「デューン 砂の惑星PART 2」鑑賞後メモ

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 IMAXの巨大なスクリーンにとてつもなく巨大なものが現れたり動いている様子が映し出され、さらに緻密に構築されたサウンドデザインの音響や劇伴が全身を貫いていく心地よさ。「デューン」自体は非常に情報量の多いSF小説ではあるものの、ドゥニ・ヴィルヌーヴによるそれは映画鑑賞の快楽性を押し出す方向性に振り切っている。個人的には少し拍子抜けするくらいに物語自体はシンプルに見えるようにまとめられているのは、やはり、とにかく全身で映画を浴びることの喜び、そしてそこにこそ「楽園」が生じうることを本気で信じていることの証だろうと思う(実際、このトーン&マナーで進行してもらえる方が見やすく心地よい)。映画が運動を捉えるものであるということ。ここで用意されている3時間はその大きな物体による運動がゆっくりと時間をかけて我々の心と体を通過していくための時間だ。ポール(ティモシー・シャラメ)がサンドワームに初めて飛び乗るシークエンスは圧巻。

 他にも印象的だったのは、この2020年代のタイミングにおける戦争の描き方で、あくまで単純なカタルシスにはまとめることはせずに、争いや暴力の禍々しさをそのまま抽出していくような映像と音の演出が施されている。復讐という無限の暴力のスパイラル、そして「選ばれし者」という存在に対しての現代的で懐疑的な視線をクールに体現するチャニ(ゼンデイヤ)。「選ばれし者」ですら、結局は既存の物語に踊らされているだけなのではないか、と。この点においては監督の過去作である「ブレードランナー 2049」とも重なる、冷静な自己批評的視点が含まれているようにも感じられた。

RAFRAGE / Kamui

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 サイバーパンクという過剰さからこぼれ落ちる、ささやかで繊細なKamuiの人間性。というものが「YC2.5」というアルバムから垣間見えるものだとすれば、「RAFRAGE」から立ち昇るのは、現実という殺伐とした世界をベースにしながらも、そこから肥大し始めるひとつの巨大な虚像=強い怒り=RAGEとしてのKamuiなのかもしれない。一曲目のタイトルにも冠されているPlayboi Cartiに対しての印象をKamuiは「曖昧な存在」と自身のYouTubeでの動画において述べていたし、それをわざわざ冒頭に持ってきていることは決して先述した内容と無関係ではないだろうと思う。

 前作のような一貫性のあるストーリー性、とは対照的に、半ば散発的に、あらゆる方向に粗々しく飛び散っていく感情はKamuiという存在の輪郭を曖昧にしながら膨張させていく。過去、現在、未来が一緒くたになってグツグツとマグマのように熱い鍋の中で燃えたぎっているような、そんな印象を抱いた。意図的にぼかされていく解像度の荒いイメージはどんどん軽やかさを纏い始め、宙に浮かび上がっていく。高音によって発生する上昇気流がやがてハリケーンを生み出していく。ゲーム音楽のような、デジタル的な質感が強いRAGEのビートにドロドロとした人間性、生々しさを落とし込むことに成功しているのは、Kamuiの決して線が太いとは言えない発声の仕方がもたらす、怒りを滲ませながらも常にどこか儚げな印象や、「独特なフォークボール」の如く予測不能で変則的なフロウを地道に積み重ねることが可能な確かなラップスキルによってそれが担保されているからだろう。

 「幕張の一番遠い客席」=誰もいないひとりぼっちの自室に置かれた、パソコンやスマホの液晶の前(個人的な解釈)に佇む筆者の胸に、今作は確かにCriticalな一撃として突き刺さっている。

