「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」鑑賞後メモ

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 まずはやはり自己紹介のシークエンスから今作も始まるのだが、そこで登場するのはマイルス・モラレス/スパイダーマン(シャメイク・ムーア)ではなくグウェン・ステイシー/スパイダー・グウェン(ヘイリー・スタインフェルド)で、「今回はちょっと違うやり方で」と言いながら前作「スパイダーマン:スパイダーバース」からの1年4ヶ月がどのような日々であったかを小気味良いテンポ感で軽快に語っていく。その回想と折り重なるようにグウェンがドラムを演奏する姿が描かれ、彼女が持つパンク/エモ的なバイブスが提示される。それはまるでマイルスが醸すヒップホップ的でクールなバイブスと対になるような、それでいて既存のシステムを解体しようとするスタンスにおいては共振するような部分が存在していることを印象付ける演出になっているように思えた。

 前作においてはしっかり者の女の子としての側面が中心に描かれているグウェンだったが、今作はいきなり所属していたバンドを抜け出してしまうところが描かれる。「自分に合うバンドが見つからない」と呟くとき、彼女の心の大部分をマイルスの存在が占めていることを示す地下鉄のシークエンスは、前作におけるマイルスの姿ともリンクする部分がありロマンティックであるように思えた。別の宇宙では自分と近しい存在が同じように悩んだり戦っているのかもしれない、というこのシリーズがおそらく次作も含めて描いていくであろう主題のひとつがこのはじめの展開においてスムーズに示されている。一人ひとりの人間は全く違う景色を見て生きているが、それぞれが抱えている悩みや葛藤、喪失の物語には共通する部分もあるのではないかということを示すモチーフとしてマルチバースが用いられてもいるのだ。

 その後はグウェンとその父親であり警官のジョージ(シェー・ウィガム)との、10代後半独特のぎこちなさを伴いながらもたしかに信頼しあっている関係性が描かれる。ここでの演出は今作の終わり方(後編もあるけれど)にもリンクしていると同時に、やはり前作のマイルスのアクションとも重なる。こうした鏡写しのような印象を抱かせる見せ方はショットの構図やアクション、脚本などにおいても頻出する。序盤ではそれが「同じような仲間がいる喜び」に近いものとして提示されているように思えるが、物語が進行していくにつれて、だんだんとそれが「近づくほどに現実的になっていく互いの距離感の遠さ」を示すものに移り変わっていくのは見事であったように思えた。

 おそらく20分程度かけてグウェンの直近の過去が描かれるのだが、そのなかで実はマイルスに出会う前にとある悲劇を経験しており、それによって彼女は警官である父親から追われる身になっていたことも明かされる。そんな、グウェンにとってはとても複雑な状況で日々を過ごしていたある日、街中にヴィランのヴァルチャーが出没したという情報を聞きつける。同じ現場には警察も大勢駆けつけるため自分が捕まるリスクも大いにあるが、スパイダーマンとしての役割を果たすためにグウェンもその場に向かう。ここでの展開において、戦いの舞台となる美術館前に警察官たちが車で駆けつける場面が描かれるが、今作をそこまで鑑賞した時点で気付かされるのがカメラワーク(?)が完全に実写に引けを取らないレベルのものになっているという点であり、あらゆるキャラクターや物体が360度自由に動き回っていることに徐々に圧倒され始める。そして高まりつつあったその予感めいたものはグウェンとヴァルチャーが直接対峙し、戦いが始まることでピークに達し、確信へと変わる。スパイダーウェブによって高速で移動するグウェンと翼で飛び回るヴァルチャーが映画館の大きなスクリーンを余すことなく使い尽くすようにアクションを繰り広げていく様に目を奪われていると突如そこに次元のポータルが開き、別の宇宙のスパイダーマンであるミゲル・オハラ(オスカー・アイザック)とジェシカ・ドリュー(イッサ・レイ)がヴァルチャーとの戦いに加わっていく。そこから先頭の目まぐるしさはさらに加速するのだが、この場面におけるキャラクターたちのアクションやカメラワークはまるで常に円を描き続けるような動きをしており、これは先述した鏡写し的なモチーフともリンクしながら過剰な情報量によって自己と他者との境目が壊されていくような感覚を視覚的に提示しているようであり、それと同時に今作がインターネットないしSNSが大きく関わっているムーブメントに対して言及していくものでもあるというエクスキューズに思えた。ダ・ヴィンチの絵画からインスピレーションを受けたヴァルチャーのデザインや戦いの中でグウェンが発する「議論を呼ぶものこそがアートだ(意訳)」という意味合いのセリフは非常に挑発的であり、クールな演出だったことも忘れがたい。

