「TAR/ター」鑑賞後メモ

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 インスタライブのような画面が表示されているスマートフォンには飛行機の座席でアイマスクをして眠っているひとりの女性の姿が映し出されている。すると今度はその女性を揶揄するかのような動画視聴者によるチャット文が画面上にいくつか表示される。この場面での画面構成は左半分に誰かが手に持っているスマートフォンの画面が映っていて、右半分にはピントが合っていないために像がボヤけているリディア・ター(ケイト・ブランシェット)が見える構図になっている。こういった複数のチャット文やボヤけた像といったモチーフは、本編開始直後から今作においていくつもの視点が存在しうることを示唆していた。

 その後、画面が暗転するとスタッフのクレジットロールが表示され、音声ではターが大学院生時代に東アマゾンで音楽民族学の研究をしていた頃のある瞬間を切り取ったようなものが流れており、非西洋音階的な伸びやかで落ち着いたムードの旋律を歌う女性の声が聞こえるようになっている。なぜこの瞬間においてターの過去に触れる音声が流れるのか。彼女にとってそれが人生における最良の瞬間のひとつであったからなのか、それともそこに強い後悔の念を宿しているからなのか。我々にはまだわからない。

 クレジットが流れ終わると、ターがコンサートの指揮台に立つ直前の様子が映し出される。独特の呼吸法を何度か繰り返すと彼女のアシスタントであり楽団の副指揮者を目指しているフランチェスカ(ノエミ・メルラン)が水の入ったグラスと薬を持って現れターに手渡す。その薬を飲み干したあとでターは舞台袖からステージへと歩み始める。

 その後コンサートの全貌が明かされることはないまま、ニューヨーカー誌主催の公開インタビューの場面へと切り替わる。司会者とともにジョークも交えながら豊かな語り口を披露する彼女は決してただの典型的な堅物の天才キャラクターなどではないことが分かり始める。むしろ誰よりも柔軟な思考を行うことが出来る側面を併せ持ってもいる。しかし、そのあとの飛行機内における不穏な演出が彼女の抱える後ろ暗さを仄めかしたりもする。

 そんなふうにいくつかターに関する要素が提示されたところで今作最初のピークと言ってもいいであろう、ジュリアード音楽院での若手指揮者への指導を行う様子が描かれるシークエンスが始まる。そこにおいて生徒のひとりであるマックスがバッハに関するとある事実を挙げてその存在を素直に認めることが出来ない旨をターに伝えるが、彼女は「作品と作者の人間性とになんの関係があるの?」と言わんばかりに猛烈な(しかし多少のユーモアも交えた)理詰めでマックスを追い詰めていく。これを5分間カットを割らずに映し切っているので、観客側はとてつもない緊張感に包まれる。しかしそれと同時に物語進行のギアが一気に上がっていくアグレッシブさに思わず高揚感を覚えた。この時点で大体のひとがわかるだろうけれど、この映画はちょっとふつうじゃない。

 上述した音楽院での場面でも言及されるのだが、この作品においてひとつのキーになっている思想は「問い続けること」だ。ターの音楽家/芸術家としての知識や技術の豊かさと、(あくまで彼女と比べればの話ではあるが)一般の人々の「教養のなさ」とが対の関係になっていて、後者の人間が無遠慮に政治的な正しさを振り回すことの暴力性が浮き彫りになっていくような展開が後半になると何度も描かれる。たしかに「正しく」あることは重要かもしれないが、ひとがなにかしらの行為を行うときにその背景にあるものを想像してみることも同じくらい大切ではないかという切実な問いが込められている。ターというキャラクターはもちろんのこと、この作品そのものを限りなく正確に理解するために必要なこと、それはやはり問い続けること、学び続けることで自らの思想を磨いていくことなのだろう。

 ただ、そんなことはふつうに今作を鑑賞していればなんとなくわかることではある。そういった最低限の分かりやすさや見やすさはベースにありつつも、そこかしこに配置された不可思議な描写がこの作品の異常な底深さを創出する役割を果たしてもいることは事実だろう。つまりは、なにが正しいのかわからない状況の中を揺れ続ける覚悟はあるのかと鋭い刃を突きつけてくる非常に攻撃的な側面を併せ持つ作品でもあるというわけだ。作品を最後まで観終えてこの文章を書いているいまでもやはりターという人物やその周りを取り巻く人物たちに関してどのような捉え方をすべきなのか、ずっと揺さぶられ続けている。ただひとつ確信してしまったのは、やはり知識や教養がないことは特にこのSNSの影響力が非常に大きい現代においては非常に恐ろしい状態なのだろうということだ。それがなければ「正しくなさ」を是正するはずのキャンセルカルチャーはただの人殺しのような行為にもなりかねない。そういえば、最近のカニエ・ウェストのことをどうしても連想してしまう作品でもあった。クリスタが自殺したことが明らかになってからの後半の展開においてターの人物像はたしかにグレーな色合いをも増していくが、それでもケイト・ブランシェットの演技やらスタイリングやらが全編通してあまりにカッコいいのでなんか気づいたら好きになっているし応援したくなってしまうところなどもカニエみがあったり。そういった描写の数々を通して我々は、「権力」や「権力者」といった概念がいまはどのような人々に対してあてがわれようとしているのかを垣間見る。本編冒頭のスマートフォンによる中継画面はやはり非常に象徴的であるように思える。

 正直、鑑賞後に購入したパンフレットに記載されていた町山智浩の寄稿文を読まなければ気づかなかった点がいくつもあったし、それを知らないまま迎えた今作のエンディングはかなりショッキングで鳥肌が止まらなかった。作品の結末をこんなに信じたくないと思ったことは初めてかもしれない。ターは本編中において指揮者の「時間を掌握する力」に言及しているが、まさに今作を鑑賞する我々が彼女に完璧に時間感覚を持っていかれてしまうかのような体験をすることになる。その常軌を逸した時間のうねり(つまりは音楽的ということでもあるのか)を感じる愉悦はTARというARTを通してのみ感じ得るものだと、無知な自分は断言してしまいたい。