「新時代」というフレーズが作品鑑賞後になんとなく思い浮かんだ。ワンピースの映画は観ていないのだけれどAdoによる「新時代」は何度か聴いたことがあって、それは個人的に大好きなラッパーであるKamuiが「あれは喰らった」というようなことを以前話していたからだった。「この世とメタモルフォーゼ」するが如く新海誠の作品は人物や物のサイズ感、動き、画面の構図などがぐっと実写映画寄りのアプローチに近づいており、「君の名は。」と「天気の子」においては東北の震災や気候変動を意識させる描写を絡めていくことで現実社会に対してのアクチュアリティをより高めていった。しかし、それでもそれらの作品において最大のカタルシスが生まれる瞬間は「煌びやかな嘘」が現実を食い破る瞬間であり、それは新海誠監督自身が物語や創造性、ピュアネスというものを尋常ではない思いで肯定しようとしていることを象徴的に示していたと思う。実際、「君の名は。」において派手に転んだあとの三葉が手のひらに書いてある文字に気づく瞬間や、「天気の子」で帆高が新宿を目指して線路上を駆け抜けていく一連のシークエンスは個人的にも何故か叫び出しそうになる程にエモーションが高まってしまう。
とまあ、そういった流れを踏まえて最新作「すずめの戸締まり」を鑑賞するとこちらは完全に「煌びやかな嘘」と現実とのバランスが反転しているような印象を受けた。フィクションへの没入感を明らかに削ぐであろう、何度も鳴り響く緊急地震速報のアラームは意図的に配置されたものであるだろうし、直近の2作においても印象的でお家芸ともいえるであろうハイテンポに畳み掛けるコミカルなシークエンスは今作では鳴りを潜めており、物語のテンポ感は割とゆったりとしたものになっている。ポップソングの引用やRADWIMPSによる劇伴がバンドとしての存在感を後退させストリングスやエレクトロニクスの割合を増していることで物語上の演出とより絡み合うようなものになっているという点においても実写映画、というか現実の日本社会に対して接続しようとする意思はこれまで以上に強いものになっていると感じられた。
この作品が今まで以上に現実に接近することになった背景には「君の名は。」公開時に一定数あった「起きたことを無かったことにする」という物語のプロットに対しての批判に向き合おうとする監督の意志が含まれているそうで、そう考えると「君の名は。」のバランスを反転させたものが今作という見方も出来るように思える。鈴芽が東京の上空でミミズに要石を突き刺す場面などは「天気の子」との対比として特に象徴的であったし、どんな人間であっても胸の内に抱えている過去という「幻想」をあるべき場所に収め平穏を取り戻すという流れはフィクションにより浮かされた感覚を冷ましていく行程とも読み取れるだろう。そこには確かに多くの人々が息づいているということを実感させるためのロードムービーという物語の基本構造があり、東北の震災により孤児になった、あるいは命を落としてしまった子供たちの象徴のようなダイジンが最終的には鈴芽の子供になれなかったことを悲しみながらも東北の大地に落ち着くのは監督自身による悼む気持ちの表れであろう。「シン・エヴァンゲリオン」におけるシンジ宜しく「受け取ったものを返す」ということが、「戸締まり」ということなのかな、と。
そういえば緑のパーカーを着てこの作品を見にいったのだけど、鈴芽の制服も緑が基調になっていてあれはいうまでもなく「千と千尋」モチーフとして使っているのだと思うし、そうなると草太はハクでダイジンはカオナシかな?なんて考えてみたり。だとするとダイジンが辿る道筋は、同じく行き場を無くした幼年期の記憶の象徴のようなカオナシが銭婆の家に居場所を見出す結末とも重ねることが出来たりもする。最後の方の場面とかはかなり露骨に同じ雰囲気醸し出していたし。それでも、「千と千尋の神隠し」が温泉宿を牛耳る湯婆婆と銭婆の対比によって日本とアメリカ社会との対比や日本社会の強迫観念的な側面を描き出していたことを思うと「すずめの戸締まり」においてはそこまでの広い視点は含まれていなかったようにも思えてしまった。
なんて、後ろ向きな内容で終えるのもアレなのでもう少しポジティブな方向へ。単純に今までの作品と違うトーンに舵を切ってみせたのはとても健康的なことのようにも思えるし、単純に今後の作品において演出面がよりブラッシュアップされていくことがあればいいなと思っている。当然多くの利権が絡んでいるであろうから色々と不自由な面もあるのかもしれないが、個人的にはより現代的な実写映画のアプローチに寄せたキレのあるものが観たい。説明セリフ皆無でアクションで鮮やかに思想を提示してくれるようなそれを。あとは、新海誠作品において最も重要な恋という要素がこの作品においては未来を象徴するものとして描かれていたことが最もグッと来たポイントかなと。恋は未来に対して様々な希望を抱いていく行為であって、それはまるで果てしなく眼前に広がる暗闇に向かって光り輝くボールをなるべく遠くまで放り投げていくようなことだとも思うのだけど、この作品においてはそういった想いがより広範囲の多数の人々の間で絡み合うことで新しい希望、すなわち「新時代」を始めようとする構造になっている。鈴芽はクライマックスの場面においてそれを「未来」と呼んだのだと考えている。