「ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り」鑑賞後メモ

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 冬来たる。そんなフレーズを思い出してしまうような吹雪が最初に映し出されると、その奥から何頭もの馬が大きな鉄のキャビンを引っ張りながら駆け抜けてくる。高くそびえる鉄城門の前で停止したそれはどうやら囚人の護送車であり、その中からはいかにもといったような屈強な囚人がひとり現れる。鎖に繋がれた彼は鉄の鎧を纏った兵士たちに挟まれた状態で自身が収監される部屋まで連れられるが、いざその部屋に入るとそこにはすでにふたりの人間がいて、なにやら監獄という場には釣り合わない呑気なムードを醸している。ひとりは横になった姿勢で編み物をしている男で、どうやら毛糸で手袋を編んでいるようだ。そしてもうひとりは女で、寝床の縁に腰掛けてイモに齧り付いている。

 「女と同じ部屋になるのは初めてだ」

 屈強な男はそう呟くと女の顔に手を触れようとする。その直前で編み物をしていた男が「食事中の彼女の邪魔をするのだけはやめておきな」と警告をするが、もちろんそんな言葉を気にするわけもない。すると女の方は食べていたイモを脇のほうに大切そうに置くとその新入りの足に一撃を喰らわしてひざまずかせて、それからそいつの顔を掴んで自分の膝に思い切り叩きつけた。他人を傷つけて独りよがりの欲望を強引に叶えようとする奴は痛い目を見る、というわけだ。そんでもってこの作品の主人公はさっきまでのふたりで、編み物をしていた男がエドガン(クリス・パイン)、新入りを殴り倒した女がホルガ(ミシェル・ロドリゲス)ってカンジだ。

 

 ここまでが今作の導入部分になっているのだが、いい意味でだらしないゆったりとした物語のテンポ感とともにギャグを細かく積み重ねていくことで少しずつ推進力を上げながらそれを維持し続ける確かな腕力をこの時点で垣間見ることが出来た。この作品の撮影や劇伴等含めた基本的なプロダクション自体は真っ当なエンタメ作品としてのものに仕上げられてはいるものの、そこに70年代アメリカ映画的なオフビートな会話とギャグ演出とが加えられていて、おそらく今作との比較対象として真っ先に挙げられるであろう「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」との差別化が上手く図られているように思えた。モーレツに笑える箇所が要所要所に配置されてはいるが基本的にはクスッと笑える程度の細かなギャグを、クドさのない乾いた笑い演出、そしてアクションシークエンスの爽快感溢れる繋ぎ方ともに積み重ねることで138分という少し長めの上映時間の中でも観客を退屈させることがないような構造になっている(特に「魔法破りの兜」を取りに行く洞窟でのシークエンスは素晴らしかった。ほんとにくだらなすぎて)。

 主人公のひとりであるエドガンについてもう少し詳しく言及していく。彼は優しい心を持っているが少し抜けているところもあるといったような、近年のアメリカ映画ではもはやよく見る白人男性のキャラクター造形ではあるかもしれないがそこにたしかな憎めなさや愛おしさを付け加えることが出来ているのはクリス・パインの演技力によるところが大いにあるのではないだろうか。まあ、そんなエドガンなのだが彼が最も大切にしている信念は「誰も傷つけない」ということなのだけれど実際には序盤からひとり娘を(精神的に)傷つけてしまったり自分で考えた作戦が失敗して仲間に迷惑をかけてしまったりと、なかなか自身が思う考えを全う出来ずにもがくような状態が続く。実際、物語の中盤あたりにおいて魔法使いのサイモン(ジャスティス・スミス)や自然の化身であるドリック(ソフィア・リリス)らにそのことを咎められる場面があるのだけれど、それに対して発せられる「失敗を続けることをやめてしまったら、それは本当に失敗で終わってしまう」という言葉がとても魅力的であると同時にこの作品の太くて力強い主軸となっている。実際、この言葉の論理自体はゼンク(レゲ=ジャン・ペイジ)という聖騎士のキャラクターが語る言葉の如く「ちょっとなにいってるかわからない」感が多少あることは否めないと思われるがこの作品においてはそれがとても重要な部分になっていて、要は言葉自体の持つ意味が嘘か本当かという「確からしさ」よりも「なにを信じたいか、守りたいか」を自分で選び取ることが大切なのだという今作の根幹となる思想に関わっているセリフとなっているのだ。今作の脚本が「嘘か本当か」という問答を繰り返す構造になっているのはそのためだろう。そしてその「自分の物語を信じて進み続ける」という思想はなにより原作となっているテーブルトークRPGのコンセプトそのものとも重なるであろうことは間違いないはずだ。

 原作が持つ中世ヨーロッパファンタジーという時代設定とヒュー・グラント演じるフォージというペテン師のキャラクターが街を支配しているという構図によって現代の格差社会構造を風刺するようなレイヤーも今作は併せ持っている。フォージはさながら現代における資本主義的な強者というか、要はアメリカにおけるトランプ的な人物造形になっている。魔法使いであるソフィーナ(デイジー・ヘッド)や彼女が生み出すアンデッドはSNSやキャンセルカルチャーのメタファーのようにも見える。ふたりとも強力な悪役として立ちはだかるものの最終的にああいった顛末を辿るのは、やはり彼らが他者を傷つけることに対して何の意識も向けていなかったからではないだろうか。

 

 とはいうものの、そしたら最序盤の鳥人間が受ける仕打ちとかふつうに可哀想すぎるだろっていうまあ、エンディングのとある展開含めそこもギャグとしてしっかり効いているので、OKです(?)