「EO イーオー」鑑賞後メモ

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 暗闇で横たわっているEO(イーオー)という名のロバに寄り添いながら優しく言葉を語りかけているのはカサンドラ(サンドラ・ジマルスカ)という若い女性だ。弱っているEOを彼女が介抱している様子を映しているのだろうかと思っていると突如、赤い照明が眩しく二人を照らし出し始め同時にそこが小さなサーカスのテントの中であることが判明する。まるでストロボのように激しく点滅する光と円を描くようにステージを動き回る彼らの姿が象徴的に映されるシークエンスだ。彼らはショーの真っ最中であったというわけだが、この演出自体がまさに今作はあくまで人間が恣意的な撮影や編集などによって作り上げられた見せ物に過ぎないのだという作り手側からのエクスキューズとして機能していた。そしてライティングや衣装において印象的に用いられている赤はEO自身の欲動(=EROS)を表しているようでもあり、食用肉やサラミなどの赤=死の予感を表しているようにも思えた。EOの非マッチョ的な優しい眼差しや、その小さな体を震わせながら鼻を鳴らしている姿は愛らしいがとても不安げにも見えてしまう。実際、彼を取り巻く世界はカサンドラという存在を除いてはほとんどが(少なくとも動物の視点からは)暴力的な存在に溢れている。EOのヴァルネラビリティ(=脆弱性)は逞しい身体を持つ馬との筋肉量や人間からの扱われ方の対比によってより強調される。

 EOはポーランドの動物保護団体がサーカスに対して行った抗議運動によってカサンドラのもとから強制的に引き離されてしまう。その後、いかにもお金持ちといった風情の家に連れてこられると、他のたくさんの動物たちと共に大きな馬屋のような場所に収容される。そこでEOの隣にいるのは立派な毛並みの白馬なのだが、この白馬の人間からの扱われ方はまるで高級車のそれのように描かれているように思えた。ホースで水をかけられながら飼育員に丹念な手つきでその身体を洗われる様子がじっくり映されたかと思うと、小屋の中の円形の広場をほとんど強制的に走らされているようなショットが挟まれる。これは本編開始直後のEOとカサンドラが行う同じ運動と重なるような見せ方がされており、オープニングにおける開放的なテンションとはかけ離れた白馬の不自由性が逆に強調される。動物保護団体によって場所を移された挙げ句、富裕層の資産としてしか生きられなくなってしまう動物たちというアイロニカルな筋書きがここにおいてひとつ示される。

 それからいくつか展開があり、EOは田舎の老夫婦が営む小さな牧場に移されるのだが、そこにカサンドラが恋人のバイクに乗っかってやってくる。彼女はその場所までわざわざ追いかけてEOの誕生日を祝いに来た様子なのだが、最終的にはとても名残惜しそうにしながらも再び恋人のバイクの後ろに乗って去ってしまう。カサンドラというEOにとって唯一と言ってもいいであろう優しさや母性の象徴のような存在を失ってしまったことがひとつの契機となり、EOは牧場の低い柵を飛び越え外の世界(=人間中心の世界)に飛び出していくことになる。ここまで鑑賞したとき、ロバのEOがカサンドラを恋しく思っていると考えるのは人間にとって都合のいい見方でしかないのではないかと一瞬考えてしまったが、その少し後に挟まれるドローンによる(露骨にダサい)空撮ショットや風力発電のプロペラを映し出すショットがそういった視点はあくまで織り込み済みであるということを端的に示す演出として機能していたのだろうと思う。なぜならこれはやはりオープニングでも示されていたように人間のための見せ物であるからだ。

 その後、EOはとあるアマチュアサッカーの試合の現場に偶然居合わせることになるのだが、ひょんなことからそこで試合を観戦していたサッカーファンの人々からの注目を浴びることになってしまう。このときの演出もそうなのだけど、ちょくちょく乾いた感じのさりげなく笑える演出が挟まれるのでふつうに面白く見れてしまったりもする。EOは何故かファンらによる打ち上げの現場にまで連れてこられてしまうわけだが、EOのロバとしてのある種「無感情」な表情と露骨にダサさが強調されたEDMソングとの対比は面白すぎて笑ってしまった。しかし、その直後に訪れるとある展開は非常にシリアスなものを孕んでいたり…。そういえば、ちょっとびっくりするような普通はありえない演出もそこでは挟まれる。これも先述した「これはあくまで見せ物」という側面を示すものではあるのだけれど。

 サッカーチームが登場するシークエンスが終わると物語は後半に差し掛かる。ここからしばらくEOのロバとしての視点からは少し離れて何人かの人間の視点を通して物語が展開されていくのだけど、その中でもトラックドライバーであるマテオ(マテウシュ・コシチュケヴィチ)に関する展開は非常に現代的な主題を描いていたように思える。要は格差社会やそこにおいて貧困層が抱える苦しみ、そして人種やジェンダー間の敵対を端的に示す場面になっているのだが心を揺さぶられるし、戸惑いを覚えてしまうような事態が引き起こされる。短い尺で複数の社会問題を横断して描いてみせる監督の手腕はやはり流石のものと言って良いだろうと思う。

 1938年生まれであり、これまで数多くの作品を手がけそれと同時に高い評価を受けてきたイエジー・スコリモフスキ監督がどうしていまだに映画を撮り続けているのかということに対しての自己言及も今作には含まれていたように思える。それを端的に示していたのは終盤に登場するヴィトー(ロレンツォ・ズルゾロ)というキャラクターであり、彼は車での移動中にEOに対して「自分はロバの肉のサラミも食べたことがある」と正直に告白しつつも常に冗談を交えながら気さくに、しかし一方的に語り続けるのだ。この描写や時折挟まれるEOが鼻を鳴らしたり独特な鳴き声を上げるカットを踏まえてみるとスコリモフスキ監督は今作を通して、映画などの作品を通しても完璧には思いが伝わらないだろうということや自分自身にある種の加害者性があるということを十分に自覚しながらも「一方的に語りかける」ことに対しての欲望や執着から逃れることが出来ないのだという告白を行っているように思えてならなかった。そしてそれはスコリモフスキのみならず、ロバであるEOや観客である我々においても同様なのではないだろうか。ちなみに、今作においてもうひとつ印象的なのは物語のプロットにおけるEOと人々との「断絶」とカットによって場面を繋ぐ、編集することの暴力性とが重ねて描かれているように思えるところだ。先述した物語中盤の驚きの演出が顕著ではあるのだが、現実からかけ離れてしまうような描写であったとしても繋いでしまうことでそれがひとつの物語と化してしまう暴力性が映画という表現形態には宿っていて、それはひとりの人間が現実世界を見つめるときにおいても同じ危険性を孕んでいるのだということを今作は描いているように思えた。現に我々はロバであるEOが本当にはどんな思いを抱いているのかを知りえないのに、そこに勝手に物語を見てしまう。あくまで人間と野生の動物の間には深い断絶が存在しており、完璧に理解し合う関係性にはなりえないという厳しさは本編を通して徹底されている。しかし、たとえそうであったとしても内から込み上げる「赤い欲動」は孤独や寂しさを起点として燃え上がり、我々の心に誰かとつながり合うこと、EOカサンドラのように相補的な関係性を築き上げることに対しての憧れを知らず知らずのうちに激しく焼きつけていく。たとえ現実が数多くの暴力的な「断絶」に塗れていようとも。