「Michael / マイケル」鑑賞後メモ

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幼少期のマイケルが、自宅の窓の内側から外で遊ぶ同年代の子どもたちを羨ましそうに眺めていると、父であるジョセフが彼を呼び出す。ごく普通の流れとして見ることが出来るこのショットだけでも、例えばその構図や後に登場するピーターパンの絵本は非常に示唆的な演出であり、また、ジョセフが彼を呼び出すまでの間合いのそっけなさもまた、歯切れのよい編集のテンポ感と重なるところがある。

はっきり言うけれど、とにかくみていて楽しい。音楽的なリズムの快楽に溢れており、まるでマイケルのパフォーマンスがど真ん中にあって、必要最低限の物語がさりげなく添えられているかのようにも思えてくるほどだが、人物同士の中でふとこぼれ落ちるさりげない一言、人物の配置や画角を通してマイケルの本来的なパーソナリティを描出していくかのような部分には作り手がわの配慮のきめ細やかさも感じられる。

全編通して、「歩み寄り」についての作品になっていると言ってもよいと思う。80年代後半、人気絶頂期のマイケルは、だがしかし、後半の病院での場面で自身の才能はあくまで「足場」なのだと語り、それを通して人々に「光」を届けたいのだと語る。要は、天才として崇められる彼にもそういった地道な頑張りとしての「歩み寄り」が確かにあって、そしてそもそもそれこそが彼の素晴らしさの本質なのではないか、と言わんばかりの一幕だ。自分を奮い立たせるために前向きな言葉を自分自身に言い聞かせ続けながらも、家族との関係性、特にジョセフとのそれにおいて激しいジレンマを抱え続ける。ひとりの素朴な人間としての悲哀を、当然ではあるがあのマイケルですら常に感じていたのだということを前提に、歴史を今一度振り返る機会としてこの作品を見ることが出来る。

蛇足かもしれないが、「歩み寄り」という主題と、それに対する父との相剋という点で面白いのはやはり結末の部分で、マイケルがある種の「概念的ムーンウォーク」を決めることで父離れを果たすところで幕切れとなるのは微妙にツイストがキマっているようにも思える。進んでいるけれど、引いてもいる。水前寺清子とは少し違う。彼のように動ける人間は、今まで、そして、これからあと何人この地球上に現れるのだろうか。

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」鑑賞後メモ

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宇宙での無重力状態における浮遊の運動、その頼りないほどの身軽さ、アンコントローラブルな身体に主人公のグレース(ライアン・ゴズリング)は終始翻弄される。本編が始まると同時に宇宙船内での長期間の睡眠状態から目を覚ましたグレースはまるで幼虫のようなフォルムの防護カバーで全身を覆われたままの状態でベッドから這い出ると、急な覚醒のためか一時的に失っている記憶をひとつずつ拾い集めようとするかのように船内のあらゆる場所を物色し始める。宙に放り出され、もがき、自身を足場に繋ぎ止めるためのロープを手繰り寄せて着地する。この一連のアクションの流れが今作の物語構造のアナロジーであり、左向きでゆっくりと回転し続ける印象的なカメラワークの如く何度もそれを繰り返す。

つまり、これはあらゆる事物や存在の軽さについての物語だ。常に物が散らばっているかのような空間の演出や、比較的奥行きを感じさせることが少なくぺたっとした、どちらかといえばアニメーションに近いような構図の画面設計が視覚的にその印象を強める。グレースが放つ瞬発力のある軽口も相まって、その軽やかさは同時に頼りなさも感じさせる。実際、グレースが宇宙船の外での活動を強いられる瞬間に感じられる強い揺らぎのような不安感は数多くのSF映画の例に違わない。

ただ、今作はその軽やかさをあくまで、どこまでも遠くへ飛ぶための浮力といったようなポジティブなエネルギーとして捉え直すことを試みている。そのエネルギーを可能な限りコントロールするための命綱として、グレースは自身が持つ知識を最大限に活用する。具体的には目に見えないものを可視化あるいは言語化することに対して労力を費やしており、それによって思い出されるのは本編の冒頭が機械音に合わせて赤と青のランプが交互に点滅するものを映し出すものであったということ。また、このシンプルな往復運動は、過去の記憶と現在の場面とを交互に見せる今作の構成や、先述した回転運動ともリンクする。

「後戻りが出来ない道のり」は決して直線的なイメージで構成されているわけではなく、そこにおいてのみ出会い直すことが可能な自分自身もいるはずだという希望に向けて、その身軽さを宙に放つこと。

「マーティ・シュプリーム 世界をつかめ」鑑賞後メモ

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本編は1952年のニューヨークから始まると同時に、劇伴では80年代のTears For Fearsによる楽曲「Change」が流れる。観客の耳目を取り巻くそれらのテクスチャーは共存、並走するというよりはぶつかり合うことで強いエネルギーを生み出し、拡散させていくような関係性にある。それは作品を実際に観てみればすぐわかることで、作中の登場人物は誰もが常に動きまわり、喋り続けているかのような忙しなさとともに金の問題に突き当たっており、そこにおける衝突とそれに伴う反発や拡散、あるいは逃避の反復運動を象徴的に表すモチーフとして卓球というスポーツが存在し、さらにはそういった煩悶そのものを示すものとして白いピンポン玉を見ることも可能だろう。

