「首」鑑賞後メモ

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 ポリティカル・コレクトネス以降のあらゆる価値観の相対化や変動によってこの世界の文化におけるとある側面の問題は改善され、別の部分は大して変化せず、また場合によっては悪化している事柄も数多くあるのだろう。しかし、そもそも、そういった事柄がどうなっていこうとこの世界に対する根本的な印象は変わらない。シュールで、滑稽で、なにも意味がない。北野武の新作「首」は現代のポップカルチャー全般を覆うそういったPC的なムードに対しての非常に乾いた返答であるように思えた(しかし、男らしさやマッチョ性といった男性的な要素も含めて容赦無く茶化されていることによって現代性が担保されているようには思えた)。

 映画作品としての撮影や音楽といった基本的なプロダクション自体は日本の娯楽大作といったトーンになっており、アート作品的な素振りは見せようともしていない。全くカッコつけようとすることはせず、しかし非常にキレのある演出が積み重ねられていくので、ある意味では「物語とは関係のない部分」が最も面白かったとも言える。というか、物語の筋自体は本当にどんどんどうでもよくなっていく。格差社会ジェンダー、人種といったトピックに一通り触れていくが最終的には全てがどうでもよさとして回収されていく。そこにいるのは人間だけで、人間が作り上げた社会構造がそこに横たわっていること自体に虚しさを覚えてしまうような感覚が前景化していく。

 わかりやすく目につくアート作品的な仕種や女性キャラクターの描き方、そして涙を誘おうとするような展開といった、個人的に北野武の過去作を鑑賞した際に気になった部分が豪快に蹴り飛ばされているような構成の仕方に素直に驚いたし、逆にコント番組的なシュールさを映画的なトーンに落とし込む手腕に現在の北野武の研ぎ澄まされたアート性を垣間見たようでもあった。西島秀俊の頭が禿げすぎていること、北野武浅野忠信大森南朋らのやり取りのコント的な軽妙さ、加瀬亮によるエクストリーム信長、そして終盤の戦の場面で北野武が被っている兜のデザインが馬鹿すぎるなど、長いキャリアのある役者陣が真面目に演じるほどにお笑いとしてのレベルが増していく構造にもなっているようで何度も笑った。