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「ほつれる」鑑賞後メモ

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 「冷たさ」についての映画。現代の東京を主な舞台としているが、カメラが切り取る主人公らの暮らすマンションの一室や街の景色、自動車やロマンスカーの鉄とガラスの質感はヒンヤリと冷たさだけを帯びていて、まるでSF映画を見ているような心地がする。全編を通してほぼ全ての人間が「本当に言いたいこと」をストレートに話す瞬間がなく、婉曲的で柔らかさだけを突き詰めた(しかしそれにより遠ざけられる本音は無言のうちに鋭さを増す)会話が積み重ねられていく脚本は見事だと思った。温泉という、誰もが安らぎとともに体を温めることが出来そうなロケーションを映している瞬間さえヒリヒリとした空気感を孕むこの作品内で、どこに「暖かさ」が存在しうるのか。それはきっと、目に見えないもの、すでに目に見えなくなった時間の中に見出しうるのであり、それを体現しているのが染谷将太が演じている人物であるように思えた。

 画面のアスペクト比がスタンダードサイズになっていることで、闇の間に浮かび上がる光、熱としての映画という構造がより強調されているようにも感じられる。映画を観ているとき、我々は網膜を通り抜けていった無数のカットの連なり、その記憶を手繰り寄せている。本当に伝えたい思いをきちんとその手に取り戻そうとすること。

BAD HOP THE FINAL

 久々にとてつもなくポジティブなヴァイブスに溢れたものを目撃した。特にガチなヒップホップヘッズというわけでもないタイミングから今までインターネットの端っこからひっそりと見守っていた、2010年代以降の日本語ラップシーンを牽引していた存在、BAD HOPによる目の前でのアンセムのつるべ打ちには興奮して頭がクラクラし始めると同時に、ドーム中が、そして俺の横にいる青年がとにかくずっと全力でシンガロングしまくっているその空間は多幸感に満ち溢れていた。演者もすごいけれど、オーディエンスの熱気や反応が瑞々しくて、どピュア。ついつい、これはヒップホップ走馬灯なのかとも思ったけれど、むしろこれは現在進行形で大きくなっているドリームなのだろう。

 ¥ellow BucksBonberoを始めとしたここ数年のフレッシュなラッパー、そしてZeebraMC漢、SEEDAANARCHY日本語ラップ史を辿るような客演は、iPhoneの中に動画として収めておくだけでもかなりご利益がありそうだ。Zeebraのヴァースはとても感動的だった。自分とほぼ同い年の人間で東京ドームでライブをするような大きな存在が川崎区のゲットーから現れるとは想像がつかない。そういった時代なのだなと肌感覚で理解した。

「瞳をとじて」鑑賞後メモ

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 「古い記憶と出会いなおすための装置としての映画」についての物語であるように思えた。現在の視点(観客席)から過去を見つめ直す眼差しと、スクリーンの内部に収められた過去から未来の世界に向けられた眼差しとが重なり合う瞬間の高揚、スリル。言葉よりも早く瞬間的に何かが伝わっていく、あるいは伝わっていないことが理解されてしまうほどにその解像度は鮮明だ。物語の後半における老人ホームの食堂での視線のやり取り、そして主人公らが海兵時代に習得した紐を結ぶ仕草を通した無言のコミュニケーションを行っている場面を見たとき、この静かなトーンの作品のうちに込められたとてつもない熱量の、「届け」「届いてほしい」というエモーションの存在に気付かされ、目の奥がビキビキと痛むほどに目頭が熱くなった。この作家が映画を作るということにおいて根幹のモチベーションに据えている凄まじい思いは、しかし、3時間弱という長い上映時間がむしろどんどんプラスに作用していくような心地よさ、繊細なライティングのセンスにより映像作品としてあまりにも上質に仕上げられたタッチを通して我々の瞳にゆっくりと浸透していく。

 時間が経過していくことの残酷さ、「別人」として相対化されて描かれる若き日の自分、そしてそれらと出会い直しその姿を直視することの困難さが、物語が進行していくにつれて浮き彫りになっていく。ペンキまみれで作業を行う主人公らの姿と、「悲しみの王」が最後に取る行動との対比にこの作品の悲哀のピークが収められている。

