私の日は遠い #16

 「豊かな想像力」というものはどこからやってくるのだろうか。シズオはいつも自分の脳みそが渇いているような、潤いが欠落したような状態で生きているようなイメージを日常において覚えることが多かったので、そんな無にも等しい状態から何かが勝手に湧き出てくるようなことは起きないだろうと考えていたし、実際そうだ。何もない。あるのは地味な積み重ねだけ。その先に光るものがあるのかはわからなかったが、少なくともシズオの乾いた脳みそではそこで勝負するのが関の山といったところだろうか。

 

 怒りのような強い感情との向き合い方についてふとシズオは考えを巡らしてみた。歳をとるごとにもしかしたら難しくなるのかもしれない。世の中の状況の変化を見てみぬふりをすることはかえって自分自身を苦しめることになるのだろうし、だとすればこの先自分はどのような方法でそういったものにアクセスするのだろうか。今は音楽や映画、本などを通して世界を見つめていることが多いように思えるけれど、これはいつまで続くのだろうか。もしかしたらこの先もずっとこの方法の延長線上で生き続けるのかもしれないし、場合によっては変化していくこともあるのだろうか、なんて考えてみたりしながら彼はYouTubeの動画を見ていた。

 

 嘘や真実といった観念はあくまでこの世界を見つめるためのレンズのひとつに過ぎないのかもしれず、実際にはその両方が混ざり合っていくつものグラデーションを生み出しているというのが実際のところなのだろうかとシズオは考えていた。この自分の脳みそひとつで認識できることは思った以上に限られていて、どこまでいっても無知な生き物でしかない。それは悲しいことかもしれないが、とりあえずはそれを受け入れ、少しずつでも自分なりの世界へのアクセスの仕方を模索し続けることが大事なのだろうか。血を流さずに、伸びすぎた髪を断ち切りながら日々を紡ぐように。

 

 つまらないことがあまりにも多すぎるので、シズオはある意味ではものすごく必死にどうでもいいことを脳内で考え続けていた。いかにして日常に刺激を与え続けるか、エキサイティングなものが眠っていそうな鉱脈を常に探し続けながら日々を送っていて、それは仕事上の業務をこなすための効率性を全く度外視したレベルで常にそれと並行して行われてもいた。はっきりいって脳細胞の無駄遣いであるような気もするが、なんとなくそうやって過ごすのが彼にとっての日常になっていた。そのようにしてシズオの中でエネルギーの循環のようなものが生まれているのかもしれなかった。

 

 重苦しい日常に軽やかさや刺激を添えるためにはどうすればいいのかということをシズオは常に心のどこかで考え続けている気がした。退屈がなんとなく怖いという感覚は誰しも持っていることが多いだろうけれど、それに対して真剣に争おうとしている人間にはあまり出会うことがない気がする。というか、少なくともそれを身近に感じ取れるような人間はいない。とはいうものの、シズオも特別派手なことをしているわけでもなく、時間があれば映画館に行ったり音楽を聞いたり本を読んだり、といったようなこれまたごくありふれた人間のひとりに過ぎなかった。些細な反逆者でしかなかった。

 

 だらしない日々を送りながらシズオはふと同年代の人間の活躍を目の当たりにしたりもする。彼と同じ二十代後半のラッパーたちが彼好みの曲をどんどんリリースしていく。なんだか不思議な気持ちにもなるが、彼にとってはそれは意外と楽しいことでもあったりした。普段あまり友達と会うこともない彼にとっては、そういった楽曲群を聴くことはちょっとした友達と一緒にいるような感覚に近いものがあり心地よかった。自分という人間がどのようなジェネレーションに属しているのかを肌感覚で理解することもできた。自分自身の輪郭を掴む手掛かりのようなものにもなっていた。

 

 真夜中に目が覚めた時、つい数秒前まで見ていた夢と懐かしい顔を思い出しながら、友達に会いたいのだなと思った。金や、仕事や、人間関係、ついでに自分が苦手な酒なんかを度外視していい関係性を手繰り寄せたいのだろう、と。そしてそれがなんだかもう難しいなとも思った。それを補うためだけの、映画や音楽、そして小説に対しての異常な陶酔。そして、たしかにそれに起因する寂しさに対しての処方箋として恋愛を当てがうのはかなりズレていて、どうりで上手くいかないのだろうなということにもだんだん気がつき始めた。