序盤、国際大会の予選リーグの場面においてアリーナ内にいくつもの卓球台が並び、方々で試合が同時進行する様子は複数の出来事や会話が同時進行することが多いこの作品の構造をわかりやすく視覚的に示すものとして機能してもいるが、それ以上にカメラがズームアップした先で試合を繰り広げる主人公のマーティ・マウザー(ティモシー・シャラメ)にとってその場所は日常のしがらみを超えた先にある空間であり、彼が根源的に抱える苦しみに対してのダイレクトなアプローチとしてのサーブ、レシーブ、そしてスマッシュが放たれる場でもあるのだ。ある種の抽象性を伴う空間と言ってもよいだろう。

だが、その後の決勝戦にて彼は日本代表選手であるエンドウ(川口巧人)に破れてしまうように、実際には全くダイレクトに問題の解決に着地することが出来ないような状態が全編を通して続く。先の試合に敗退後、東京で開催予定の大会に出場するための渡航資金を稼ぐためにアクションを起こしていく中で、本当に信じられないくらいの数のトラブルに怒涛の勢いで直面しては逃走し、その中で偶然的なチャンスを手にしてはとんでもない結末を迎えるといったことを繰り返し続ける。特にマーティが安宿の風呂に浸かっていると、もともと傷んでいた浴室の床が抜けて下の階で犬の体を洗っていたおじいさんの浴室内に浴槽ごと直撃するという衝撃的な場面では思わず爆笑してしまった。しかもそこから今度は犬を巡る新たな展開が派生していくなど、文字通り予測不可能で密度の高い脚本に圧倒される。

こうした物語進行のあり方自体が先述したような卓球というスポーツにおける物理運動と密接に結びついており、強い必然性がある。マーティの生き方は徳を積むことで念願を果たすような歩みとは程遠く、実際に蓄積していくのは澱のようにドロドロとした生々しい不都合や不運だ。それでもマーティは、エンドウのサーブを必死に返そうとするように難しい局面においてもまるで奇跡のようにゴネ続けることが出来る。卓球というアナロジーが染み付いた身体で彼は夢を見続ける。オレンジ色のピンポン玉は、マーティ・シュプリーム。

「嵐が丘」鑑賞後メモ

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想定していた以上にチャーリー・XCXによるアルバム「Wuthering Heights」からの楽曲が多く使用されていたので驚いた。19世紀初頭英国の景観(といってもほとんど原っぱか屋敷)や衣服といったルックに対してチャーリーのサウンドという組み合わせは普通に考えると違和感が生じそうなものではあるが、それでも作品内の重要な場面においては大音量で彼女の音楽が鳴り響く。なぜこのような構成がなされているのか、そのポイントとなるであろうヒースクリフ(ジェイコブ・エロルディ)の存在との関係性を中心に据えながら考えてみる。

まずは簡単に作品冒頭を振り返る。アヴァンタイトルは街中での絞首刑の場面から始まり、頭部を麻袋で覆われた状態で吊るされている男性のクローズアップが印象的に映し出される。男性の首が限界まで締め付けられ息絶える瞬間、それを下から見上げていた観衆たちは恍惚の笑みと共に歓声を上げる。

肉体の締め上げを経てオーガズムに至るという構図自体は作中において形や意味合いを変えながら繰り返し描かれる。キャサリン(マーゴット・ロビー)が寝室の床板が朽ちて生じた隙間からアーンショウ家の使用人らのセックスを目撃する場面やその構図は特に象徴的で、彼らによる馬の拘束具を利用したSM的なプレイが進行する中で実際にスクリーンに映し出され続けるのは、ヒースクリフによって目元と口元を手で覆い隠されてしまうキャサリンの横顔のアップとなっている。これにより視覚的な拘束と音響的な快楽という新たなレイヤーが具現化されることで、執拗にヒースクリフの肉体が映し出されること、そして先述したようなチャーリー・XCXによる楽曲が使用されることとの必然性が示される。

つまり、今作のエロティックなムードの根底にあるのはスクリーン上にて強調される男性的で硬質な肉体性(延いては社会における男性中心主義的な価値観)と、劇伴におけるチャーリー・XCXのオートチューンを用いたエレクトロニックな質感の声音と荘厳なストリングスが織りなす現代的でやわらかなサウンド(本編において映し出されることがなかった「青空」のよう)との対照的な二者関係、より端的に言えば締め付けと解放の構図であり、その前提を踏まえると作品を読み解くための補助線としても機能する。

相手の意識を自らに縛りつけようとすること、肉体を通した触れ合いを求め合うこと。生卵をベッドシーツの下に隠しておくイタズラからエスカレートしていくように発展していくヒースクリフとキャサリンの関係性はやがて呪い合いの様相を呈し始める。激しい締め付けと、甘い言葉の応酬。ヒースクリフは常にこれをキャサリンに対しての「施し」として行なうが、彼女が望んでいたのはあくまで「側にいて欲しい」というシンプルな願いであったというポイントに関係性のすれ違いを見るとき、あえて男性性と女性性とで映像と視覚が織りなす関係性を二分したこと、そしてネリー(ホン・チャウ)というもうひとりの主要登場人物の在り方が、その本懐を仄めかし始める。