 さて、グウェンのパートが落ち着くとようやくここからマイルスの出番だ。彼の自己紹介は前作ラストと同じノリになっており、グウェンのちょっとブルーな展開から一転して安心感のあるムードを演出してくれる。彼も前作以降、スパイダーマンとしての活動、それからハイスクールの学生としての日々を両立しながら暮らしており、電撃を出したり身体を透明にしたりといった能力もかなり使いこなせるようになっていた。そんな彼は学校での両親も含めた進路面談に向かう途中、リカーショップでATMごと金を盗もうとしているスポット(ジェイソン・シュワルツマン)という人型の真っ白いヴィランに遭遇する。スポットは空間に自在に穴を開けることができるため、その中に逃げ込んだりものを投げ入れたりすることでマイルスを翻弄する。彼は元々、キングピンのもとで多次元宇宙の扉を開くキッカケになった加速機の開発に関わっていた科学者であったが、装置の爆発事故の影響によって真っ白な身体になってしまい、さらにはその見た目のせいで家族や仲間とも疎遠になったり、職を失ったりと散々な目にあっていた。スポットはそうした自身の状況に起因する鬱屈したフラストレーションを抱え続けており、ブルックリンの街中でマイルスや彼の父親であり警察官のジェフ(ブライアン・タイリー・ヘンリー)との逃避行を繰り広げていくなかでそのダークな感情が募り始め、その後の展開において彼の行動は徐々にエスカレートしていく。基本的にはどこか天然というかヌけているキャラクターでもあるスポットは、最初に登場してからしばらくは大した脅威ではなさそうな印象を抱いてしまうが…。

 「自分のことを誰も注目してくれない」「自分も特別になりたい」といったフレーズを繰り返し言いながら、まるでブレーキが壊れてしまったかのように加速度的に邪悪さを増していくスポットのキャラクター造形は、先述の「空間に穴を開ける能力」、そして自暴自棄かつ自滅的な側面も踏まえると昨今のキャンセルカルチャー的なムーブメントの過激化を批判的に捉えようとする視点を今作に導入する役割を果たしていたように思える。ネットやSNSを介した安全地帯から「正しさ」を提示することで過ちを犯した人間を告発し表舞台から引きずり落とす、簡単に言えばそういった動きが2010年代前半におけるMeTooムーブメント以降から現在に至るまで非常に活発なものになっており、もちろんそれによって是正されていったものが多数あったであろうことは重要な事実であることは間違い無いだろう。実際、MeTooムーブメント興隆の機運を生み出したきっかけとなる事件について描いた「SHE SAID」のような作品も存在している。

 ここ最近では「TAR/ター」という傑作がそういったキャンセルカルチャーの過激化という事実に対して言及していたが、今作もスポットを通して同様の事象に言及している。さらに、そういった「過激さ」の根源にあるのは「自分が何者でもない」ことに対する虚無感なのではないかということをスポットの造形を通して提示しているのが面白いところであり、これは劇中に繰り返し描かれるマイルスやグウェンの自室というモチーフとうまくリンクしているようにも思えた。両親と共にハイスクールの先生と面談を行うような進路に対して非常にセンシティブになるようなタイミングにおいて、マイルスやグウェンらも確実にスポットの心境と大きく重なる部分を感じていることは間違いないであろうし、それこそが作り手にとってヴィランを選ぶ決め手になったのではないだろうか。そんな「虚無」を真正面から見つめさせられてしまうようなひとりきりの自室にマイルスがずっと閉じこもっていられるはずがない。おそらく今作屈指の名シークエンスのひとつであろうグウェンとのスパイダースウィングによる秘密のランデブーの背後にはそのような切実さも内包されていたはずだ。

 鏡や万華鏡を連想させるような画面の構図やキャラクターたちの動きを通して提示される各登場人物らの実存的な揺らぎ、そしてスポットが描き出す今作において最も象徴的なモチーフのひとつである「穴」というモチーフはマイルスが物語の終盤に直面する状況や心理状態などにも結びついていく。物語の前半において「穴」は何処か別の場所や宇宙に通じているポータルが象徴するような前向きなイメージを提示するが、後半に進むにつれてそれは孤独な空間や行き先の不透明さ、欠落といったグルーミーなバイブスを醸すようにもなっていく。そんな状況下で効果的な演出として用いられるのが今シリーズの特徴的な部分のひとつである自己紹介のムーブだ。今作の終盤に差し掛かるまでは単純にコミカルな描写として面白く見ていただけだったのだが、実はこれがこのシリーズを通してマイルスというキャラクターが提示しようとしている「自分の物語を生きろ」というメッセージと密接に関わっていたことに、個人的にはかなり喰らわされてしまった。

 スパイダーマンというキャラクターがずっと抱え続けてきた宿命と、それを受け入れることで調和を保ち続けてきた数多くのスパイダーマン/スパイダーウーマンたちの織りなす多元宇宙。そのふたつは、最終的にマイルスやグウェンらに非情な重力としてのしかかってくる。ふたりがタワーの上に逆さまの状態で座りながら肩を並べて街を眺めるショットは、世界そのものが彼らに大きなプレッシャーを与えている様子を象徴的に表してもいた。

 迫り来る破滅の予感。そのとき、孤独な存在であったはずのスパイダーマン/マイルスとスパイダー・グウェンは同じ宇宙の同じ街で寄り添い合っていた。グウェンが「違う次元に住むスパイダーマン同士は結ばれない運命にある(意訳)」と呟いたとき、「何にだって『最初』はあるだろ?」と言い切ってみせたマイルスの「エモ指数」の高さを、一生忘れたくはない。