「兎たちの暴走」鑑賞後メモ

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 シェン・ユー監督長編デビュー作である「兎たちの暴走」のフライヤーに記載された作品紹介文において「母と娘が娘の同級生を誘拐した2011年の実際の事件から着想を得て映画制作に取り組んだ」と記載されているように今作は実話ベースのものとなっている。しかし、実際に作品を鑑賞してみると、真夜中の工業地帯や昼間の住宅街、建築物の質感をフェティッシュに切り取るかのような撮影や黄色を基調としたカラーコーディング、そして主人公らの隠れ家的な空間として使われる無人の舞台劇場など、観客の意識を現実からゆるやかに浮き上がらせるかのような映画的なモチーフがいくつも視界に飛び込んでくる。それらは今作が描くシリアスな物語を、しかしどこか優しさを感じさせるようなタッチで包み込み我々に提示してくれるようであった。

 なぜこの作品に先述したような「優しさ」が伴うのか。それは、この作品が後悔についての物語であり、それを真っ直ぐ見つめ直すことで受け入れようとする過程そのものを浮かび上がらせるかのようなところがあるからだというように思えた。「見つめ直す」ということをもう少し具体的に表現すると、どうしてひとは(この作品においては主人公である高校生の女の子シュイ・チン(リー・ゲンシー)や彼女の実の母であるチュー・ティン(ワン・チェン)ら)過ちを犯してしまうのか、その行動の動機となった心の動きはどういった思いに起因するものであったのかをきちんと整理し、認識し直すということだ。

 本編の中盤に当たる場面で、チュー・ティンが運転する黄色い自動車にシュイ・チンとそのクラスメイトであるジン・シー(チャイ・イェ)とマー・ユエユエ(ヂォゥ・ズーユェ)らが乗り込んで真夜中のドライブに繰り出す解放的なシークエンスがあるのだけれど(車の窓を開けて身を乗り出し、雨と光にさらされるシュイ・チンの笑顔に落涙)、ここにおいてとある象徴的なポップソングが劇伴として流れ始める。この楽曲のリリックにおいて、時間や空間の制約から解き放たれた「過去も未来もない世界(意訳)」というフレーズがあり、これがまさに映画という時間芸術が持つ、観客側の空間ないし時間感覚を拡張していくような特性や構造を指し示すものになっている。ここでのそういった要素は先述した過去や後悔を見つめ直すという今作の主題にも絡んでいて、ラストショットの解釈にも大きく関わっているように思える。実際、この作品は解釈の余地を残した演出が多く、鑑賞し終えてしばらく時間が経ってから「あの時の発言や行動にはそうした思いが秘められていたのか」と気付かされる。鑑賞後の時間感覚にも影響を及ぼしてくるほどの、さりげないけれどたしかな腕力が今作にはある。

 主人公のシュイ・チンが劇中において何度も灯すライターの火の色は、ポスターアートを見ればわかることでもあるのだけれど、チュー・ティンが乗る自動車、そして「戻りたい過去に戻るための装置」として描かれるトンネル内の照明の色と同じであり、摩擦を起こして火を起こすライター自体の構造も含めて今作のストーリーラインを示すアナロジーやモチーフとしても非常に印象的だった。そのほかにも、作品を見終えてから工業地帯のショットを思い出したとき、それがまるで欲望の赴くままに動き続けることで後悔の念を生み出し続けている装置のようにも思えてくる。それはシェン・ユー監督の出身である中国という国が現代においてどのような存在であるか、そしてそれが属する資本主義社会全体に対しての言及としても受け取ることは可能だろう。また、冷たさや物悲しさを滲ませるような鉄や建築物の質感は、まるで人間の肉体や心をこの世界に重く縛り続ける楔のようにも見えてくる。

 終わり方が美しい映画だと思う。シュイ・チンがどの位置にいて、どこに向かって語りかけているのか。その構図自体が端的にこの作品が生み出された意味を物語っている。時間は傷以外を癒す。それなら、その傷にせめてもの祝福を。