「MEN 同じ顔の男たち」鑑賞後メモ

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 ラナ・デル・レイの来年リリースされる新作からのリードトラックが先日リリースされていて、”Did you know that there’s a tunnel under Ocean Blvd”という長い曲名を目にした時には少し笑ってしまった。この曲名の長さには懇願のような気持ちも含まれているのだろうか。オーシャンブルバードの下には古いトンネルがあって、今は封鎖されているそう。正直あまりその場所に関しての詳しい知識はないのだけれど、おそらくはキラキラしたカリフォルニアの地下に潜むそのトンネルの存在を彼女自身のパーソナリティや女性性と重ね合わせているのだと思う。テイラースウィフトの新作にも参加しているのに、なんだか切実だなと感じる。「I can't help but feel somewhat like my body marred my soul/身体が魂を傷つけている気がする」というラインは特に印象的で、これは加齢によって身体的な側面での女性性が失われていくことに対する恐怖感についてのものなのだろうか。「Don’t forget me」と繰り返し歌い上げているのはまるで身体性と乖離していく純粋なラナの心の叫びのようでもあり、穏やかな曲調ではあるものの胸に鋭く突き刺さる鋭利さを兼ね備えている。

 「MEN 同じ顔の男たち」においても序盤でトンネルは象徴的に映される。というか、そのトンネル含めこの作品は最初から最後まで性的なモチーフで溢れかえっており、そういったトピックに対してゴリゴリに言及していく作品だ。冒頭で映される部屋のライティングや屋敷の内装の基調が赤で統一されているのは女性性を象徴する空間であるからだろうし、林檎や木、尖塔や綿毛はモロに男性性を表していた。屋敷の中を映すショットやその周辺の森林地帯を散策する際に窓や暗闇が常に背景に位置している構図が続くことが多く、これによって男性の視点に常に晒される気持ち悪さを女性であるハーパー(ジェシー・バックリー)を通して感じ取れる構造になっている。ハーパーが友人であるライリー(ゲイル・ランキン)とビデオ通話を行なっている際に巻き起こる「グリーンマン」との接触は緊張感が一気に高まるシークエンスで、ドアのポスト口から彼が手を突っ込んでくる「侵入」の気持ち悪さはやはり生々しかったし、男としてはこの時点で既に身につまされるような思いでいっぱいになってしまう。というか、この作品において男性性という記号を一手に引き受けているのがロリー・キニアという俳優なのだけど、これは予告編とか何も見ないで行った人とかは本当に戸惑いまくるんじゃないかと思った。何にも説明はないのだけど出てくる男がよく見たらみんなロリー・キニアで、面白いけど地獄すぎるなというか。教会やバーでの場面でその違和感がギンギンになっていく奇妙さは凄まじく、バスとか電車の中で男性に囲まれてしまったときの女性の気持ちってあんな風なのかなあと考えてみたりすると、本当に落ち込みそうになるほどに強烈な演出だった。タレントのYOUが何かの番組で「生殖器を前にぶら下げているような生き物なんて信用できない」というようなことを言っていたのをふと思い出すなど。

 またトンネルのことに話を戻す。序盤において長いトンネルの中で歌声を反響させてハーモニーを作り出していく場面はこの作品において唯一ハーパーが楽しそうに過ごす瞬間でもあるのだけど、その声に対しての「応答」が直前の和音の心地よさとはあまりにも正反対の気持ち悪さを孕んでいて相当ギョッとする演出だった。作品冒頭でも示されるあまりにショッキングな過去の出来事を反芻することで悲しみに苛まれてしまうハーパーの心の動きを反響音というモチーフを用いて感覚的に理解できるものにまで昇華していく構造も見事だったと感じる。「グリーンマン」はその佇まいや終盤での綿毛を吹きかける動作なども含めて明らかにアリ・アスター作品からの影響をモロに受けた造形になっていたように思えるが、あれは単純にリスペクトっていうことなのかな?プロット自体も「ミッドサマー」とかなり重なる部分がある。ひとつ違う部分があるとすれば、一応今作の方が主人公が「自由」になれる希望がまだ少しは内包されているという点だろうか。だとすればアリ・アスターに対する「応答」という風にも取れなくはないのかもしれない。そういえば、トンネルに佇む時のハーパーの服装は緑のロングコートとピンクのパンツでこれは「千と千尋の神隠し」をやんわり連想させる構図にもなっていたり。

 この作品のクライマックスにおける一連のシークエンスを通して描かれるのは、女性性がこの世界で自由を獲得するには何度も何度も男性性を殺し続けなくてはいけないという悪夢的な感覚であり、そこに安らぎが存在する余地はない。なぜなら男性性は何度殺されても息絶えることはなく、「侵入」しようとする欲望を抑えられないからだ。死んだカラスの首を折る、脚を折るといったような去勢を連想させる演出が何度かあるが、それによっても男性側が欲望をコントロールできないのは女性を通して「夢」を見続けてしまうからなのだということが、ラストのとあるフレーズにおいても示される。それに対して返されるハーパーのため息は呆れるほどの諦念に溢れていたし、その感覚は作品冒頭の事件が起きたそもそもの出発地点に帰結させられるような感覚を伴っている。「彼ら」がハーパーの間近に迫りつつも彼女の身体にほぼ触れることがなかったのは、まるで彼らがそもそも自らの欲望を突き動かすものが何であるのかを正確に把握できていないことを表しているようでもあり、「彼」が庭先で大きな声を出した瞬間にハーパーが既に呆れたような顔をしていたのも、そこに透けて見えた男性性の根幹にある幼児性を感じ取ってしまったからではないだろうか。それはヒッチコックの「めまい」に対する冷たい「応答」だ。