「宮松と山下」鑑賞後メモ

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 演技の能力の高さというよりもとにかく…顔、だろうか。俳優の演技としてのエゴを限りなく抑え込んだが故に滲み出した香川照之自身の抱えているなにかが物語を駆動させていく。作品の構造自体もそうだけれど、なにより香川照之と宮松、そして山下という役柄の境目すら曖昧になっている。例の事件の報道以来、香川照之のパーソナリティについて言及するようなものをいくつか目にしたり聞いたりしたような気もするが、「宮松と山下」を鑑賞したことでなにか表層的なものにはとどまらない彼の中の深淵を覗いてしまったような気持ちになってしまった。正直、ひとりで食事を無表情のまま黙々と済ましていく彼の様子を見ているだけでものすごい心が満たされてしまったし、あらゆる表現においてあれほどまでにリアリティを持って孤独というものを体現しているものは少なくともここ最近見ていなかったと思う。ビアガーデンでの演技の撮影において声をかけられる瞬間、または撮影所の外で昔の同僚と久々に顔を合わせた瞬間の表情の移り変わり方はまるで孤独という沼からゆっくりと地表に這い出してくるヌメっとした爬虫類生物のようで(昆虫のようにはカラッとしていなかった…)、それを見れただけでもお金を出して劇場に来た価値は十分すぎるほどにあったと言える。

 とまあ、いきなり顔についての話だけで走り始めてしまったけれど、この作品はまず冒頭から瓦屋根のクローズアップが映される。それからも何度かカットを割ってはいくつかのパターンで瓦屋根を映していく。最初の数十秒間のうちから作品の全体像を把握するのが困難であり、この宙吊りのような感覚は中盤の方まで持続されることになる。宮松(香川照之)はどこまでを演じているのか、その境目は彼についての描写が少しずつ積み重なることで徐々にハッキリとしてくるがとにかく編集や演出がキレキレなのでおそらくほとんどの人が何度も騙されることにはなると思う。しかしこれが単純に楽しいのでその度に思わず笑ってしまった。

 ロープウェイが「宙吊りの主体性」を表すモチーフとして登場するが、大きな円盤状の部品が回転してロープウェイを駆動させている様や、始まりと終わりがあるという点で映画そのものや映写機の構造を模してもいる。物語の後半で山下(香川照之)が「タクシーの運転手は自分で行き先を決めなくてもいい」という旨の台詞を言うのだけど、それはやはり映画の心地よさにも通じているよなと感じ、作品のテーマと映画という表現手段がとてつもなく合致している印象を受けずにはいられなかった。

 しかし後半ではその「宙吊りの主体性」の心地よさに浸る人間に冷や水をかけるような現実が突きつけられる。人は何かを演じることでただの「点」になることが出来て、なにか大きな装置の部品のひとつに擬態していく。「決められた形に自分を当てはめていく作業」においてはその人自身の歴史や文脈が付与されることはないため、ある種の居心地のよさのようなものが生じてくることがある。労働やスポーツ、その他あらゆる趣味がもたらす効果としてそれはポジティブな印象を伴って語られることも多いと思うが、意図的に自分自身を健忘症のような状態に持っていってしまいたいという願望を持つ人も少なくはないと思う。宮松はその後者の方であったというわけだ。

 どうして香川照之が主演なのか、というある意味最大の注目ポイントが後半においてゆっくりと煙の如く立ち上り始める。が、しかし、黒沢清の「クリーピー 偽りの隣人」以降のトラウマ的な気持ち悪さが「待ってました!」とばかりにただただぶちまけられるというわけでもないのがこの作品の不思議というか奇妙なところ。引きのショットから段々と宮松の表情に寄っていくラストショットにおいては何故か解放感や清々しさが勝っているように感じてしまった。劇中においてなにも解決はしないが、あくまで直接的な描写は避けられているし、何より唯一ほんの少しだけ(演じることなく)晴れやかな表情になる場面というのが効いてはいるのだろうが、それでもプライベートでの銀座のクラブの一件や、彼とは関係ないけれど統一教会絡みの一連の報道なんかも連想せずにはいられないほどの事件が絡んではいるのだ。そこには忘れるべきではない加害者性があり、ほとんど取り返しのつかない状態にもなっている。それでもあの終わり方によってもたらされる若干の風通しの良さは、おそらく自分の中での男性性や加害者性といった面で呼応してしまうものも少なからずあったからなのだろうな、と。

 「斬られてもまた立ち上がる宮松の如く、香川照之 will be back」と思わず願ってしまうこの気持ちなんだかある意味、現代的?