「ZOLA」鑑賞後メモ

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 「周りが勝手に動いているだけなんだ」というフレーズが語られるのは今年の5月に劇場公開されていた佐向大監督の「夜を走る」という作品においてだったが、「ZOLA」におけるゾラはどうだったろう?彼女もまた、そんなフィーリングを常に抱え続けながら終わらないBADな「トリップ」に巻き込まれ続けていたのではないだろうか。今作の映像が60年代的な質感でまとめ上げられているのは「トリップ」を描いた映画の系譜に連なるものであるからなのだろうけれど、そういったジャンルにおける過去の作品群と違っている点はゾラがかなり早い時点から常に冷め切っていたということだ。

 周りはやたらと煌びやかで騒がしい音に塗れているけれど、それらの何ひとつとして自分自身の興味関心には訴えてこないし、むしろ露悪的なムードすらそこに感じてしまう。Mica Leviによる劇伴がこの感覚に見事にフィットしていく。魅惑的かつ悪夢的、セクシーだけどグロテスクな数日間がゾラの周りを勝手に駆け抜けていく。ただひとつの始まりかけた友情を信じていたかっただけなのに。

 作品内で巻き起こる事態に対してゾラが常に受け身の状態でいることしか許されないのを見ている内に、宇野維正氏による「NOPE」評の内容を思い出した。

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主に北米におけるアフロ・アメリカンの人々が置かれる抑圧的な環境やそれに起因する不快感、孤独感がまさに「NOPE」の主人公であるOJの姿と重なる。しかも、「ZOLA」においては大きなカタルシスが訪れることもないのだ。ただひたすら、過激になっていくだけ。ある意味今作で最も衝撃的な、ぶん投げるような幕引きにはそういった社会の構造に対する批評的な視点が込められているはずだ。

 今作のアヴァンタイトルは顔にメイクを施すゾラとステファニの姿が無数の鏡に反射していくつもの像を映し出していく幻惑的なショットから始まるが、これは要するに人間は他人に関してほんのひとつの側面をあてにすることしかできないということを表していたのではないかと考えている。ポスターアートにおいても、作品を鑑賞する前にはふたりがまるで鏡像関係にあるかのような印象を覚えていたが、これもよく考えてみるとふたりとも横顔しか映されていないわけで、つまりはゾラのように我々もまた「トラップ」にかけられるような構造になっているのだろう。

 かなり変わった映画だ。それでも、日常生活においてしばしば感じるこの世界の騒がしさに対しての虚無感、冷めた感覚をきちんとキャプチャーすることに成功しているという点においてこの作品はとても魅力的だと個人的に思う。「これは、私の」感覚だと思わずにはいられなかった。