「Arc アーク」鑑賞後メモ

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 死への恐怖がひとを創作という行為に向かわせる、というとなんだかやたらとしんどい感じにはなってしまうだろうけれど、マイク・フラナガンによる「真夜中のミサ」や「ミッドナイトクラブ」なんかはまさにそういう物語であったと思う。死ぬ前に何をするか、単純に言えばそういう内容だ。計り知れない恐怖に対抗するために人は飯を食ったり運動してみたり誰かを愛してみたり、まあ、色々やってみせるわけだけど、その中でも創作という行為に力を注ぐ人もいる。自らが抱えるものを物語に昇華することで恐れや悩みを相対化してしまい、苦難を乗り切る。その恐怖自体がそっくりそのまま無くなるわけではないが、家のなかにいつもおいてある家具の中のひとつのような存在になっていくというか、そういう感じだろうか。自分を構成するパーツのひとつとしてそれを受け入れてしまえるような包容力が、創作という行為にはあるのかもしれない。

 だとすると、創作とは、見えないもの、手には触れられないものに触れようとする試みとも言えるだろうか。自分や他者の感情や記憶、失ってしまった大切なものなど直接手に触れられないものは多い。というか、本当に大切なものに限って驚くほど儚くて脆くて、触れさせてはもらえない。近いけれど遠い、その奇妙な間隔を飛び越えるほどの飛距離を生み出せるような装置を、しかし、先日ひとつ見つけてしまったかもなという気持ちにさせてくれた作品が石川慶監督の2021年公開作である「Arc アーク」だった。

 原作自体はケン・リュウという中国の作家の短編小説で、そちらは未読。しかしこの映画を見る限りでは、作品内に登場する「ボディワークス」や「プラスティネーション」といった概念はどれも映画という創作物の構造自体に言及するメタファーとして機能してもいる。見えないものを手繰り寄せようとする創作という行為を序盤の寺島しのぶが舞のような動作というか「サスペリア」的なビジュアルとして示してくれるのだが、あんな動きや装置をよく思いつけるなと感心せずにはいられなかった。あれに関してあまり具体的な説明がないこともよりその装置に対しての興味を掻き立ててくれた。血液を抜いて人工のプラスティックの液を血管に代わりに流し込むことで身体の腐敗を止め、その瞬間を半永久的に保存してしまうテクノロジー、というのはやはり映画や小説なんかの創作物と同じなわけで、同監督による前作「蜜蜂と遠雷」と比較してもより監督自身の映画に対する思想、価値観が鮮明に浮かび上がっている。

 とまあ、創作という行為についての物語ということでここまで書いているが、その他にもこの作品には様々なレイヤーがあるというか、正直ものすごい濃い内容になっていると思う。単純にSF作品というところがまずあって、そこに親子や夫婦といった家族の物語が進行していく。男性性と女性性についての現代的な視点による言及もされていて、男性はひたすら突き進んでいって何かを作り上げるがそのうちそれをほったらかしにする、女性はそれの受け皿のような役割を押し付けられているような構図が繰り返し示される。この構図をもとに主人公であるリナ(芳根京子)の人物造形を思い返してみると、彼女は「ほったらかしにする」男性性と「ほったらかしになったものを引き継いでより人間の肌感覚に添うようなところに落とし込む」女性性のどちらも持ち合わせているということに気づくこともできる。

 物語の中盤に不老不死の施術を自ら進んで受けるリナの心の深い部分にはずっと自身を許すことが出来ない感覚が存在していたはずで、つまりはこの作品の135年という長い時の流れは彼女の中で最も遠い -あるいは最も近い- その場所に触れるまでの途方もない飛距離だったのではないか。その円環の彼方で空に手を伸ばすショットを思い返しながら、そう感じた。