「悪は存在しない」鑑賞後メモ

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 地面の上を引きずられている死体の目線のような、森の中から曇り空を見上げ続ける長回しのショットが続く冒頭の数分間、濃密なカタストロフの予感がすでに充満していた。間延びしているようでいて、時間は経過し続ける、それを証明するように石橋英子によるドローン的なアプローチの劇伴が鳴り響き続ける。序盤の、芸能事務所の担当者らによるグランピング場の開発計画に関する説明会のシークエンスに至るまでの10数分間はセリフも少なく長回しのカットも多いので一見派手な部分はないものの、チェンソーで丸太を切る際の長い切断音とそれが終わった瞬間にあっけなくバラバラになる木片の動きはやはり今作の構造を端的に示すアナロジーとして機能していたように思える。それに加えて、主人公の巧(大美賀均)が娘の花(西川玲)を迎えに車で学校(というよりは学童保育所だろうか)まで向かい、そこから去っていくまでのショットやカメラの動きも観客の予想の斜め上の方向を突いてくる。前に進むのかと思いきや一気に後ろにバックし続けていくカメラワークには驚かされた。子供達が駐車場で興じている、だるまさんがころんだはまさにこの作品のそういったアティチュードを表してもいた。静かで、ゆるやかなテンポで進行する今作がそれでも常に緊張感を孕んでいるのは、先述したような演出、作品を鑑賞する我々の視点に揺さぶりをかけてくるような仕掛けが幾重にも施されているためだろう。

 「悪は存在しない」のならば、そこにあるのは予感。ただ、それだけなのかもしれない。それはまるで雪原の真ん中に静かに佇む鹿のように、しかし、その鹿の視線はたしかな緊張感の持続を我々に強いる。不完全で間違いを犯しやすい生き物の集合体が、ひとつのコミュニティにおける人間関係、利害関係のバランスを維持することがある種の不可能性を含んでいるとして、我々にできることは対話であり、まずはどのような相手であっても対話をしようと試みる誠実さを忘れてはいけない、ということなのだろうか。

 近年、日本映画を代表する映画監督としてその名を挙げられることが多いであろう三宅唱は今年の2月に公開された新作「夜明けのすべて」においても運動を捉えることに主軸を置いていたが、それに対して濱口竜介は映像と音の輪郭を描き出すことを目指しているのだろうかと個人的に感じた。主に西川玲演じる花がその無邪気さで持って運動の面白さを体現しているようなところもあるが、基本的には巧が花を背中に背負いながら会話をしているときの、両者の小気味良い発声や穏やかなトーンのやり取りの方がおそらく印象的であるように、映像においても音においてもその質感をいかに繊細に届けるかという部分を大事にしているように思えたからだ。エモーショナルに物語を捉えることよりは、作品を取り巻くテクスチャーの質感に静かに触れるような間合いの取り方を示している作品であり、その細やかさ、しなやかさがこの作品を紐解くひとつのキーとなっている。