「グリーン・ナイト」鑑賞後メモ

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 丸い天窓から差し込む光はさながら観客の背後からスクリーンへと映像を投写している映写機の光源を思わせる。それと同時に「物語」についてのナレーションが差し込まれる。どうやらこの「グリーン・ナイト」という作品はひとりの男の冒険譚のようだ。最初に映し出される王座に腰掛けている男は主人公だろうか。そんなことを考えている間にその顔は突如炎に包まれ始める。これがこの作品の結末を示唆するものなのかどうかはまだわからない。我々が「真実」という概念に対して持つ認識に揺さぶりをかけてくるような演出はここから始まっている。

 男の顔が燃えている場面から今度は14世紀、英国の城下町のとある景色が映される。馬小屋のような小さな木造の建物とその前に馬や山羊、ガチョウや酔っ払って寝ているおじさん(?)がたくさん集まっていたり右奥に見える家屋から出火していたり雪が降っていたりといきなり情報量が多い。しかもそれがしばらくカットを割らずに映され続けているのでどこから物語が展開し始めるのか予測がつかない。そんなわけでしばらく戸惑いの瞬間が続いたところでカメラはおもむろに後ろへと視点を引き始め、観客の安易な想像性を断ち切る。するとその視点は家屋の窓枠を映し出し、リズミカルに落下する水滴の音が聞こえ始め、そして最後に主人公であるサー・ガウェイン(デヴ・パテル)の寝顔が映し出されるところでカメラの動きが止まる。ここまでの流れだけで今作が持つ「断首」というモチーフを映像的、感覚的に我々に提示して見せている。

 ガウェインは騎士ではあるが他人に聞かせることができるような過去や武勇伝をまだ持ち合わせておらず、それに加えて詳しく語られることはないが性的な側面での機能不全を抱えてもいるようだ。彼はそれらのことに対して引け目を感じてはいるものの「まだ時間はあるから」とそれに真剣に向き合うことを避け続けてきたようであることが序盤において示唆される。そんな彼はクリスマスの祝いの席においても叔父であるアーサー王ショーン・ハリス)と女王(ケイト・ディッキー)らに改めてそのことを問われ、心理的な振れ幅が少しずつ大きくなっていく。するとその宴会の席に突如、「グリーン・ナイト」と名乗るひとりの戦士(?)が現れる。身体の形は人間と同じだが、全身が木で出来ていて草や苔に覆われている容姿を伴う彼は自分と一騎打ちをしたいと思う奴はいるかとその場にいる10数人の人々に向けて尋ねる。それに対してアーサー王は自分が相手をしてやりたいが年老いているので出来そうにはないと弱々しく言葉を吐くが、その直後にガウェインがその一騎打ちを受けて立つと申し出る。そこからバチバチの戦いが始まるかと思いきや、グリーン・ナイトは自身が持つ大きな斧を地面に置いてしまい、ついには跪いて自らその首をガウェインに対して差し出すと「1年後のクリスマスに私を捜し出し、ひざまずいて、私からの一撃を受けるのだ」と言う。ガウェインは戸惑いながらもその首を刎ね落とす。すると首を切られた身体がひとりでに立ち上がり床に落ちた頭部を持ち上げると笑いながら自身の連れた馬に乗ってその場を去っていき…というのが最序盤の流れ。その後ガウェインは一年後にグリーン・ナイトが待つ遠い地の教会まで約束を果たすための旅路に出る。

 この作品において最も特徴的なのは色彩表現、ライティング、そして観客を戸惑わせるほどに時間感覚を自在に伸縮させるかのような撮影と編集だろう。A24作品はどれも基本的にはカラーコーディングが鮮やかな印象があるが今作においてはそれが持つ意味合いも非常に大きい。色彩表現やライティングの意図に関しては中盤における白の城主たちとのやりとりにおいても具体的に言及がなされているが、ラストでのとある演出も含め最も強烈なのはやはりとてつもない腕力でなされるかのような撮影と編集による身体感覚や時間感覚の操作だ。それこそ先述のオープニングにおける引きのカメラワークもそうだが、森の中でガウェインが盗賊たちに手足を縛られ囚われる場面での「死の予感」をカメラの左右への動きとともにじっくりと描き出す演出や、全編におけるジャンプカットや置換ショットの多用において最も顕著にその意図が表れている。こうした演出を行うのはこの作品が「物語」や「映画」という形式や構造自体に深く言及するような側面を併せ持つものであるからだろう。

 しかし今作が少し変わっているのは、物語を持たない男が自分だけの伝説を生み出すための旅路に出るにも関わらず大した活躍も出来ないうちに自分の装備を身包み盗賊に奪い取られたり変なキノコを食べて吐いたり涙ぐんだりと基本には常に情けなさが全開なところだ。臆病な故に物語を持たなかった彼はしかし、恐怖に直面することでその心の中で「死」についての物語を即座に生み出していく。ガウェインは死の予感をその胸の内で燃やすことで時間を引き延ばし、そこに物語を紡ぎ出していく。迫り来る断首の瞬間に対する恐怖がクリエイティビティの根幹を成している、というのはすなわち今作の監督であるデヴィッド・ロウリーの作家としての自己言及的な思想を示唆するものでもあるだろう。そして作家としての映画論という側面からグリーン・ナイトというキャラクターについて考えてみると、グリーン・ナイトはまるで映画の神や映画史そのもののメタファーとも見て取れるのではないだろうか。だとすればガウェインはやはり作家自身の存在を投影したものとしてみるのが妥当であろう。いつか自分が断首=カットの瞬間を迎えたとしても、その人生はまた別の時間軸へと繋ぎ合わさり新たな物語を生み出していくのだ、と。本編最後のショットが切り株の表面に「The Green Knight」とタイトルが刻まれたものを映し出したものになっていること、そしてエンドクレジットが終わる瞬間にフィルムを断ち切る音が一瞬聞こえるようになっている演出がそれを証明するものになっているように思えた。それともうひとつ、本編の間に何度も差し込まれる章ごとの大きなタイトルは観客に対して繰り返しこれがただの作品でしかないという事実を意識させるためのエクスキューズとして機能していることにも言及しておきたい。それはまるで作中における「すべては遊び事だ」というセリフを実際に体現しているようであり、この作品に不思議なチャーミングさをもたらす効果を発揮している。ガウェインの母がグリーン・ナイトをわざわざ呼び起こした意図や中盤で訪れる城の主が別れ際にキスをする意味など、なんだからやたらと気になるポイントも多いうえに全てのショットがとにかくフレッシュで刺激的であり、終わり方も含めただただ圧倒された。