 いま自分ができるのは、他人に優しくすることくらいなのかもしれないが、それによってなにが返ってくるのか(そもそも、そんなものが存在するのか)を、俺はまだよく知らないようにも感じる。だから、虚しくて、ストレスを感じる。受け入れがたいと感じている物事は、胸の奥に言語化されないまま、まだいくつもあるはずだろう。我ながら、どうやって生きていたのか不思議に思えてきている。

 

 自分の中に未だある子供っぽさはどこからやってくるのかを、少しずつ時間をかけて理解しているのかもしれないとシズオはふと思った。仲のいい友達が欲しい、もしくはすでに仲のいい友達と会いたい。そんなような思いがおそらく15歳くらいの頃からずっと胸の内で消化しきれないまま残り続けてしまっていて、いつしかそれは言語化されない不定形な思い、執念、というか次第にネガティブな腐臭を伴うものに変わり果てていたのを彼は最近ようやっと自覚した

 

 自分が本当に興味があるものはいったいどんなものなのだろうかということを、できる限り多くの映画や音楽などといった創作物に触れてみることで垣間見ようとしているのではないだろうかとシズオは自分自身のことを分析してみたりした。特定のアーティストを追うためだけに、というよりかは自分なりに全体の相関図のようなものを作り上げていくことで自分の中にある気持ちの正体みたいなものを掴もうとしているのだ、と。果たしてどのくらいの時間をかければそれが具体的な形を帯びてくるのかはわからなかったが、少なくともシズオはその過程を楽しんでいた。

 

 少し前に聴いてたバンドの音楽の話を自分より若い人としていた、というのがシズオにとってなんだか不思議なことのように思えていた。聴き飽きた、とまでは言わないものの自分にとっては「少し前まで大好きだった音楽」という認識に落ち着いている音楽をいま現在進行形で追っている自分より若い人、という構図は、まあ、別にそこまで珍しいことでもないのかもしれないが。こういうことが起き始めると歳を重ねてきているのだなと少し実感したり。

 

 自分がある程度好意を抱いている人間が振ってきた話題に対して、本当は大して共感できないということは別にしてとりあえず相手の気分を損ねないように寄り添うような言葉をかけるというようなことがシズオは上手くできた試しがなかったように思えた。どうしても自分の気持ちが少し前のめりに出てしまう傾向があり、それによって相手の話の腰を若干折ってしまうようなことがままあった。基本的にはテキトーなことばかり喋っているくせに、そういう瞬間だけ妙に正直になるのはいったいどういうことなのだろう。シズオは自分が大してモテない理由をその部分に勝手に感じていたりしている。本当にそうなのかは、まあ、知らないが。

 

 自分はどんなラッパーが好きなのだろうか、とシズオはふと考えてみた。といっても、彼がラップ/ヒップホップに括られるような音楽を聴き始めたのはここ数年のことであり、まだまだ知らないこともたくさんあるような状態ではあるのだが、それでも彼なりにある程度の好みが固まってきたタイミングではあったので、改めてここで自分の興味を再確認してそのあたりの認識をはっきりさせたいという気持ちがあった。そういった考えを巡らす中でなんとなく気づいたのは、ラップに限らずどのジャンルの音楽を聴く場合でも最終的に彼が好きになるのはイビツさを抱える音楽であるということだった。あまりに酷いものはもちろん聴きたいとは思わないが、やたらと洗練されたものもそれはそれで彼にとっては聴いていてひどく退屈に思える瞬間が多かった。なので、強いて言えばその中間くらいの音楽で、尚且つ不可解なイビツさ、醜さを抱えているようなものを求めているのかもしれないな、というような考えに落ち着き始めたところでこの問題に関しての興味は徐々に薄れていった。

 

夜にはどうしても眠りたいと思ってしまうのは、朝型や昼間における自分自身の脳内があまりに混濁しきっていて疲れてしまうからなのではないだろうかとシズオは二十代後半である今になって気づいた。夜になると逆にかなり落ち着いてしまうので、何もしたくなくなる。彼にとって仕事をしている日中は(そしてたまには休日においても)なにか強迫観念のようなものに追われ続けているような感覚がつきまとうのだろう。

