「フェイブルマンズ」鑑賞後メモ

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 最近、ブルーのトラックパンツというかジャージを買った。ゆったりとしたワイドパンツのようなシルエットになっていてとても履きやすいのだけれど、これを履いているとやたら人に見られる気がする。たしかに、ブルーはブルーでもかなりビビッドな感じの色なのでなんかムダに目立つ。モノトーンな感じの服を着ていても顔が濃い目だからかよく視線を感じるのにこれ以上ビビッドになって一体どうするつもりなんだと我ながら理解に苦しむところもあるのだが、まあしょうがないだろう、着てみたいと思ってしまったんだし。

 というわけで今日もそのジャージを黒いデニムジャケットと合わせる感じで着て出かけていた。スピルバーグの新作「フェイブルマンズ」を観るために新宿のバルト9まで出向いた。バルト9はなんとなく行きやすい気がする。新宿ならTOHOもあるがあそこは歌舞伎町の方にあるからなんかごちゃごちゃしすぎていて行きづらいし、ピカデリーとかはなんか大学の校舎みたいでなんとなく味気なく感じてしまう(あくまで個人的なフィーリング)。俺はいつもバルトがある9階までエスカレーターで行く。ちょっと時間かかるがエレベーターが嫌いなのでしょうがない。帰る時もエスカレーターに乗るのだけど、この場合は映画鑑賞直後のぼんやりした頭をクールダウン出来る時間に当てられるのでけっこういいなと思っている。なんかあそこの建物は妙にアニメ系のポップアップショップみたいなのが多いのは何故なんだろうか。そこらへんの事情を知る由はまだない。

 つうか、まだ本編の話をしていなかった。予告編とか見れば大体のことはわかる。スピルバーグの自伝映画のようなものになっているわけで、なるほど、じゃあ主人公が映画を作る喜びに目覚めていくような、才能を開花させていくお話なのだろうなと思って観ると微妙にそういう話でもなかったりする。もちろんそういった側面も大いにあるが、基本的には主人公のサミー(ガブリエル・ラベル)が映画というアートフォームが内包する途轍もない暴力性に圧倒され続ける話でもあったりする。幼少期のサミーが手のひらに映写機の光を当てて映像を映し出す場面があるのだけれど、それは段々と彼の手には負えないほど大きなものに変貌していく。才能が開花すること=喜びというよりかは、自分が生み出した作品が巻き起こす現象の数々に戸惑い続ける。サミーを映画という分野に引きずり込んでしまった「地上最大のショー」という作品における汽車と自動車の「激突」はその後の彼の人生において何度も様々な形で彼を映画に釘付けにしていくのだ。人間が作ったものを別の人間が観るまでの間に実は幾重にも捻じ曲げられていく「真実」があるのだということを思い知らされる。

 生きている人間はそれぞれ全く違う目的や意味を生きるという行為のなかに見出していて、そんな無数の物語が街の中で信じられない速度と密度で交錯していく。そして自分はその中のどの物語も完全に把握することは出来ない。心に直接繋がっているこのレンズは思ったよりも視野が狭い。知ることが出来る情報は限られている。どうすればいいのだろう。そんなときは、この作品のラストにおいて放たれる言葉を思い出してみようか。正直、サミーの母(ミシェル・ウィリアムズ)が終盤で話していた割と大切なことをほとんど忘れてしまったほどにインパクトに溢れたその言葉でこのMADな世界を「芸術的」な視点から見つめなおせればと思う。

 そういえば、人生って変だなと最近ぼんやりと考えていたところでこの作品がまさにそういう内容の映画でもあったのでとてもしっくりきた。色々なことがあるけれど、また変な格好して出かけてみようかな。