「センチメンタル・バリュー」鑑賞後メモ

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いくつものショットが連なることで映画的な時間が直線的に立ち上がり始めていくようなイメージが、少なくとも自分にとっては上映が始まってからしばらくの間生じ続ける。始まりから終わりまで、基本的には映写機が不具合を起こすなどトラブルがない限りは一筆書きのように進み続ける運動としてどこかで認識している。作品冒頭の、左から右にゆっくりとパンしながらオスロの都市の景観を映すショットは象徴的だろう。

けれど「センチメンタル・バリュー」を見ているうちに気付かされるのは、過去や現在、未来といったそれぞれの時間や記憶に関するイメージが波のようにうねりながら近づいては離れる運動を繰り返す、ある種曲線的でしなやかな伸縮性を伴う時間の在り方だ。

秒単位で行動を管理するタイム・パフォーマンス的な感覚とは全く別種の、うねりを伴う時間の在り方は、ひとりの人間の意識と身体、そしてその周囲に存在する人々や空間を忙しなく揺さぶり続ける。それは作品序盤、主人公のノーラ(レナーテ・レインスヴェ)が舞台の開演直前になっても「私には出来ない」と激しい逡巡を繰り返す様子においても視覚的に明示されていたように思える。まるで往復運動のようにうねりを生み続ける時間が存在することで人の恒常性が保たれているようでもあり、それは主人公が「絶望」して体が完全に床に突っ伏してしまうシークエンスにおいてもその印象を強くさせる。

作品の中盤から後半にかけては主人公とその家族らがそれぞれ抱える喪失の根源にはどのようなルーツがあるのか、その核心に迫っていく。ここで描かれるものにおいてもやはり過去や記憶のイメージが不意に現在に肉薄する。

この作品または作り手が時間や空間を描くことに対してかなり意識的であることはとても重要な要素でもあるだろう。作品を通して主人公が父のグスタフ(ステラン・スカルスガルド)に向き合う中で辿る道筋はとても直線的と呼べるものではなく、それでもその幾重もの迂回を経て生じる運動自体がやがて失われた時間と自分、そして父との関係性とを緩やかに縫合していく。

「万事快調 オール・グリーンズ」鑑賞後メモ

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破壊行為によって今ある世界を打ち砕く革命ではなく、誰も目を向けていないようなものを拾い集めてそこから新しいなにかを生み出そうとすることについての作品だと思った。皆に知られることがないままにどこかへ消えていきそうな光景や感情の数々を主人公の朴秀美(南沙良)がラップのリリックとして拾い集め再構築していき、ライムとデリバリーによって編み出されるフロウによって音楽へと昇華していくアクションは象徴的だ。朴が同級生の矢口美流紅(出口夏希)、岩隈真子(吉田美月喜)らと共に工業高校の屋上で栽培し始める大麻の種も物語の中で偶然手に入れているものであり、この日本においては違法行為と見做されてしまうのは仕方がないがそれでも彼女たちは基本的には破壊行為としてではなくあくまで創造的なマインドでもってそれを行なっている。また、ラップにおける反復運動や言葉同士の意味合いの飛躍が生む飛距離の感覚も今作の人間関係の描写においては重要なのではないかとも思う。それぞれの登場人物がひとりで過ごした日々や時間、例えば矢口の機転の良さや岩隈の現実主義的なトーンが朴の孤独な世界と溶けあうことで生まれるムードが今作の魅力のひとつであることは間違いないだろう。そしてそのムードの醸成がピークに達したところで「着火」されるクライマックス。冷笑まみれの世の中で「熱くなれよ」ということなのだという意味で受け取った。

「アフター・ザ・ハント」鑑賞後メモ

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この作品は「ワン・バトル・アフター・アナザー」にも見受けられるような時代の潮流に対する答え合わせとしての側面を抱えているが、違いを挙げるとすればこの「アフター・ザ・ハント」におけるZ世代の若者たちの描かれ方はひたすらに「面倒臭い奴ら」としての印象が強く、ウォーク的な価値観に対しては明らかに挑発的だ。主人公のアルマ(ジュリア・ロバーツ)が自身の過去と未来の縦軸、そして現代での人間関係の横軸という構図において上下左右から静かに圧迫され続け文字通り身動きが取れなくなる物語のプロットは、「正しさ」に対してある程度の見切りをつけなければ描けないものが生じてくるだろうという作り手側の切迫感とリンクしているようでやはり切実さを感じさせる。この全方向からの圧迫がピークに達する瞬間の、素朴な人間の良心が闇の中で小さく光を放つかのような病床におけるショットは美しかった。主人公と作り手、そして作品を鑑賞する我々の抱える緊張感がひとつに折り重なると同時に断ち切られる大胆なエンド、さらにはその後のEverything But The Girl “Nothing Left To Lose”はひとつの年代への鎮魂歌としても響く。