「真実」なんてどうでもいい、そんなものが存在しているような居心地の悪い場所にはクソほど興味がない。作品の冒頭から終わりまで、常にそう嘲笑い続けているような作品だと思った。裁判所の場面でカメラマンを銃で撃ち殺し、裁判官をハンマーで殴り殺すアーサー/ジョーカー(ホアキン・フェニックス)の姿が象徴的なように、冷静な分析や「真実」を追求するような人間や構造を徹底的に叩きのめそうとするスタンスが全編に渡って剥き出しだ。少しメタ的な視点で見れば、これは単純に1作目の内容が現実世界に及ぼした影響に対しての自己言及的な内容としても読み取れるだろうし、だとすればレディー・ガガ演じるリーは前作におけるジョーカーもしくはそれを模倣するエピゴーネンとして見ることも出来る。
では、なぜそれと今回のアーサー/ジョーカーは別のものとして描かれるのかということに関して、皆が求めるようなもの、期待通りの存在になることを彼は面白がることが出来ないからだというふうに感じられた。実際、作品の序盤でも看守たちにジョークを言うよう何度も催促されるがアーサーはそれを真顔で無視し続けているし、タイトルバックのショットもそれを強調している。
皆の思い通りになるだけの現実を忌み嫌う彼の底知れないダークな感情がどこからやってくるのかということに関しては実の父親からの、おそらくは性的なものも含まれた家庭内での虐待行為が原因であると語られる。彼がジョークを口にしたり、あの特徴的な笑い方をするのには父親という存在の呪縛から逃れるためのある種の闘争という側面もあるということ、また今作のプロットもそれを芯に据えたものであるのではないかと、個人的にはそういった見解に落ち着いている。
父親の呪縛、そしてそれと相反するようにアーサーの口から「息子が欲しい」という願いが語られる瞬間があるのだがこれもまた前作との関係性を巡るジレンマを象徴しているようで興味深かった。ロバート・デ・ニーロ演じるマレーを銃殺した事件がテレビドラマとして放映された設定となっているため、前作のクライマックスの内容は今作において「ドラマ」として繰り返しアーサーの周囲の人物によって言及される。皆が唯一のアーサーの傑作として語るその「ドラマ」に対して、今回彼が語る「息子が欲しい」という願いは「ドラマ」の劇的な展開と比較してしまえばある種ありきたりで平凡な願いともとれてしまうだろうし、基本的には全てがご都合主義で進行していく大胆なプロットも彼のコメディアンとしての資質がひどく平凡なものであることを端的に示していたように思える。要は、アーサーという人物は少なくともコメディアンとしては全く特別な存在ではないということを作品全体を通して語っているわけで、この文章の始めに記したような嘲りのスタンスとも絡むことで非常にアイロニカルなトーンを孕む作品であるというふうに受け取れてしまう。前作と同様の衝撃を求めて今作を観た人間は確実に面食らうであろうし、それを踏まえて観てもこの内容を素直に飲み込むことは難しい。ラストのショットにおけるアーサーの真顔のカメラ目線は、我々が迎合しようとする姿勢を徹底的に拒んでいる。お前らは、この世界はつまらない。受け入れられない、死んだ方がマシだ、と。