「レッド・ロケット」鑑賞後メモ

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 極端なクローズアップから本編が始まり、そこからカメラがゆっくりと引いていく。するとそこにはバスの座席カバーに描かれた宇宙を模したようなデザインが立ち現れ、それから人間の身体の一部が画面上部に向かって盛り上がっているかのようなモノが見えてくる。さらにカメラが引くとそれはどうやらタンクトップを着た男性の肩であることが分かる。そして7,80年代の映画のようなコテコテな音楽の演出やデザインと共に「RED ROCKET」のタイトルが表示される。今作の主人公であるマイキー・セイバー(サイモン・レックス)はどうやらワケあってしばらく疎遠になっていた妻のレクシー(ブリー・エルロッド)と義理の母親であるリル(ブレンダ・ダイス)が暮らしているテキサスの田舎町に舞い戻ってきたようで、何故か服は薄汚れ顔や身体にいくつかアザも出来ている。それでもマイキーは予告編でも使われているイン・シンクの”Bye Bye Bye”という楽曲が流れるなか勇ましく故郷のホームへ凱旋、というわけでもなく…。このオープニングにおけるレクシーの家までの道のりを描く場面含め劇中で何度も映される工業地帯のショットは、今作の舞台となるこの街がマイキーの存在をはなから必要とはしない独自のシステムで経済的な循環を生み出していることを暗に示しているように思えた。そしてそれぞれの登場人物たちが暮らす住居は、本編ラストのショットにおいて最も顕著なように女性性を表すモチーフとしての役割を果たしてもいるだろう。白人のポルノ俳優といういかにも男性的なマッチョ性に満ち溢れた存在を標榜してしまっているマイキーはやはり、レクシーやリルらに家の中に入ることを拒まれる。

 それでもなんとかマイキーはレクシーらの家に転がり込むことに成功する。やがて彼は収入源を得るために職探しを始めるがそれなりに名の売れたことがあるポルノ俳優という経歴を一般の人間に理解してもらうことは難しく、結局最終的にはレクシーの知り合いのツテをたどりマリファナの手売りを始める。やがてその仕事によって少しずつ経済的にも余裕が生まれ、レクシーやリルとの関係も緊張感が薄れ笑みがこぼれる瞬間も増え始める。そんな中である日、マイキーは気が大きくなってきたタイミングでレクシーらをドーナツショップに連れていき彼らが好きなものをご馳走することになるのだがその店において彼は今作のヒロインであるストロベリー(スザンナ・サン)に出会う。ここまででちょうど物語の中盤に差し掛かるくらいだろうか。ドーナツショップのカウンターで17歳のストロベリーに一目惚れしてからのマイキーがノリノリになっていく様子はほんとうに観ていて楽しいし、テンションが上がる。後の展開を示唆してもいるのだろうという思いがどうしても浮かんではくるがそれでも最高に笑えるし、くだらない。気がついたらマイキーが店のカウンターの中に入ってふつうに常連客と会話している図々しさはなんだか愛おしさすら覚える。序盤において住居に入ることをひどく拒まれたマイキーだが、ドーナツショップやそこで働くストロベリーだけは彼やその他の男性たちを素直に受け入れる対照的な描き方がされている。これはドーナツやそれを販売する店、そしてストロベリーというキャラクターが「男性にとっての理想の女性性」を表すモチーフであるからだろう。ドーナツショップに足を踏み入れるのは本編の中ではレクシーとリル以外は男性しかいないのが象徴的であると思う。

 今作においては何度もセックスの描写があるが、それらがどれも短いカットでしかもブツ切りになって終わるのは作中で具体的には言及されないもののマイキーがおそらく悩まされているであろう勃起不全的な状態を表しているように思われた。一気にグッと盛り上がるが、すぐに静かになる。そういった演出が何度も繰り返されるし、それは今作のエンディングの演出とも絡んでいるはずだ。

 「レッド・ロケット」といういかにもなタイトルが冠されている作品でもあるのでもう少しちんちん的なモチーフについて言及したい。この作品の軸となっているのは作家自身による男性性の自己否定や反省の物語であることは間違い無いだろう。マイキーが誰も観ていない場所でこっそりと薬を飲んでちんちんの硬さを維持していることや、40代そこそこの彼が17歳の女の子と何度もセックスする様子は世間一般的な視点から考えれば「間違った行為」であることは容易に想像がつく。そういった「間違い」を燃焼剤のようにして性/生のエネルギーを奮い立たせているのが男性(ないし男性性)なのであり、しかもそれは簡単には変えられないだろうという厳しい見解がちんちん的なモチーフを通して浮き彫りにされている。そう考えると女性性を住居というモチーフで表す演出がウィットに富んだものであることにも気付かされる。もちろん住居は「中に入る」ためのものであり、そういった視覚的にも性的にも女性性を表すダイレクトな表現としての役割を果たしていると同時に、堅実なシステムを構築してそれをもとに生活を維持させている存在としての女性(ないし女性性)がマイキーのちんちんとの対比によって今作では描かれている。しかし、こういったことを踏まえつつ主演に据えられているのは過去にポルノビデオへの出演映像が流出したことによって表舞台を一旦退くことになったサイモン・レックスであることを考えると、今作はあくまで監督・脚本・演出を担ったショーン・ベイカーによる愚かな男性性に対してのエールとしてこの世界にぶっ放されたのだと、そんなふうにも思える。終わり際のショットや演出など、まあ男たちへの厳しさに満ち溢れておりますが