の姿は、「ときめき」というよりは「渇望」に近い。

HiHi Jetsのメンバーである佐間龍斗演じるたとえは、ほとんど抽象的な存在に近い。髪型や服装が地味でも、浮世離れした透明感が滲み出ている。このための配役であったのだろうと思う。

愛はたとえの「肉体」ではなく「精神」を求める。

一方で、愛は美雪の「肉体」を求める。

芋生悠演じる美雪は、制服を着ると若干違和感が生じてしまうほど顔立ちが大人っぽい。

痩せ細った体は透明感をまとっている。

カラオケボックスでのキスは愛の中の「愛」の境界線を滲ませていく。自分が持っていないものにどうしようもなく惹かれていく。

愛の大人っぽい側面、実は真っ直ぐな部分、落ち着いてるフリをして必死な表情が乱反射する。

 

「(もしかしたらあるかもしれない)ここではないどこか」への希望を人間は捨てられない。

もしそれを捨ててしまったら、人間はシステムの奴隷になるだけだ。損得感情だけで他人を切り捨て、テンプレートのフレーズを吐き出すただの機械になる。

この作品の中心にいる、まだ社会に染まりきっていない高校生たちには「ここではないどこか」を強く信じる力がある。だからこの作品は希望を求める力にあふれている。その力は様々な方向に飛び出していこうともがき続ける。

どうして人は生きていくのか。そこに理由はない。ただ、「生きている」という事実性だけがそこにある。「ここにはないなにか」が欲しいのなら、飛ぶしかない。どこまでも広がる暗闇に向かって、命をかけて跳躍する。

 

硬く閉じられていた両手がひらかれ/ひらいたその瞬間、愛の未来が「ひらかれ」ることを祈るばかりである。

ちょっと書いてみるか。

「DUNE/砂の惑星」観た。

ドゥニ・ヴィルヌーブの新作として、というか一本のエンターテインメント映画としてブチ抜けていた。

それは本当に文字通りのことで、画がとにかくでっかいでっかい。

「映画は迫力があって、楽しくてすごいんだ」というあまりにも単純な映画の快楽をストレートにぶつけられる。超強力な真正面のパンチだ。

宇宙船や建築物のカラッとしたデザイン、中東風なのと洋風なのがブレンドされたような衣装は最高にイカしていて、ずっと観てられる。

ちょっと拍子抜けするぐらいプロット自体はシンプルだけど、固有名詞の数やそれらが内包する意味についての情報量はかなり多い。俺は原作小説を読んだり過去の映像作品を観ていなかったので、その点に単純に驚いたし、とても魅力的にも思えた。

未知の世界にゆっくりと手を引かれながら導かれるような時間を過ごした。俺は原作小説にも手をつけてみようかと思っている。

 

一ヶ月くらい前に呪術廻戦のコミックスを購入してから、何回か繰り返し読んだ。

漫画だと全然印象が違う。文字数がかなり多めで、しかもその内容がほとんどSFみたいになってる。五条悟の能力の説明してるところとかほとんど数学の話になってる。

絵も思った以上に繊細なニュアンスがあって、これは、女性が書いてるのかな?吹き出しに手書きでつけたしのセリフが書かれてる感じとかが、すごい女性の書き方っぽい。

でも内容自体はどんどんマッチョな展開になっていく。このバランス感は多分やりたくてやってる感じなのだと思う。

 

母親がやらなくなった「どうぶつの森」で最近ちょこちょこ遊んでいる。

島の名前は「いとしさとせつなさ島(とう)」

篠原涼子小室哲哉には特に思い入れないけど、これがたまたまピッタリハマったから。「さけとなみだとおとことおんな島(とう)」だと文字数足りないから諦めた。

狩猟採集に物々交換、紙幣や独自のマイルシステムで経済が回る謎の島。異常なほど金を持て余したたぬきちの常軌を逸した社会実験に参加してるような気持ちになっている。

資本主義の不自由さから余裕で抜け出したたぬきちは、なにを目指してるんだろう?

死ぬほど魚を釣っているのに、なんで果物しか食わせてもらえないのだろう?

