「失ったものを再びこの手に取り戻す」という物語の軸になっているプロットや、広大なアメリカの荒野の景色とその大地を駆け抜けていく馬といったような西部劇的なモチーフがメインになっているのは、IMAXカメラによってスペクタクルな映像を作り出すために必要な要素であり、コロナ禍以降の劇場公開作品が向き合っている現状に対する姿勢の表明でもあるのだろうけれど、それらと同時に怒りやヒロイズムといった感情に対して新たな切り口を提示していくことで、この作品は西部劇(というかSFもしくはホラー)というフォーマットの精神性を更新することを試みてもいる。
アヴァンタイトルで描かれる猿のゴーディに関するエピソードは、怒りや恐怖に対して動物的ないし直線的に感情をぶつけてしまった者の末路を描くためのものだろう。おそらく「彼」は自らの孤独を共有できる存在が周りにいなかったために、感情の暗い部分と「目を合わせ」てしまったのではないだろうか。これは同時に今までジョーダン・ピールが描いてきたような、北米におけるアフロ・アメリカンの人々が搾取される構造を端的に示してもいるだろう。ある意味「ゲット・アウト」と同じ怒りの爆発のアナロジーでもある。他にもいくつかの場面において、特に序盤は映画やその業界、または社会そのものの構造に対しての言及を表すショットが多いようにも感じられた。
血みどろで悲劇的な末路を辿るゴーディと対になる存在としてOJ・ヘイウッド(ダニエル・カルーヤ)がおり、彼はとにかくどんな時でもクールさを保とうと努める。冷静にその場の状況を把握し、必要以上に人と目を合わさないような素振りを見せる。物語の後半で、エメラルド(キキ・パーマー)とエンジェル(ブランドン・ペレア)に対して早く車に乗り込むよう急かす場面においての演出がとても印象的だった。この場面でも描かれるように、OJにとっての戦いはいかに「それ」と直接目を合わさずに冷静でいるかということに終始する。圧倒的な力で敵を倒すようなことなどはしない。そういった旧来の男性的なポジションを担うのは、女性のエメラルドだ。ちなみに、彼女が終盤でバイクを乗りこなした後のとあるわかりやすい演出は、個人的にはいい意味ですごいくだらなくて笑えた。ここでこれカマすのかよ、みたいな。
また、「それ」のフォルムがなんとなくカウボーイハットっぽかったり、OJが「Gジャン」と呼称を定めたりしているのからして、おそらく怒りや恐怖だけではなくヒロイズムを象徴する装置としても機能しているのではないかなと個人的に思った。そう考えることで、何人かの人物が辿る末路も納得しやすい。
OJが上述したような旧来の男性的ヒロイズムに「吸収」されることなくクールさを保つことができたのは、「最悪の奇跡」の後に亡き人となってしまった父親と共に続けてきた馬の調教という仕事に誇りを持っていたからであろうし、それがなにより彼のパーソナリティを形作るものであったからだろう。だからこそ巨大な未知の「恐怖」に対して攻撃的な手段ではなく、特性を理解して上手く誘導する、なんならちゃっかりお金も稼いでしまおうという方向性で仲間たちと協力して行動を起こすことができたのだろうし、何よりもOJが常に離ればなれになってしまった馬たちをどうにかして取り戻したいと考え続けていることは彼のセリフの断片から垣間見えるようにもなっている。
映画史の原点として作品の序盤に語られる「動く馬」に対してのアンサーとも捉えられる、本編の終わり際で馬に跨るOJの静的な佇まいは新たな「ヒロイズム」の形を提示している。
「それ」と目を合わせてはならないし、完全に掌握しようとしてはいけない。なぜならそれは我々には理解しえない領域に息づいているものだから。”NOPE”=「知らん」とOJはシラを切ってみせる。だがしかし、エメラルドに対して彼は決して目を逸らさない。奇跡と対極の日常における愛情が存在していたことを確信する目線のやりとり、それはもはや奇跡。