「怪物」鑑賞後メモ

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 暗闇のなかで少年の麦野湊(黒川想矢)が虚ろな歩調で草むらの上を歩いており、その動きに合わせるようにピアノのアルペジオーー坂本龍一による「20220207」ーーのサウンドが鳴り響く。カメラの視点が上がると湊が手に持ったライターの火を灯す様子が映され、それと同時に彼が立っている場所は彼が暮らしているであろう街から川を隔てて少し離れた場所であることが示される。このあとの場面においてタイトルと共に映される、ビルから燃え上がる炎が文字通りSNS上における「炎上」や自制心を欠いてしまった人間から溢れ出る強い感情のメタファーであるとするならば、今作における川や水といったモチーフはそれらとは対照的に冷めた感覚や死、あの世とこの世の境といったものを象徴しているように思えた。アヴァンタイトルにおけるこうしたモチーフは、今作が持つ広い射程を予感させる装置としても機能しているのではないだろうか。引いた視点から日常を捉え直そうとする試みと遊戯性の両立といった点において、坂本龍一の遺作となった「12」のムードとの共振を感じさせもする。ここから先はもう少し具体的な内容に踏み込んでいくことで今作の重層的な構造についても言及したい。

 炎で燃え上がるビルを遠くに眺めながら麦野早織(安藤サクラ)は自宅のベランダでアイスを食べていた。その横に湊も並んで同じ景色を眺めながら「豚の脳を移植した人間は、人間?豚?」といった問いを早織に投げかける。彼女はその問いに対しての返答を濁しながら「今はそんなこと学校で教えてるんだね」と軽く話題を逸らすと、炎を消火しようと作業している消防隊員に向かって「がんばれー!」と半分野次馬根性的な勢いで大きな声を出し、湊はそんな彼女に「近所迷惑だよ」と軽く咎める。この「豚の脳」の問いに限らず今作では繰り返し誰かが何かを問うようなやり取りが描かれるのだが、これによって人間の意識や感覚に深く根付いてしまっている二元論的な思考を相対化しようとしているように思われた。それは中盤における「アンケート」についての描写においてはっきりと可視化されてもいるし、今作がそういった「全てを明るみにしようとする」考え方に対してオルタナティブな視点を持ち込もうと試みていることは確かだろう。

 では、どのようにしてそういった視点を提示しているのだろうか。今作は三幕構成になっており、ひとつの物語を複数の人間の視点から見つめるような作りになっている。それによって作品に対して複数の解釈を行うことが可能になっているのだが、今作においてはそういったレイヤーがかなり細かく配置されているため、個人的にはこれはやはりひとつの答えを定めることに主眼を置いた作品ではないのであろうというふうに思えた。

 では、今度はそれぞれの視点について言及していく。先述したアヴァンタイトルが終わり、ベランダでアイスを食べている場面からまずは早織の視点による物語が展開される。事故で夫を亡くしてからシングルマザーとして11歳である息子の湊と共に暮らしている早織は、至ってふつうというか真っ当な一児の母親として描かれていたように思える。湊が突然ハサミで髪を切ってしまったり、森の奥のトンネルに行って帰ってこなかったりすれば当然心配してしまうだろうし、それに対して激しく怒鳴りつけるような直情的な接し方をしていないことも含めて息子を理解しようとする姿勢を持っていることを思わせてもくれる(この時点での湊はやや破滅的で、なにか精神的な疾患を抱えている人物のようにも見えてしまう)。ちなみに、あとひとつ言及しておきたいのは、安藤サクラの演技が「万引き家族」における信代と地続きであるようなものに演出されているように思えたという点であり、これによって彼女が今作において「家族」というイメージを表象する記号としても機能していた(これは終わり側の展開において効いてくる)。

 そんな彼女の日常に不穏さが差し込み始めるのは、夜中に廃線跡のトンネルに出かけていってしまった湊を車で迎えにいったあとからだ。早織が車を運転していると、突然湊が走行中にも関わらずドアを開けて飛び出してしまったので彼女は車を急停止させる。その後、病院にて特に大きな怪我はなかったことを確認するが、その帰りの道中で湊は涙ぐみながら「湊の脳は豚の脳と入れ替えられた」と小学校の担任である保利先生(永山瑛太)に言われたのだと早織に打ち明ける。それを聞いた彼女は翌日、自ら小学校に乗り込んでいくが…といった内容になっているのが早織視点の第一幕である。

 第二幕は保利先生の視点で描かれる。第一幕において彼はたどたどしい口調で謝罪をする、ほとんど教師然としない人物といった印象の描かれ方をするが、それは校長である伏見(田中裕子)や教頭の正田(角田晃広)らの圧力が加わっていたことによるものであったことが明らかになったり、プライベートでは恋人と穏やかで楽しい時間を過ごしていたりと、いたって普通の30歳前後の人物として描かれている。そして、彼もまたシングルマザーの家庭に育った人間であることや髪型等のビジュアル面において湊と重なる造形になっていることで、観客側の意識をかき回すような効果をもたらしている。もうひとつ言及しておきたいのは、彼が劇中で着用しているジャージがエヴァ初号機カラーであるという点だ。これは彼の世代を示す単純な記号としても機能しているが、それと同時に今作がエヴァ同様に「それぞれの人物が喪失と向き合う物語」としてのレイヤーも持ち合わせていることを仄めかすものにもなっているように思えた。この第二幕における小学校は日本社会の縮図として見てとることができるだろうし、保利先生が「不祥事」を治めるための生け贄のようになっていく流れを見ていると「ミッドサマー」におけるホルガ村のイメージも重なって見えてくる。