そんなことを考えながら、やってると、全然リラックス出来ない。

共有しえない夏の幻

フランソワ・オゾン監督の最新作である「Summer of 85」を観た。

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人は死ぬまでに何度も広い海の上で「転覆」を繰り返す。

その時に通りかかる船は「出会い」であり、透き通った海水で濡れた身体の中で心が彩りの美しさを知る。

それは唐突な寓話として記憶のいちばん深いところに、さりげなく、しかしなによりも力強く刻まれることすらある。

かつて凄惨な争いが繰り広げられた海沿いの1985年の夏はしかし、「君の物語じゃない」のだ。

作品の冒頭からThe Cureの「In Between Days」が流れ出す。しかしここではまだその音楽に「言葉」は乗っていない。

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それはまだ主人公のアレックスがなにも知らないからであり、やがて迎える展開を仄かに暗示してもいる。

 

中盤のクラブでのダンスシーンがこの映画のコアになっていると、パンフレットに記載されたインタビュー内で監督は語っている。

なんだか正体のよく分からないボヤけた感情のままに心地よいフロアで揺れていると、不意にダヴィドがアレックスの頭にヘッドフォンをかける。その象徴的なアクションと同時にRod Stewartの「Sailing」が流れ始める。

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心は海を渡っていく。広い海の向こうの、懐かしい場所に向かって。

心は呼びかける。はるか遠い場所に向かって。

そして若者たちは転覆を繰り返しては海に振り落とされ、何度でも出会いを繰り返す。

 

この作品の全体的なトーンはあまり重いものになっていない。むしろ軽快さが際立つ。

印象的に引用されるThe CureとRod Stewartの楽曲はいわゆる大ネタであるだろうし、劇中で起こる出来事をそれぞれ重く描くようなことはしていない。

これは要するに、この物語の語り部でもあるアレックス本人にしかそれぞれの出来事の重大さは分かりえないものであるということを示すためのものであり、これによって観る側の軽やかさと心地よさは生じるのではないだろうかと個人的に考えている。

決して誰にも共有することは出来ない、自分だけが見ることを許された「幻」についての物語である。

だからこそこの物語は「君の物語じゃない」のだ。

削ぎ落とすこと、見つめること

日系オーストラリア人の監督・脚本家ナタリー・エリカ・ジェームズの長編デビュー作である「レリック」を観た。

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作品冒頭、暗闇の中で心臓の鼓動のような間隔で明滅を繰り返す光は、誰にも見つけられることなくそこで永遠に息づく「なにか」を思わせる。

と、その直後、左右対称のグラフィカルな画面構成を基調としながら浴槽を映し出すことでこの作品がただのジャンルムービーではなくある程度の様式美を纏ったホラー映画の系譜に連なるものであろうことを示すと同時に、やがて人間のある狂気的な側面を見ることになるであろう予感をも匂わせる。

それだけではない。

細やかに調整が施された音響もこの作品においては大事な要素である。本編中では渇いた樹皮が剥がされていくような不可思議な音が何度も繰り返し聞こえてくる。

持続的な緊張感、不穏さはしかし程よいレベルに抑えられており、観やすさもきっちり担保されている。

ホラー映画というよりは、ホラーを基調とした「親子の物語」というのが正しいように思える。

 

派手なことは終盤以外はほとんど起こらない。

だが、その「何も起こらなさ」というのを不気味なものとして演出する手腕に長けている。

そのひとつのキーとなっているのが先述の細やかな音響であるのは間違いないように思える。

「なにも起こらなさ」に対して観る側は神経が過敏になっていく。

「なにか」がいるのではないだろうか、という感覚を植え付けられてしまう。

その恐怖は作品に登場する老女の感じているそれともリンクしている。

 

基本的にはリアリズムに徹したようなテンションで物語が進行していくのだが、終盤にフィクショナルな方向への飛躍がある。

そこでの演出にはJホラーからの引用があり、出口のない怨嗟の連なりを鮮やかに描き出していく。簡単にいうと、観ていてテンションが上がる。

 

意味をなさなくなってしまって遺棄したいくつもの老女の歴史は幾重にも折り重なる層を形成し、始まりと終わりを見失う。

風景画のような印象的な「窓」は、誰もいない景色を見つめる老人(たち)の果てしない孤独の象徴であるのかもしれない。

ささくれだって乾き切ったその表皮を、いくつもの層を成すそれを削ぎ落とすこと、見つめることによって、深い闇の底に眠る優しさは再びやわらかな空気に触れる。

 

とても丁寧な手つきで作られた映画であるな、というのが個人的な印象。

少し地味かもしれないが、あるテーマに向かって全ての要素がやがてひとつにまとまっていく様が美しい。

これが長編デビュー作ということで、これからますます期待されることは確かだろう。自身が連なる系譜を示しつつ、影響源や過去作へのリスペクトも忘れない。音響を駆使した恐怖演出と劇伴の音楽も出色の出来であり、見事であると思う。

「ヘレディタリー」以降のホラーとしての、新たな良作。