「君たちはどう生きるか」鑑賞後メモ

 ケンドリック・ラマーは昨年リリースした新作「Mr.Morale & The Big Steppers」に収録されている「Mirror」という楽曲内において”I Choose me, I’m sorry”というラインを書き残した。かたや日本では宇多田ヒカルが昨年初めの「BADモード」収録の「PINK BLOOD」のなかで「王座になんて座ってらんねえ」と歌い上げていた。さらにもう少し前の年まで遡ると、庵野秀明が「シン・エヴァンゲリオン」において「エヴァ」との決別を描いてもいた。

 そうした「ふつうの人間」的な存在への回帰や肯定を示した彼らは世間的には「天才」性をそこに見ずにはいられないほどに大きな存在ではあるが、一方でそういった動きとは真逆の、孤高であると同時にある種暴力的ともいえる神聖さを帯びていく人間もいる。ここではカニエ・ウェストをわかりやすい例として挙げておきたい。彼は2021年に「Donda」という作品をリリースした。亡き母の名前を冠したその作品を通して彼はキャンセルカルチャーに対しての反抗を示すとともに、人を裁くことができるのは神だけだ、という敬虔なクリスチャンとしての強力なメッセージとサウンド、そして母を悼む思いを提示した。宮崎駿による新作「君たちはどう生きるか」を観てカニエの存在を連想してしまうのはもしかしたら安直すぎるかもしれないが、「本物の母性」との永遠の断絶、そしてそれに対して自身の想像力を通しての凄まじいまでの反抗、もがきを行ってきたという点において、今はこのふたりを重ねて見たくなってしまった。

 「君たちはどう生きるか」の本編は40年代前半、戦時下の東京において夜中にけたたましく空襲警報を鳴らすサイレンが最初に映し出される。最初の瞬間からこの作品は濃密な死の香りと予感に満ち溢れている。空襲で燃え盛る街の中を主人公の眞人が駆け抜ける瞬間の、炎の熱で景色が揺らめく様子は視覚的にその不穏さを提示してもいた。ヌルヌルとしたものに主人公が塗れる描写は実際作中で何度か繰り返される。

 アヴァンタイトルの後、眞人は父親とともに東京を離れた片田舎の街(具体的な場所は忘れた)へ移るのだが、そこで眞人を出迎えたのは亡き母に瓜二つの女性、夏子だ。眞人の父親はどうやら軍事産業に関わる人間であり、朝鮮戦争による特需もあってかかなり羽振りのよい人間(社会的強者)として描かれているため、夏子のような女性や大きな庭園と家屋を伴う豪華な新居で暮らすことも難しいことではなかったのであろうということがなんとなくわかるようにはなっている。父親の描かれ方は決して好印象な方向によっていくものではなく、むしろ現代にも通ずるトキシックな男性性をわかりやすく象徴するキャラクターになっている。とはいうものの作品全体のトーン自体は軽やかなものであり、変なしんどさはない。強いて言えば、先述したような死の香りと予感が常にこちらを見つめているようであり、今作のポスターアートにおいて唯一ビジュアルが先出しされていたアオサギがそれを体現する役割を果たしてもいる。眞人が新居に到着した瞬間からアオサギは彼のことを見つめ続けたり、不意に近づいてきたりを繰り返す。

 そういった不穏な予感と重なるように描かれるのは、夏子や屋敷に下女として住み込んでいる7人の老婆たちが象徴するような「偽物」の複製された母性だ。作品序盤において、しばらくの間眞人は彼女らの存在をなかなか受け入れられず、学校においてもおそらくはその出自の恵まれている点において周囲から疎んじられてしまう。「本物」の母性との断絶を忘れられずに苦しむ眞人は学校の帰り道に落ちていた石を拾い上げるとそれを右の側頭部に思い切り叩きつけて自ら傷をつけてしまう。そうすることで学校に行かずに済むことを望んだということなのだろうけれど、このアクションによって側頭部につけた傷はある種の聖痕のようなモチーフにもなっており、その後の叙事詩のような展開の仕方に対しての布石になっていたように思える。

 そんな彼の価値観を揺るがす出来事がその後ふたつ起こる。ひとつは、頭の傷が出来た直後の場面でアオサギが眞人の自室の窓から入り込んでくること。眞人に対して「亡き母親」に関することをひとの言葉で話しながら挑発し続けるアオサギを彼は手製の弓矢で射抜くことを試み始める。そしてもうひとつの出来事が、その弓矢を制作する過程において、亡き母からの贈り物として吉野源三郎によって書かれた小説「君たちはどう生きるか」がたまたま見つけ出されたことだ。今作の公開前においてはこの作品が原作ではないという噂が流れていたりもしたが、蓋を開けてみるとこの作品の基本的な部分はこの小説をベースとしたものになっていたわけで、それでも面白いのはこの小説=虚構=ファンタジーを眞人が読んで涙を流すほどに感動することで夏子や老婆たちに対する見方が変化し始めるというところだ。

 ここから後の展開はジョン・コナリー著の「失われたものたちの本」をベースにしたであろう、ある種非常にポエティックな展開になっていく。それを言葉で説明していくのはなんだか野暮な気もするというか、単純に少し面倒くさいのだが、要は今まで制作されたあらゆるジブリ作品のフレーバーをふんだんに塗した「非現実」を旅していく流れになっている。宮崎駿による自身のキャリアへの自己言及にもなっているであろことは間違いないだろうが、個人的にはそこにおいて「鳥」というモチーフを通して繰り返し描かれる「天才」と「凡人」の間に広がる残酷なほどに深い深淵がとても恐ろしかった。そしていうまでもないが、眞人、そして宮崎駿は完全に「天才」側の人間だ。

 先述したような恐ろしさはあるものの、クライマックスにおける「最深部」で積み木のモチーフを用いて語られる「作家論」のようなものには非常に胸を打たれた。「後継者」についての言及はするものの、「俺たちと同じゲームで戦おうとはするな(というかもはやそれが許されない時代になりつつある)」と言っているようで、つまりは積み木=古い世代の戦い方(戦争ないし戦争的なスタンスを伴うもの)というふうにもとれるのではないだろうか。

 「本物」の母性の希求と、これまでのジブリ作品群とが最終的に円環的な時間の流れをかたどるように集結していき、ラストショットへと結実する。現実と非現実とが混ざり合った世界を思わせる終わり方は庵野秀明による「シン・エヴァンゲリオン」においても描かれていたように思えるが、それとは求めているものも含めてまるで正反対な気もした。それはやはり彼が、宮崎駿が「選ばれしもの」だからなのだろうか。