「ファイブ・デビルズ」鑑賞後メモ

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 自分自身の中に宿る愛のような感情に酔いしれてしまっている瞬間がよくある気がする。誰かやなにかを好きだ、大切だと思う気持ち。それを愛だと考えるのはとても腑に落ちやすい思考の経路であるし、なんだか気持ちがいいものだとも思う。しかし、落ち着いてよく考えてみれば結局それはただの強いエゴでしかない場合も多く、少し冷たい言い方をすれば即ちそれは支配欲なのだろう。狭いカゴの中に小鳥を押し込めるように、都合の良い場所に置いておきたいという欲望を美化しすぎるのはとても危険なことでもあり、思い通りにいかない物事に対して暴力的な手段を行使するほどに人を盲目的にすることだってあるだろう。脆く儚いものを包み込む優しさはそこでは忘れ去られてしまう。

 レア・ミシウス監督による「ファイブ・デビルズ」の本編冒頭、燃えさかる炎から振り返り観客側に向けられるジョアンヌ(アデル・エグザルコプロス)の視線は行き着く場がないまま宙に投げ出される。この時点でジョアンヌと観客側の思いとがすでにすれ違っていることを感じさせるような演出にもなっている。互いに一方通行な感情をぶつけ合ってしまった故に生じたイビツな現実、人間関係。それらの象徴としてヴィッキー(サリー・ドラメ)が存在しているような、少なくとも最初はそんな印象を受ける。しかしそれでも彼女は母であるジョアンヌに惜しげもなく愛情を示し続ける。三匹の小鳥が入れられた鳥籠や「香り」を収集したビンがヴィッキーの愛の形を示すモチーフとして機能していて、序盤でのそれはやはり支配欲としての側面が大きい。ジュリア(スワラ・エマティ)が登場してからそれはより露骨な形で立ち現れるようになる。

 ヴィッキーは特殊な嗅覚によって母の過去の記憶に入り込めるようになることで、自らの存在や家族のルーツに向かいあうことになっていく。どのようにして自分がいま生きている世界が築かれたのか、そもそもどうして自分は生まれたのかという実存的な問いを自然と探求していくような状況に彼女は置かれる。そして物語が後半に差し掛かると、この作品が「愛」という感情は他人に寄り添うような、その人を自由にしてあげられるような形になり得るのかというテーマを持つものでもあるということが明確になっていく。それは主にヴィッキーとジュリア、ジョアンヌらの関係性の変化によって示されるが、終盤の救急車が登場する展開においてはジミーがそれに乗車するのを拒むというアクションが挟まれることで男性性の向かいうる別の可能性のようなものまで提示される。ちなみに劇中で2回ほどタクシーと救急車のルーフ上に置かれたカメラによるショットが映されるが、作品を最後まで鑑賞してから振り返るとあれらも男性性の主観的ないし近視眼的な側面を象徴するものであったのかもしれないと思えた。

 舞台となる村の名前、主要登場人物の人数やヴィッキーが過去に戻る回数など「ファイブ・デビルズ」という謎めいたタイトルにはいくつもの意味合いが折り重なっているのだろうけれど、少なくとも主観性の強い支配欲的な感情を悪魔になぞらえていることは間違いないと思う。その感情に違う角度から光を当てることで新たな視点を導入すること、そして他者をこの世界から少しだけ自由にしてあげられる仕草について知ることでひとは真っ直ぐに自分を見つめ返してくれる「まなざし」の存在を近くに感じられるようになるのかもしれない。

 最後に、パンフレットに記載されたレア・ミシウス監督へのインタビューでの印象的なフレーズを書き残しておこうと思う。(ele-kingでの三田格氏のレビューでも引用されていたけれど…)

 

 「失われた時間を取り戻せないとしても、私たちにはまだ選択肢がある。物事は何も決まっていない。私たちは行動を起こすことができるのです」