1950年代のアメリカで放映されていたテレビ番組内の劇中劇、という体裁をとっているのはこの作品が「エンターテインメント」や「面白さ」といった観念そのものを思考の対象とするためなのだろうというふうに思えた。「面白さ」が対象化されるとはどういうことか。この映画、すなわちウェス・アンダーソン監督の最新作「アステロイド・シティ」自体は、少なくとも個人的には観ていて非常に疲れたというか、素直なエンターテインメントではない作品として受け止めた。わかりやすさやそれに起因するようなカタルシスはほとんど皆無と言っても良いかもしれない。
まず本編が始まると、アスペクト比がスタンダードサイズの白黒の映像によって描出される1950年代の撮影スタジオの様子が映し出される。そこで番組の司会者によって語られるのは、劇中劇としてこれから上映が始まろうとしている「アステロイド・シティ」がひとりの脚本家によって時間をかけて書かれた物語であること、三幕構成であること、それから全てのキャストの実名や役名といった作品の構造全般に関わる情報だ。これは観客側からすれば、全ての種明かしを事前に伝えられてから手品を見せられるような、かなり人を食ったような構造とも言えてしまうだろう。これが要するに先述した「面白さ」の対象化の一環である。その後、画面のアスペクト比がシネマスコープサイズまで広がり鮮やかなカラーの画面が映し出され始めることで「アステロイド・シティ」の物語は駆動し始めるが、こちらの方も基本的には終始乾いたトーンが続く。ユーモアの効いた演出も細かく配置されてはいるがかなり抑制が効いているような印象だった。
「アステロイド・シティ」第一幕の序盤で主人公の車が故障し、整備士に修理してもらおうとする場面において、「なんだかよくわからない部品」が故障した車の中から飛び出してくるシュールな演出がある。それは自動車の一部であったはずなのにまるでミミズかなにかのようにうねうねとしており、整備士はその動きを鎮めるためにホースで水をかけるのだが、それはおそらく非常に象徴的な行為であって「なんだかよくわからない部品」もやはり「面白さ」のメタファーであるように思えた。町外れにあるクレーターも「エンターテインメント」という観念を超常現象やそれにまつわる記憶といったものに重ねて描くためのモチーフであるように感じられた。
なぜこのような構造を持つ作品になったのかということに関して、2010年代前半から大きなムーブメントとなって現在においても波及し続けているキャンセルカルチャーや2020年代初頭のコロナ禍を経て大きく変化していった(主に)映画産業についての言及を行うためではないかというふうに思えた。いかがわしさを多分に含んでいるのがエンターテインメントの本質であることは誰もがなんとなく肌感覚で理解しているのではないかと思うが、そこから「正しくないもの」を全て引き抜いていったら最終的にはどうなるのか、といったことを今作はある種のシミュレーションとして提示しているのではないだろうか。あともうひとつ言及しておきたいのが、今作の不思議な構造によって逆説的に浮かび上がってくるのが、「面白さ」とは複数の人間がそれぞれ抱えるシリアスでタフな現実や生活が「作品制作」という現場において一点に交錯し、また、その現場において撮影されたものが監督や編集担当らの手によって意識的に構築されていくことで生まれるものなのではないかということであり、これはウェス・アンダーソンがある種の矜持のようなものとして提示したかったものでもあったのだろうか、なんて考えてしまった。