 第一幕と第二幕の後半部分において、今作のもうひとりの重要人物で湊の同級生である星川依里(柊木陽太)と彼が暮らす家庭に関する描写が挟まれる。聡明な印象を醸す依里が住む場所は小綺麗な戸館の住宅ではあるものの、インターホンにはガムテープが貼ってあり押せない状態になっていたり、父親である星川清高(中村獅童)は昼間から缶チューハイを飲んでいたりと明らかに不穏な雰囲気を滲ませている。

 第三幕のまえ(つまり2.5幕?)には校長である伏見の視点でとある事故に関する描写が挟まれる。これによってもまた作品内の出来事に関してのレイヤーが重ねられていく。なにかを断言することが難しい作品ではあるものの、それぞれのパートで描かれる人物がきっちり3つの世代に分かれていることに関しては語れることがあるように思える。この2.5幕において、年齢的に70歳前後であると思われる伏見は敗戦後の日本に重くのしかかっていた「諦念」を象徴する人物として描かれている印象が強まったように感じた。折り紙で船を作る様子は彼女のエスケーピズムを希求する感覚を表しているようであるし、物語の終盤で彼女が放つ「しょうもない」というセリフは非常に象徴的であったように思える。その前の第一、第二幕における沙織と保利はほぼ同世代、30歳前後の人物として括っていいものと思われるが、彼らが象徴していたのは先述したような「喪失」とそれを埋め合わせるための「激情」ではないだろうか。前者は保利によって、後者は早織によって表されていて、それらは上の世代が表象する「諦念」に対しての反射的なカウンターのようなアクションとして捉えることもできるのではないだろうか。要は単純に立ち向かう、戦うことで乗り越えようとするヒロイックな感覚がニュートラルなものとして備わっている世代、と読み取ることができるように思える(もちろん全員がそうではないと思うが)。ただ、今作においてその「ヒロイズム」が効果的に機能するかというと、そんなに単純ではない。むしろ、本当はなにがしたかったのかがわからなくなってくるような虚しさに苛まれていくような展開になっていく。ちなみに、教頭の正田と依里の父親である清高もおそらく同世代で、早織や保利と比べてひとまわり上の年齢の人間として描かれているが、彼らに関してはただひたすら上の世代の人間が言うことに対して従うしかないという「諦念」と「男らしさ」への執着を示す記号として機能しているような印象を持った。演じている役者の本来の印象とは対照的にある意味で最も不穏な世代として描かれていたようにも思える。

 では、第三幕において描かれる湊(と依里)はなにを表象しているのか。α世代に括られる彼らが体現しているのは、やはり「諦念」ではないだろうか。しかし、これは伏見が示していたそれとは違っており、一周まわった、世界を俯瞰して見つめるような「諦念」になっている。これをわかりやすく示すモチーフとして「遊び」や「ドッキリ」がある。第一幕において湊が沙織とともに食事をしているとき、テレビではお笑い芸人たちによるドッキリの番組が流れている。それを見ていた早織は「どうして騙されちゃうんだろうね」と言うのだが、それに対して湊は「こっちはテレビで見てるからわかるんだよ」というような言葉を返す。要は、引いた視点でなければ可視化されない事実や、それによって確保することができるパーソナルな安全地帯というものが存在し得るのだということを湊ははっきりと認識しているのであり、その感覚は依里と親密になるまでは早織やその他の大人を含め誰とも共有されない。デジタルネイティブ世代の彼らのような人々にとってそういった感覚は我々が思う以上に広く共有されているのだろうか。正直自分では分かりかねてしまう部分もあるが、マイク・ミルズによる「カモン・カモン」においても近い描写があったことを思うと、全く見当はずれな視点ではないのだろうと思われる。そういった遊戯性を含んだ彼らの「諦念」こそはこの作品の最大の肝であることは間違い無いだろうし、それによってこの作品の危うさは醸し出されている。この感覚はトッド・フィリップスによる「ジョーカー」にも近いと思った。真に受けすぎてはいけないし、かといって完全に逃れることはできない主題に対してどう向き合うのか、というナイフのように鋭い問いを投げかけているこの作品が物議を醸すことは当然だろう。

 とはいうものの、個人的には思った以上にストレートに楽しめる作品だという印象が残った。特に第三幕は不思議と湊と依里がふたりで廃線跡の古びた車両内で過ごす様子を見つめているだけで涙が溢れてきた。彼らの世界の見つめ方に少なからず強く共感出来る部分を感じてしまったこともあり、自分にとっては特別な一本になりそうな気もしている。