 「見つめること」を諦めないでいたい。瞳はいずれ乾いて、とじられてしまうから。

 あまりに完璧な終わり方に、思わず暗闇の中で笑みを浮かべた。

「夜明けのすべて」鑑賞後メモ

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 さながらプラネタリウムのような映画だと思った。観客が目撃するのは「周期」についての物語であり、世界のあらゆる場所にバラバラに存在する、ひとやものがそれぞれ内包する周期が交錯し合う様子が常に映し出されているように感じられた。藤沢さん(上白石萌音)は月に一度のPMS月経前症候群)を、山添くん(松村北斗)はパニック障害というコントロールを効かせる事が非常に難しい身体的ないし精神的な周期を抱えながら日々を過ごしている。

 今作では日常生活において不意に訪れるそれらの症状を治す、というよりかはいかに藤沢さんや山添くんの日々の暮らしのリズムにその周期を寄り添わせるかという試みが描かれ、その調和を示すモチーフとして星座についての話が引用される。眼差しを向ける=その存在をそこに認める、見守る、知ろうとするという映画鑑賞のアナロジーはそのまま星座やそれらを映し出すプラネタリウム、そして身近なひとに対するケアのひとつの在り方に重ねられていく。そのいくつもの視線のレイヤーが社会や世界という空間を構成している、ということ。

 三宅唱の前作「ケイコ 目を澄ませて」は音楽的な比喩を用いて表すならば、街の喧騒によって表象される情報過多なノイズをひとつずつ解いていくことで澄み切った静かな視界、世界を取り戻してくような構造をしていたが、この「夜明けのすべて」はそれとは対を為しており、ひとりぼっちのところから始まった藤沢さんや山添くんが自分のリズムを取り戻すためにパーツをひとつずつ組み上げていくような、そんな印象を受けた。

 街の音がとても静かな作品ではあるが、視界にはいくつもの映像的なリズムが飛び込んでくる。それだけでとてつもなく豊かな体験になっているのだから不思議だ、と思う。

Taylor Swift / THE ERAS TOUR

 昨夜、2月8日木曜日のテイラー来日公演2日目、東京ドームでのライブを友人と共に観に行った。

 ライブを見終わってからはずっと脳内で”Cruel Summer”が流れ続けている。今はまだ冬だし、なんならこれから花粉症シーズンだったりで、マッドな恋愛模様が個人的に展開されているわけでもないのだけれど。まあ、でもテイラーの書く歌詞はけっこう好きだな、とライブの前日くらいに思い出したようにYouTubeで和訳つき動画を見続けている内に感じていたりなんかして、要はミーハーな自分も普通に楽しんできたということだ。

 3時間強、ぶっ続けで続くわけのわからないスケールのパフォーマンスは、人間の限界を3周くらい超えた空前の時間芸術としか思えなかった。見てるだけで俺も友人もクタクタになっていたというのに、テイラーは全く疲れたような素振りを見せない。どんな生活を送ればそんなバイタリティを獲得できるのかと想像を巡らさずにはいられない。

 普段自分が出向くようなどのライブ会場よりも圧倒的に若い女性客の比率が多かったし、かなり陽性なムードというかテイラーのステージ衣装のようなキラキラをまぶしたコーディネートを身にまとっている人が何人もいたのが印象的というか、ネオ美川憲一の様相を呈していた。

 世界一のスーパースターをリアルタイムで、目の前で観ることなどもしかしたらこの先もうないかもしれない、あってもそんなに多くないだろうから、見終わった今となっては嬉しいような寂しいような。でも最近はライブを見に行く事が少し億劫になってきたというか、単純に周りにたくさんの人がいるなかで音楽を聴くことは自分が心地よいと感じる音楽の視聴環境とは少し違うものかもしれないと今更ながら感じ始めたところであったりもしていたので、そういった自分自身の心境の変化、そしてさらには2010年代的なムードに対して自分の中で一区切りついてしまったような、そんな諸々を思ったりした一夜だった。

 そんなことを言いながらも、今度、BAD HOPのラストライブを観にまた東京ドームに行く予定なのだけれど。