「ザ・ミソジニー」鑑賞後メモ

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 高橋洋監督による前作「霊的ボリシェヴィキ」において描かれていたのは人間が触れざる領域や力とのすれ違いであったと思う。直接的にはっきりと目にしたり手に触れることはほとんどないが確かに存在していることだけはなぜか確信出来てしまう、言葉では説明できない何か。各登場人物の体験をそれぞれの語りのみで描くことでその言葉に出来ない感覚を倍音の如く増幅させ、あまりにも奇妙な、しかしそれでいて無駄なく研ぎ澄まされた降霊の儀式をカタチにしていた。それに対して最新作である「ザ・ミソジニー」はそもそも人間の中に存在している触れざる領域を「神秘」として描いている。

 そもそもミソジニー、つまり女性蔑視という感情自体が人間に特有の屈折した感情だ。あまり専門的な知識はないが、個人的にはこの感情は母性的な愛情を強く求める感覚と分かち難く存在しているのではないかと考えている。劇中の「母娘」の描写の如く互いに愛情のピースを嵌めることが出来ないことに強い苛立ちを覚えると同時に、無意識に理想的な母性に執着し続けてしまうことでマグマのように噴き上がるどす黒い感情なのではないか。だからこそイメージ通りの型に当てはまらない(つまりは「理想の母」以外のすべての)女性たちを憎むことになる。これは「神秘」というよりは「地獄」であるかも知れないが、人間として生きていく上では誰もが避け難い領域であるはずだ。たとえ論理的な理解が可能であったとしても、だ。

 ミソジニーについて語られるとき、男性が持つそれについての話になることが多いとは思うが、この作品においては「母」と「娘」の関係性を通して語られる。「男は死んでも何もないが、女は流した血の量に比例したダークな感情を抱えて蛇に生まれ変わる(ちょっとうろ覚え)」という劇中での言及が、男性原理主義的な社会構造に起因する怨嗟の連鎖に絡め取られ続ける女性性のひとつの側面を端的に表していた(もちろん人によってその感覚は異なるとは思うが)。

 世界を取り巻く既存の構造から抜け出しきれない人間の愚かさ、執着の強さがミソジニーの根源にある。「すべては神秘に始まり政治に終わる」ことは、ある種の地獄であるのだろうか。

 それでもこの作品が最後に二人の女性が互いに手を振り合うショットで終わるのは、あくまで人間が持つ神秘性を肯定したいということだったのではないか。一方が手を振り、それに反応して相手も手を振ってみるというあまりにも単純な言葉を介さないやりとり。まるでふたりはこの混沌に塗れた世界において友達同士のように励まし合っているふうにも見えた。

 いくつドアを開いてもまともに把握しきれない領域が無数に存在し折り重なるこの世界の中で、それでも人間はときに途轍もない執着心と共に「見えないもの/触れざるもの」を呼び起こそうと力を尽くす。その姿は俯瞰して見るとクスッと笑えるほどに奇妙なものであるのかも知れないが、そこに魔があり神秘もある。それを映画というアートフォームを通して表現しようとする人々がいるということが、とても素敵に思える。