 

 日常からこぼれ落ちていくような、取るに足らない思いを掬い上げて残しておくために文章を書いているようなところがあるようにシズオは感じていた。ポジティブな感情や楽しい感覚というのはほっといても記憶に焼きついていくが、それと比べるとひどく地味で垢抜けない思いのようなものこそが彼にとっては日常の本質であり、リアルであるように思えるからだ。基本的には毎日がつまらないし、あまりにどうでもいいと思う。そのどうでもよさを彼は、静かに祝福したいのかもしれない。

 

 大袈裟なことはひとつも起こらないし、日常には小さな積み重ねとシュールでどうでもいい事件だけがいくつも存在しているだけなのだというのが30年弱生きたシズオなりの人生観だった。力むほどに空回りをし、適当に手を抜くほどに周りの人間を苛立たせる。このふたつの両極の間を上手い塩梅で揺れ動き続けることで彼なりに世界の均衡を保っているような、そんなところがあった。

 

 ゆっくりと落ち着いた気持ちで陽の光を浴びる、という行為は日常をふつうに過ごしていると意外に達成されていないものかもしれないなとシズオはふと気付いた。仕事の行き帰り、外に出てはいるがリラックスしているとはあまり言えない状況であるように思えるし、休憩時間もシズオ個人としては「飼い殺し」のような気持ちになってしまっているために、とてもじゃないが落ち着いた環境とは言えないだろう。休みの日、映画館までの道のりでシズオはしばしば休日の「カラッポ」な感覚を思い出す。なにもない、空気と鉄と青い空、もしくは雲か雨だけが存在しているような、静かに虚しい永遠の宇宙がそこにふと思い出されるのだ。

 

 小さな別れは静かに、そして突然やってきたりする。特別親しいわけでもないけれど割と世話になるひと、というのは意外とたくさんいて、そういった方たちに対してそれ相応の挨拶ができた試しはあまりない気がした。なるべく多くの人に優しくできたらとシズオはいつも思うが、社交辞令のようなフォーマルな挨拶が苦手な彼はいつもどこか舌足らずな感覚に最後は囚われて、なし崩し的に別れの挨拶を終えるようなことを何度も繰り返した。ひとを大切にするとはなんだろうか。それは彼が思う以上に痛みを伴うものであって、自らの心を引き裂いてそれを火に焚べて生まれるわずかな温もりを他人に分け与えようとするようなことを言い表しているのではないかと、そんなふうにも思えてくる。

 

 小さなモニター越しに幾つかの世界を垣間見ている。そんなような感覚をスマートフォンやパソコンなんかを通してシズオは感じていた。だだっ広い世界を狭いレンズから覗き込むような、偏った体験を何度も繰り返しながら自分だけの世界像やレイヤーを徐々に積み重ねていくのが生きる意味のひとつであったりするのかもしれない。何かを知ったつもりになってもすぐになにも知らないことを知る。その繰り返し。と、なんだかみょうに堅苦しい内容をシズオは書き出してしまったが、実際のところはただ眠いだけで、要は疲れていた。

 

 心が揺れ動き続けて定まらないような状態はとても疲れるなとシズオは思った。人の心なんてわからないものであるということはあまりにも分かりきったことだろうけれど、現実にはあまりにもそういったことが多すぎて心がすぐに許容範囲を追い抜かれてしまう。ただ取り止めのないような日々を過ごしているだけなのに、それでへとへとになることはしばしばある。スッと、自分が一番思っていることを伝えたり、分かりやすい言葉で胸の中を切り取ることができたらな、と彼はよく思う。

 

 休日ではあったが、なんだか疲れていてシズオは結局日がな一日なにも特別なことはせずにただのんびりと過ごした。それでもいいと思えるほどに疲れていたし、最近は映画やら音楽もたくさんリリースがあってそれらを追うのにも少し辟易としていたところもあったのでちょうどいいといえばちょうどよかったとも言える。むしろ最近は、こうした「何もなさ」こそが自分の日常や人生そのものであるのではないかとすら考えていたりする。ただひたすらにシュールで、訳のわからないことが多々起きる日々をゆるやかに受け止めるための、シズオなりの世界の見つめ方でもあった。