「瞳をとじて」鑑賞後メモ

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 「古い記憶と出会いなおすための装置としての映画」についての物語であるように思えた。現在の視点(観客席)から過去を見つめ直す眼差しと、スクリーンの内部に収められた過去から未来の世界に向けられた眼差しとが重なり合う瞬間の高揚、スリル。言葉よりも早く瞬間的に何かが伝わっていく、あるいは伝わっていないことが理解されてしまうほどにその解像度は鮮明だ。物語の後半における老人ホームの食堂での視線のやり取り、そして主人公らが海兵時代に習得した紐を結ぶ仕草を通した無言のコミュニケーションを行っている場面を見たとき、この静かなトーンの作品のうちに込められたとてつもない熱量の、「届け」「届いてほしい」というエモーションの存在に気付かされ、目の奥がビキビキと痛むほどに目頭が熱くなった。この作家が映画を作るということにおいて根幹のモチベーションに据えている凄まじい思いは、しかし、3時間弱という長い上映時間がむしろどんどんプラスに作用していくような心地よさ、繊細なライティングのセンスにより映像作品としてあまりにも上質に仕上げられたタッチを通して我々の瞳にゆっくりと浸透していく。

 時間が経過していくことの残酷さ、「別人」として相対化されて描かれる若き日の自分、そしてそれらと出会い直しその姿を直視することの困難さが、物語が進行していくにつれて浮き彫りになっていく。ペンキまみれで作業を行う主人公らの姿と、「悲しみの王」が最後に取る行動との対比にこの作品の悲哀のピークが収められている。

 「見つめること」を諦めないでいたい。瞳はいずれ乾いて、とじられてしまうから。

 あまりに完璧な終わり方に、思わず暗闇の中で笑みを浮かべた。