「そして僕は途方に暮れる」鑑賞後メモ

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 「ハウスはあるけど、ホームはない」

 こんなようなことをROTH BART BARONの三船雅也がタナソーのポッドキャストで話していたのを思い出した。生活を送るための住居としての「ハウス」と、自分が本当に安らぐことが出来る場所としての「ホーム」はまた別のものであるという意味合いでふたつの言葉は使い分けられていた。三浦大輔監督の新作「そして僕は途方に暮れる」において菅原裕一(藤ヶ谷太輔)が一時的な「ハウス」として滞在していた場所を飛び出す際に荷物を詰め込むバックパックは彼にとっての「ホーム」を象徴しているようでもあったし、だからこそ今作において何度も印象的に映される、菅原が後ろを振り返るショットは背後に「ホーム」の存在を無意識的に感じ続けてしまうが故のアクションなのではないかと思わずにはいられなかった。

 しかしこの菅原裕一という主人公には不可思議なところがある。彼の恋人である里美(前田敦子)は仕事前に彼の分まで充実したボリュームの朝食を作ったり、心がギリギリの状態になるまで彼の浮気を咎めずにいたほどに先述の「ホーム」を体現するかのような優しさや辛抱強さを持ち合わせている人間ではあったにも関わらず、彼女を悲しませ続けてしまうのだ。作品を鑑賞していくうちにこれが「家」についての物語であるということはわかってくるのだが、菅原のこういった破滅的な側面は一体どこに由来しているのかと疑問が湧く。それについては中盤において描かれる彼の両親の人柄、また彼らとの関係性の中にヒントが込められている。優しさに溢れているが精神的にデリケートな側面も併せ持つ母親(原田美枝子)と、あまりにも破滅的で逆に愛着が湧きかけてしまうダメ男な父親(豊川悦司)との間で宙吊りにされるような感覚の中で生活していたことが彼の日常的な思考回路に何らかの影響を及ぼしているのではないかと思うし、だからこそ彼や姉の香(香里奈)は東京へ飛び出してきたのではないだろうか。東京と北海道という極端なロケーションの違いによるコントラストもそれを視覚的に暗示していたと思う。とすると菅原にとっての「ホーム」は安らぎだけではなく自らを圧迫する強迫観念のようなものとしても機能しているのかもしれないし、これによって後ろを振り返るショットの意味合いもより重層的なものになっていく。安らぎを得るために現在地を飛び出し、別の「ハウス」にたどり着いてもしばらくすると菅原の中にある強迫観念的な「なんか」が疼き始めて破滅を呼び起こしてしまう。素顔が映されない菅原の浮気相手の存在はまさに彼にとっての破滅の象徴でもあった。単にダメな人間というだけではなく、彼にとって逃げるというアクションは生きていくための手段そのものであり、避けることが出来ない業のようなニュアンスさえ帯びていく。

 そんな菅原が後半において少し笑える状況ではあるものの完全に追い詰められてしまう瞬間があり、そこにおいて彼は涙ながらに何度も謝るのだけれどそこで繰り返される言葉は「なんか、すみません」という曖昧で情けないフレーズだ。これ以上逃げようがないシチュエーションにおいても菅原は自身のなかで強く波打つエモーションの正体をはっきりと掴むことは出来ないのだが、しかし逆にそれによって彼なりに苦しみ続けていたという事実がある種具体性を帯び始めるので観ている側はここで最もグッときてしまう。三浦監督自身もインタビューにおいて言及しているが、これは完全に藤ヶ谷大輔の演技力による賜物であったように思える。自分の中の「なんか=曖昧さ」をそのまま取り出して他者に伝えることが出来ないもどかしさは、このSNS時代においてやはりタイムリーなトピックであることは間違い無いだろう。東京において恋人、親友、先輩と後輩に見せる表情や態度がハッキリと違っていることもその曖昧さを認識できていなかったことと無関係では無いはずだ。

 曖昧さを抱え続けながら生きていくということ。ラストシーンにおける菅原の振り返りはまさにそれを体現するかのように表情が不思議な揺らぎ方をする。「ホーム」はどこなのか、そもそも存在するのか。まだ結末のわからない自分自身の物語をロングショットで俯瞰し始めた彼の表情はしかし、生きることを楽しみ始めているようでもあった。あるいは、途方に暮れているようにも。

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