「夜明けのすべて」鑑賞後メモ

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 さながらプラネタリウムのような映画だと思った。観客が目撃するのは「周期」についての物語であり、世界のあらゆる場所にバラバラに存在する、ひとやものがそれぞれ内包する周期が交錯し合う様子が常に映し出されているように感じられた。藤沢さん(上白石萌音)は月に一度のPMS月経前症候群)を、山添くん(松村北斗)はパニック障害というコントロールを効かせる事が非常に難しい身体的ないし精神的な周期を抱えながら日々を過ごしている。

 今作では日常生活において不意に訪れるそれらの症状を治す、というよりかはいかに藤沢さんや山添くんの日々の暮らしのリズムにその周期を寄り添わせるかという試みが描かれ、その調和を示すモチーフとして星座についての話が引用される。眼差しを向ける=その存在をそこに認める、見守る、知ろうとするという映画鑑賞のアナロジーはそのまま星座やそれらを映し出すプラネタリウム、そして身近なひとに対するケアのひとつの在り方に重ねられていく。そのいくつもの視線のレイヤーが社会や世界という空間を構成している、ということ。

 三宅唱の前作「ケイコ 目を澄ませて」は音楽的な比喩を用いて表すならば、街の喧騒によって表象される情報過多なノイズをひとつずつ解いていくことで澄み切った静かな視界、世界を取り戻してくような構造をしていたが、この「夜明けのすべて」はそれとは対を為しており、ひとりぼっちのところから始まった藤沢さんや山添くんが自分のリズムを取り戻すためにパーツをひとつずつ組み上げていくような、そんな印象を受けた。

 街の音がとても静かな作品ではあるが、視界にはいくつもの映像的なリズムが飛び込んでくる。それだけでとてつもなく豊かな体験になっているのだから不思議だ、と思う。