「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3」鑑賞後メモ

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 レディオヘッド”Creep”のアコースティックアレンジVer.が流れ出す。そしてその歌を小さな声で口ずさみながら少し切ない表情で階段に座り込んでいるロケット(ブラッドリー・クーパー)のクローズアップショットから本編が始まる。彼が立ち上がって歩き始めるとカメラもそれに合わせて動くのだが、このオープニングのシークエンスにおいて今作がロケットの出自についての物語になることや3Dによる奥行き表現、また360°の方向にひとやものが自在に動き回るような画面構成やカメラワークが今作に盛り込まれていることが示唆される。ワンカット(的な繋ぎ方)によってガーディアンズお馴染みの面々をひとりずつ映していくと同時に、VOL.2以降彼らがノーウェアという惑星に築き上げたコミュニティの情景も映し出される。一作目においてはただの盗賊のような存在でしかなかった彼らも今ではひとつのコミュニティの平和を維持する仕事をこなしているというだけでも割と感慨深い。とまあ、そんな感じでしばらくはお馴染みのだらしないやり取りが展開されるのだけれど、この場面における酔い潰れ状態のピーター(クリス・プラット)とのやりとりの中でロケットは自分が正しい名前で呼ばれないこと(シリーズではお馴染みのノリではあるが)に言及する。この時点ではいつも通りのやりとりのようにも思えるが、ロケットに対して間違った名前(「リス」や製造番号など)で呼びかける描写はその後の展開においても頻出する。要は序盤においてはまだ誰もロケットの出自については誰も知らないということであり、ピーターらがロケットを「製造」したオルゴ・コープ社という企業のオフィスが惑星を丸ごと独占しているオルゴスコープに潜入しようとするプロットと並行してロケットが生まれた経緯を提示する回想シーンとが描かれることでその全容が少しずつ明らかになっていく構造になっている。

 ロケットが今作の物語の核として存在していることや、オルゴスコープ内におけるピーターと警備員とのやり取りにおける演出などにおいて顕著なのが、今作は明らかに「ルッキズム(外見至上主義)」についての物語を提示しようとしていることだ。迫り来る数々の敵にはもちろんのこと、あろうことか普段から行動を共にしているピーターらにさえその容姿から「レッサーパンダ」や「ネコ」など見当違いな名前で呼ばれることが多いロケットであるが、これは現実世界における「人種」のわかりやすいメタファーとして機能しているのだろうし、彼の回想シーンに登場するライラやティーフス、フロアといったキャラクターは身障者の視点を代弁する存在としても描かれていたように思える。あとは先述したオルゴスコープ内でのやり取りなのだが、ピーターと警備員のやり取りを見ていると明らかに自分の部下の容姿をからかうような描写になっている。このとき、劇伴が明らかに過剰におどけるようなトーンになっており、どう考えても「ここは笑うところでは無いですよ」という作り手側からのエクスキューズとして機能しているように思えた。その後の場面におけるドラックス(デイヴ・バウティスタ)と警備員とのやり取りもおそらく同様の意図が込められているだろう。要はこの作品を鑑賞している我々に対しても直接揺さぶりをかけてくるような演出となっているのだ。それくらい今作は「ルッキズム」に対しての徹底した言及がなされている。

 こういった演出を通して作り手側が提示しようとしたものはおそらく「エンパシー=相手の気持ちを想像する」能力や考え方なのだろう。実際、監督のジェームズ・ガンの今作についてのツイート文にも”empathy”のフレーズが用いられていたし、なによりマンティス(ポム・クレメンティエフ)というキャラクターが持つ能力がまさにエンパシーを直接体現するようなものであったりする。今作のピーターはずっとガモーラ(ゾーイ・サルダナ)との恋仲が取り戻せないことを嘆き続けているが、このふたりが迎える着地もそういった視点を獲得することによって成し得たものなのではないだろうかと思えた。

 ルッキズムやエンパシーといったキーワードが提示されるのには、監督のジェームズ・ガン自身が2018年にディズニーから(一時的にではあったが)解雇された件が大きく絡んでいる。2008年ごろにガンがレイシズム児童虐待、性差別に関わるような際どいツイートをしていたことが10年も経ってから急にオルタナ右翼からの批判に晒されてしまったことで当初は2020年に公開予定であったシリーズ3作目の上映タイミングも大きくずれ込むことになってしまったわけだが、その後2021年に彼はDCに移ることで「ザ・スーサイド・スクワッド」という傑作を通してその問題に対しての猛省と言ってもいいような言及を成し遂げた。

