「シン・仮面ライダー」鑑賞後メモ

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 本編冒頭からいきなり高速で回転する車輪がアップで映される。まるで庵野自身のなかで止まらない/止められない「暴力性」が今だ暴走し続けていることを象徴するかのように。それはここぞという場面で多用される画素数の粗いショットや登場人物たちをほとんど強引に目的の位置に到達させるためかのような場面の繋ぎ方、そして何よりショッカーの顔面を叩き潰し血まみれにする仮面ライダーの物理的な暴力性において最も顕著に表されている。

 主人公である本郷猛(池松壮亮)が仮面ライダーに変身するために用いられるエネルギーのようなもの(名前を忘れた)は人間の想像力やエゴのメタファーのように思われた。その力によってコミュ障で常に怯え震えている本郷が「正義」という仮面をかぶり「暴力」を行使する姿を描くことで、庵野は自身の創作行為に対しての自己批判的な視点や人類全体が持つある種の暴力性への言及をそこに盛り込もうとしているようだった。それに対してショッカーは人間社会におけるマイノリティや地球の気候変動、自然災害のメタファのようだ。コウモリ型のオーグはもろコロナウイルスを思わせるような台詞を口にしていたし、蜂型オーグ(西野七瀬)や緑川イチロー森山未來)が目論んでいることはやはり人類補完計画を連想させるような、人間の抱える不完全さを淘汰しようとするものであった。

 

 仮面ライダーが作り手や人類の持つ暴力性を象徴していたのに対して、緑川ルリ子(浜辺美波)は人類が生み出したインターネットを代表とするような(あくまで不完全な)テクノロジー、またはエヴァにおける綾波レイを思わせるような「作り物」に対しての母性を表す記号としての役割を果たしていた(後者は作品内における工場のショットに顕著に表れている人工的な建造物等に対して庵野が感じ取っているであろうフェティシズムとも結びついているはず)。「私は用意周到なの」というセリフが何度も繰り返されながらも新たな敵に対峙するたびに緑川が行動不能な状態にさせられてしまうのは庵野自身や人類が今だ抱える不完全さを示すためだろう。その他にも画素数の粗いショットやアクションシーンにおけるコマ数の少ないモーションによる独特な(というかローファイな?)スピード表現もその記号性に絡んでくる表現であるはずだ。

 

 庵野(そして人類全体)が抱える暴力性と不完全性、その2つを表す人物たちを主人公に据えて自分自身の中に宿る恐怖の元凶、具体的にいうと自分自身の父親やそれが表象する圧倒的な父性に対して立ち向かう物語が描かれていく展開がこの作品の核心部分だ。この「自分vs父性」的なレイヤーにおいては本郷猛は「エヴァンゲリオンシリーズを今まで描いてきた庵野」という人間を、物語の後半に登場する一文字隼人(柄本佑)は「特撮を愛してきた、ずっと特撮を作りたかった庵野」を象徴していたのではないかと思われた。その視点で見ているとクライマックスにおいて本郷猛が緑川イチロー仮面ライダーのマスクを被せる場面は「シン・エヴァンゲリオン」において碇シンジがゲンドウにウォークマンを返す場面とも重なる。その場面が表していることは「私は自分自身の主観に基づいて構築した暴力的で不完全な創造物をぶつけることでしか圧倒的な父性(この作品においては過去の仮面ライダー?)に対抗することは出来ない」というメッセージであるという風に個人的には受け取った。この作品内において一般の市井の人々が描かれる場面が少ない(というかほぼない)こと、人物の顔に極端にズームアップしたショットが多用されることからも作り手はあくまで彼自身が抱える主観性やエゴの強さを認識しながらもそれを否定せずにそのまま描き切ることを選んだのだろう、と。そして同時にこれは人類全体の愚かさ、不完全さに対しての優しさと厳しさを織り交ぜたエールのようでもある。

 

 正直「シン・ウルトラマン」という作品を去年観ているので、ここでは野暮な指摘をわざわざしようとは思わない。そんなことはもう前提とした状態で「シン・仮面ライダー」を鑑賞した。今回は庵野が監督/脚本/編集を担っていたということもあってか、なにを表現したい作品であるのか、どのような意図を持って様々な演出がなされているのかということ自体は非常にわかりやすかった。その点においては気持ちよく観れたとも言える。庵野は全員に評価されるようなものを作ろうとはハナから思っていないのだろうし、そもそもそういったことに対して全く興味がないのだろうと思った。そしてそれは「エヴァンゲリオン」シリーズを作っていた頃、もしくはそれ以前から実は変わっていないのかもしれない。