「Rodeoロデオ」鑑賞後メモ

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 主人公のジュリア(ジュリー・ルドリュー)はバイクを盗まれたことに対して苛立っていた。男たちの静止を振り切りながら病院の外に出ると仲間の車に一緒に乗せてもらいたいと頼むが、彼女の身を案じた男たちは帰った方がいいと何度も諭す。なんとか車に乗せてもらった彼女はその後仲間からバイクの売り手の情報を仕入れ、その場所へと向かう。ここまでの流れでこの物語の基本的な筋道—ジュリアがホモソーシャル的な社会システムのなかでもがき続ける物語であること—が示される。

 ジュリアがバイクを盗み出す手順はシンプルだ。まずはバイクを試乗させてもらいたいと売り手に頼む。当然彼らはそのまま盗まれることを警戒し最初は断ろうとしてくるのだが、それに対して彼女は自分のカバンを「この中に身分証明書や家の鍵が入っているから」と言って彼らに手渡す。「バイク乗り」らしさを廃したスタイリングのジュリアを一目見やると売り手の男は渋々納得して彼女がバイクに乗ることを許してしまう。そこからはもうお分かりのように、ジュリアは全力で盗んだバイクで走り出す。しかも振り返って中指を立てながら。その(尾崎豊もびっくりな)モーレツな不良性がブチかまされながらも最高なオープニングのシークエンスと共に「Rodeo」のタイトルが出る。バイクで爆走する彼女を映しているバックではモダンなプロダクションのレゲトンが流れており、カリブ系移民である彼女のルーツもサウンドとして提示される。

 その後ジュリアは、公道でアクロバティックな走行をするバイカーの集団と偶然巡り合う。バイクの燃料を分けてもらうために彼女は近くにいたカイス(ヤニス・ラフキ)という男に声をかける。彼も最初は彼女のことを警戒する素振りを一瞬だけ見せるものの、「じゃあ笑顔を見せてくれ」という変わった要望をちょっとしたおふざけのように彼女に言う。それまで険しい表情のジュリアであったが意外と素直にその頼みに答えて少しの間ではあるが彼に向かって笑顔を見せる。この作品を見終わった直後はこの部分の描写のことを忘れてしまっていたが、この時点ですでにカイスの人の良さや無闇やたらに金銭的ないし物質的な見返りを求めようとはしない人間性が提示されていたのだなと気付かされた。その後はバイカーたちのアクロバテティックな走行を見せるシークエンスが始まる。高速で走行しながら車体が道路に対してほとんど垂直になってしまうほど高く前輪を持ち上げるその走行スタイルは、この世界を取り巻く重苦しい重力に対して彼らが突きつける鮮やかな反逆行為であるように思われた。生と死の両方を全身で乗りこなし超越していく軽やかさを彼らはその高速の世界において完全にものにしているようだった。

 彼らの走行に見惚れていると、突然メンバーのひとりが警察が近くに来ていることを大声で知らせ始め現場は突如緊迫感に包まれてしまう。そのなかで、ジュリアに前輪を高く持ち上げるウィリー走行のやり方を指南してくれたアブラ(ダブ・ンサマン)が転倒し、死傷を負ってしまう。このアブラというアフリカ系の男性はその後ジュリアの夢の中において何度か登場しては彼女にメッセージを残していくのだが、これは要するに早くに両親を亡くした、もしくは元々孤児であったのであろうと思われるジュリアにとっての父や父性というイメージを表象するような存在となっていたということなのではないかと思う。

 ジュリアはやがてカイスたちが属する強盗組織のメンバーとして日々を過ごすことになっていく。ホモソーシャル的な空間においてただひとり女性であり、尚且つ誰にも増して攻撃的な側面も持ち合わせているジュリアはしばしば他メンバーとの衝突を繰り返すが、その度にカイスがなんとか仲介することで間をとり持っていく。

 物語の中盤ごろになると強盗組織のボスであるドミノ(セバスティアン・シュローダー)と彼の妻であるオフェリー(アントニア・ブレジ)という女性、それからまだ幼いひとり娘が登場する。ドミノは服役中の身ではあるがオフェリーと娘を「世話している」という大義において実質軟禁状態に貶めている。一度オフェリーが実家のあるコルシカ島に娘を連れて勝手に帰省したことに対して腹を立てたドミノは彼女に現金を持つことすら禁じるようになっていた。そのため日用品を組織のメンバーが代わりに買いに行っており、ジュリアがその役割を任されるようになる。オフェリーが食べ物をきちんと食べようとしない娘を叱りつける様子を物思わしげに見つめるジュリアの様子が印象的に切り取られているカットがあるが、これもやはり先述のように彼女がオフェリーのなかにかつて喪失した母や母性といったイメージを重ねて見ていることが窺えるようになっている。

 ジュリアという人物の描写においてもうひとつ印象的なのが、スマートフォンの画面でアクロバティックな走行を繰り広げるバイカーたちの映像やトラック強盗の映像を食い入るように見つめているものだ。物語の序盤から中盤にかけてはその映像のなかで見られるものが彼女にとってこの世界の「重力」から抜け出す方法を指し示すビジョンのようなものとして描かれるが、カイスやアブラ、そしてオフェリーとの出会いや親交を通して彼女の思いも少しずつ違ったものへと変化していくのがわかる。オフェリーと彼女の娘をバイクに乗せて一緒に道路を高速で駆け抜けるシークエンスは非常に感動的だ。

 ストリートで普段から走行している本物のバイカーたちを演者として起用しているという点や、強盗映画という要素が絡んでくる点などにおいて「ワイルド・スピード」と重なる部分がいくつかあるようにも思われるが、「Rodeoロデオ」はむしろホモソーシャル的な構造を解体(というかぶっ壊し)していく攻撃性を秘めているので根本的には真逆のスタンスであることは間違いないだろう。それにレースの勝ち負けや物品を盗み出すこと自体に主眼が置かれているわけではなく、むしろそういったしがらみだらけのむさ苦しい空間や圧力に対してFxxk youと中指を立てて高速でブッちぎっていくことへの希求こそが今作の肝だ。まるで不死鳥のようなラストの描写は「この男中心世界のクソみたいな「重力」に屈して死ぬわけないっしょ」という女性側からのストレートな回答であるように思われた。今作が長編デビュー作となるローラ・キヴァロン監督はノンバイナリーを自認している。生と死の間で揺れ動く、もしくはそのどちらをも拒否するようにバイクを乗り回すジュリアを主人公に据えたことはそのことと無関係ではないであろうし、そうすることで彼女はロデオというマッチョなモチーフを女性側に鮮やかに反転させることに成功したと言ってよいだろうと思う。