 まあ、だいぶ端折った説明ではあるがとにかくこういった経緯を経て今作は公開を迎えている。ここまで述べた内容を踏まえて今作を観てみるとガンは引き続き自分自身に対しての戒めを込めつつも、明らかにディズニー社に対しての容赦ない言及をロケットという存在を通して行っている。まず、序盤でロケットを瀕死の状態に追い込んだアダム・ウォーロック(ウィル・ポールター)はキャスティングも込みで明らかに先述したオルタナ右翼の人間のメタファーであるだろうし、今作最大の敵として登場するハイ・エボリューショナリー(チュクーディ・イウジ)はディズニー社を象徴する存在として描かれているようにしか思えない。

 個人的に今作の白眉であったと思える、ハイ・エボリューショナリーが有するコロニー内での戦闘における演出においても言及する。まず、ピーターとグルート(ヴィン・ディーゼル)、そしてネビュラ(カレン・ギラン)が3人でコロニーの入り口まで向かうと、警備員らに止められ「武器を持っているやつと女は入れない」と言われてしまう。そのためピーターは携帯していた銃を置いてグルートとふたりでコロニー内部に入るのだが、その後ハイ・エボリューショナリーのいる場所まで行くとグルートは自身の身体の一部である木々の隙間に隠し持っていた大量の銃を取り出し、それをピーターにも手渡すと一気に銃撃戦を繰り広げ始める。これはやはり先ほどのルッキズムや性差別に絡んだ演出になっている。その後いくつか展開があり、ネビュラとドラックス、そしてマンティスらも同コロニー内に侵入するのだが、そこで彼らは牢獄に入れられた大勢の子供たちを発見する。これはディズニー社に対しての「結局いちばん子供を食い物にしているのは、あなたたちですよね?」というかなりストレートで辛辣な指摘となっている。ちなみにこの場面においてはネビュラがドラックスに対して「いつまでもバカなふりをして誤魔化すのはやめろ」という指摘をする瞬間がある。「ガーディアンズ」シリーズの最終作にしてこの厳しさの自己言及を行うことが出来るジェームズ・ガンの真摯さには本当に恐れ入るものがあると思えた。そして、紆余曲折を経て少しずつ理解を深め合ってきた彼らが一致団結して戦うコロニー内通路での戦闘シークエンスは涙なしに観ることはできないのではないだろうか。抜群のコンビネーションでピーターやロケット、ガモーラらが戦う様をカメラが360°縦横無尽に駆け巡りながらワンカット的に繋いで一気に駆け抜けるように見せていく。それによってバラバラの価値観の人間同士でも互いに理解し合おうと努力し続けることで全方位的な自由を獲得しうるのだというメッセージを提示しているように思えた。

 あとひとつ、各キャラクターが最終的にシリーズを通してどのような成長を遂げたのかという部分の描き方もとても真摯なものがあったように思える。ピーターやロケットはもちろんのこと、ドラックスが比喩表現を使えるようになることや、クラグリン(ショーン・ガン)におけるあの演出もシンプルではあるが強力で素直に落涙してしまった。ネビュラがシリーズを追うごとにどんどんおいしい存在になっていったのもジーンとくるものがある。とまあ、感動できる瞬間が終盤においてはやはりたくさん用意されてはいるものの、ハイ・エボリューショナリーを演じる俳優にアフリカン・アメリカンのチュクーディ・イウジがキャスティングされていることを考えると、やはりガンはあくまで彼自身も含めたアメリカ白人男性に対しての「そんなに簡単には変われないぞ」という厳しいメッセージも込めているように思えた。

 正直、シリーズ3作のうちでは上映時間の長さも含め多少ラフさというかだらしなさを感じるような部分がなくもないものの、作中で言及されるテーマのシリアスさなどを考えると妥当な作りであるのかもしれないとも思えた。何より、ガンとディズニー社との関係性の変化という点があまりにも大きいだろう。それでも最終的には(少なくとも自分にとっては)とても幸福なシリーズを追うことが出来て良かったと思えるエンディングまで描き切ってくれたジェームズ・ガンやキャストの方々に対して、全力で感謝とリスペクトを捧げたいと思う。ありがとう。