「百花」鑑賞後メモ

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 「他人の始まり」というフレーズを思い出した。これはECDの著作の中で出てくる言葉だ。家族という続柄や社会的な立場から解き放たれて再びひとりの人間、生き物へと純化していきやがてはこの世界からも逸脱していく。それは泉(菅田将暉)の視点から見れば母親のアルツハイマーの症状が進行するシリアスな過程でもあるが、百合子(原田美枝子)自身はそれをどのように感じていただろうか。

 百合子のなかでバラバラだった時間や記憶、空間がまるで本編のワンカットで撮影されたシームレスな映像のようにつながっていく。最終的に彼女が迎える結末からは、人間を力強く駆動させるものは「悲願」のような感情なのではないかと思わされた。何故かそれが果たされる瞬間というのはなかなかやってこず、それでも手を伸ばさずにはいられない。これは作中の百合子に限った話でもないだろう。そんな、もがきのような過程のなかで百合子は泉という息子を授かった。彼女はきっと泉を通して新たな喜びを知るとともにかつて果たされなかった願いもそこに見ていたはずだ。それが百合子にとっての愛の始まりであったであろうから。

 全編を通して録音も非常に優れており、これが長回しのショットと合わさることで観客は彼女の空間感覚を自分自身に重ねることが出来る。それはあくまで彼女のひとつの側面であり、物語の中に数多く残された余白のごとく「真実」を知ることは限りなく不可能に近い。それでも、百合子が忘れていった記憶が息子の泉にある種誤配されることで今度は彼自身の記憶が想起され始める。それは百合子とは違う視点の物語ではあるが、確かに母親とその瞬間を共有したという事実は存在していた。幸福なすれ違いのなかで、他人としての母親/百合子の姿が浮かび上がり始める。

 水面に反射する花火のごとく、実像の全てを目に焼き付けることはできないが、その美しい断片/虚像の中に忘れられない記憶が宿る。それはひとを癒し、苦しめ、追い詰め、やがて少しずつ透明に澄み切っていくのだろうか。