「秘密の森の、その向こう」鑑賞後メモ

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 フランスの映画作家であるセリーヌ・シアマの2022年公開作「秘密の森の、その向こう」は時間の不可逆性という性質の残酷さ、そして過ぎ去っていってはくれない記憶との向き合い方についての物語だ。

 本編の始まりに聞こえてくるのは時計の秒針が刻まれる音であり、時間が過ぎていく感覚に自然と意識が向かわされるような演出がいきなり施されている。かと思えばその数秒後には老女の横顔が映し出され、彼女が持つペンの動きに合わせてカメラの視点が少しズレる。すると今度はそのペンを手渡された少女のネリー(ジョセフィーヌ・サンス)がクロスワードパズルに文字を書く様子が映される。ネリーはその後老女に「さよなら」と別れを告げると隣の別室に歩いて移動し、また別の老女に同様の挨拶を交わす。この動作そのものがまるで映画という一秒間に24コマ分の写真を見送る、別れを告げていく表現形態の仕組みを表しているようにも感じられる。どうやらそこは老人向けの介護施設のようだ。いくつかの部屋を順に尋ねたあとでネリーの母親(ニナ・ミュリス)と思しき女性が部屋の掃除をしているところに行き着く。母親の顔はその時点ではカメラに向けられないままその背中のみが映される。祖母を亡くして静かに悲しみを感じている彼女のその姿は、まるで娘のネリーがまだ知りもしない秘密をいくつも胸の内に秘めているかのような印象を我々に与える。

 本編においてネリーの視線はほとんどの場合彼女の母親であるマリオンに向けられている。まるで自分が投げかけたボールを返してくれることを期待しているかのようにネリーは視線を送り続けるが、彼女が思うような返事はなかなか返ってこない。父親(ステファン・ヴァルペンヌ)からパドルボールというボールとラケットが長いヒモでくっついている遊び道具を譲り受けると、母親への思いがなかなか届かないもどかしさをボールにぶつけるようにネリーは力強くラケットを振るう。そうすると、返ってくるはずのボールはひもが切れて森の中へと飛んでいってしまう。ボールを追って森の中へ足を踏み入れると、ネリーはマリオン(ガブリエル・サンス)という名の同い年の少女と出会う。ネリーはやがて彼女が自分の母親であることに気づき始める。思いもよらない「跳ね返り」との遭遇だ。

 この作品を中盤あたりまで観ていくと、序盤の方から常に時間の移り変わりを描くことに対してとても意識的であることがわかってくる。昼と夜の繰り返し、明るい場所と暗い場所が交互に描かれ、ネリーの心情とシンクロするようにカットの移り変わりがなされている。森の中で出会ったマリオンから手術の話を打ち明けられる場面から自宅での夕食の場面へのシームレスな転換が象徴的だ。

 そして、その夕食の場面において父親が幼い頃に恐れていたものを打ち明ける場面を機に、今度は時が過ぎても忘れることが出来ない記憶についての物語というレイヤーが今作に存在していることも明確になり始める。そのまま続けて作品を観ていくとネリーとマリオンがメロドラマごっこのような遊びをする様子が描かれるが、これは後にマリオンにとって忘れられない記憶を自分なりに多角的な視点で見つめ直そうとする試みであることがわかる。本編冒頭に登場していたクロスワードパズルも要は忘れられない記憶に対しての柔軟な向き合い方を示すためのモチーフとして使われていたのだということにも気づくことができる。父親が伸ばしていた髭を剃るという行為もそのテーマとリンクすると同時に、過ぎていった時間を(不可能だとしても)精算しようとする試みとも受け取れる。

 

  過ぎ去っていく時間に対して、そして過ぎ去っていってはくれない記憶に対してどのように向き合うのか。誰にとっても難しい問題であることは間違いないが、セリーヌ・シアマは映画作家として作品を残すことでそこにひとつの解答を見出そうと試みているのだろう。前作の「燃ゆる女の肖像」という傑作においては同様の主題に対してまさしく燃えるような感情を直接的にぶつけていくような側面があったが、「秘密の森の、その向こう」においてはそこに自分の弱さや臆病さといった「秘密」のような部分を開示して見せることで柔らかな愛情を示そうとするレイヤーも加わっているように思われた。自分を自分で救うことは難しいかもしれないが、他者にとっての拠り所にはなれるかもしれないのではないかという希望がそこにはある。そしてそこには年齢という概念はおそらく関係しないのだろうということも。少なくともこの作品において(そして近年の優れた作品群にも共通して)大人は絶対的な存在としては描かれてはいない。

 物語の後半においてマリオンは彼女の誕生日にネリーを夕食に招き、若き日の祖母(マルゴ・アバスカル)が作ったスープを一緒に食べるのだが、ここでマリオンは「スープのあとでお祝いよ」という祖母のセリフが象徴するような過ぎ去っていく時間の流れの残酷さに逆らうかのように口に入れたスープを皿の上にわざと吐き出しておどけた笑いをネリーに向けて見せる。するとネリーも同じ動作をしてみせることで、少しでもこの楽しい時間が長く続いて欲しいという思いを共有する。それでも時間は過ぎていってしまう。カットが割られるとすぐにケーキのロウソクに火をつける場面になり、バースデーソングをネリーと祖母が歌い始める。しかしここでもマリオンはまだ粘り、「もう一回歌って」とふたりにねだる。時間への叛逆、そして永遠の幸福を希求する感覚がセリーヌ・シアマを映画に向き合わせているのだということを確信せざるを得ない。

 もう少しだけここにいたい、というようなことを我々はこれからあと何度願い、そしてその時間を引き延ばそうと試みるのだろうか。途方にくれそうにもなるが、それは同時になんだかキュートな反骨精神のようでもある。愚かであることは間違いないが、それでも少し愛おしいかも。