私の日は遠い #14

 湿度の高い空は雲に覆われていて、たまに雨が降ったり止んだりしている。そんななかで誰がやる気を起こしてなにかに取り組んだりするのだろうか。とは言いつつ今日も街は動き続けている。シズオには理解し難い摂理によって大量の人間の生活や心がかきまわされている。そこに加わりたいとは思わなかったが、一定時間はそこに潜り込んでいかなければ彼の生活にサイクルは崩壊してしまう。自由とはなんだったのだろうか、いつ売り渡したのだろうか。そもそも誰が持っていったのだろう?そんな不毛な問いが彼の薄っぺらい脳みその中をふとよぎった。

 

 ベラベラ喋りながら飲む酒がいちばん美味いのではないかというのがシズオの持論だった。そもそも酒に強いわけではなく味も大して好きではないのだが、一緒にその場にいる人間との会話をブーストさせる飛び道具としてはときに思いもよらない効果を発揮してくれることがあるなというのがシズオにとっての酒であった。なのでひとりで飲むことには興味がなく、そんなことをする金があるなら美味い飯を食いたいと考えるような人間だった。

 

 酒を飲んだ翌日は心身共にひどくだらしない。誰も見向きもしない穴から垂れ流された不定形な生き物のような気持ちで朝を迎え、ハリのない表情に目ヤニを添えた瞳を世界に向ける。シズオはそんなイメージを膨らませながら通勤の道を歩んでいた。夏の日差しだ、と思った。昨日降り続いた雨が止んで、湿った空気の間を強い日差しが通り抜けてきて彼の肌を焼いた。暑いというか、もはや痛みを伴っているような気すらする。反対側の歩道から信号を渡ってきた女子高校生は日傘をさしていた。あれは案外涼しいのかもしれない。こんな痛みを感じ続けるくらいなら俺も明日から日傘をさそうか。そんなことをぼんやり考えながらシズオは歩く。8時間の労働を終えた頃にはきっと日傘のイメージは一ミリも残ってはいないだろうと、彼自身うっすら気づいていた。

 

 人間としてアクが強すぎるのかもしれない。女の子たちが最終的に少しずつ自分から離れていくような感覚をシズオは何度か体感していたが、それはやはり自分の在り方に問題があるのだろうかとたまにぼんやりとではあるが悩むようなことがあった。大した悩みではないなと思いながらも、どうせなら多くの人から好かれながら生きていきたいとどこかで静かに願っているようなシズオにとってはある種切実な問題でもあった。どうすれば良いのだろうか。顔が濃いめなのが良くないのだろうか。いかにも性欲が強そうな感じが出てしまっているのだろうか。なんだかそんなしょうもない憶測ばかりが高速で彼の脳内を飛び回ってしまっていた。ひどい有様だった。

 

 久々に冷房の風に当たりすぎて腹が痛くなった。こんなことは夏にならないと体験することはない。かといってシズオはそれに対して特に喜びや感慨を覚えることはなかった。それでも、勤務時間の暇なタイミングでトイレに駆け込んだことで余分な便を全て放出することが出来たので結果的には非常にスッキリした気持ちになっていた。二転三転して体の調子はよくなっていった。これが夏の魔法なのだろうか、とシズオはしょうもないフレーズをぼんやりと編み出した。

 

 ぼんやりと夕暮れの風を浴びながらシズオは自分で作ったおにぎりを食べた。公園にはたくさんの子どもたちとその母親とで溢れかえっており、そこらじゅうから意味のわからない奇声がひっきりなしに聞こえてきた。それを聞いているととてもじゃないが素直に可愛い生き物のようには思えなかったし、そもそも自分には全く縁のない存在なのだということをシズオはふと思い出して、それからまた全てがどうでも良くなっておにぎりを一口食べた。割とうまかった。

 

 暑すぎるから、なんでもいいので今すぐ涼しい風をこの場に吹き抜けさせることができる魔法を習得したいなとシズオはぼんやりとした頭で考えていた。いつもぼんやりしているが、暑さのせいでいつにも増して酷い有様だ。空気がべったりしているように感じられるし、頭の奥や喉がモヤモヤしている。冷たいものを身体に突き刺したい。突き刺したら痛いだろうが、なんとなく今は突き刺してもいいような気がしていた。

 

 気がついたら適当な言葉ばかりが口をついて出てしまう。シズオはその度に小さな後悔を少しずつ積み上げながら、それでも気持ちがいいときなんかはそれを止めることができなかった。ただただ乱れていく、言葉も心も。もはや誰かに何かを伝えたいのではなく、むしろ自分が自分自身をより鮮明に把握していたいがためにその言葉たちが吐き出されているように思えるし、だからこそそれはまとまりを欠いているのだろう。要は全てが思い上がりなわけであって、中身はやはり大したことないようなのだ。

 

 毎日顔を合わすうちに好きになってしまうタイプの女の子がいるなと、シズオはたまに思うことがあった。つい最近もそんなようなひとにあった気がする。最初の印象が特別鮮烈なわけでもないのだが、同じ場にいたり会話したりするのは妙に心地よかったりして、何度か繰り返し会ううちに勝手にどうしようもない魔法にかかり始めてしまうような、そんな感じだと彼は思った。不思議なもので、気づいたらもっと会って会話をしてみたいような気がしてきてしまう。どうでもいいことで笑かしたり、からかったりしてみたい。その瞬間に人生が少しだけ妙な輝きを放ち始めるのだ、と。

 コピーしたい用紙をセットするのを忘れたままスタートボタンを押してしまったせいで、コピー機が連続で虚無を吐き出し始めた。機械の中を潜る前と何ひとつ変わることない見た目のまま飛び出してきた紙たちは目に見えない虚無の輪郭を纏ってシズオを緩やかにがっかりさせた。彼は忘れ物をとりにいくような気持ちで中止ボタンを一度押すと、今度はしっかりと印刷物を設置し直してから機械の運動を再び再開させた。彼自身の失敗ではあったがコピー機すらなぜか少し俯いているように見え始めた。

 

 将来のことについて落ち着いて考えてみてもいいのかもしれないが、そもそも一年先のことすらシズオは全く想像できないでいた。同じ仕事を続けているのか、趣味は同じままなのか、誰かと付き合い始めたりするのか。そのどれもが彼にとって一切のリアリティを感じさせてはくれなかった。テキトーな空想に一喜一憂しているだけの安っぽいアトラクションのような日々をずっと生きている。ただそれだけのことであり、だからこそ常にほんの少しの刺激で全てを壊されてしまうのかもしれない恐怖に追いかけられ続けるのかもしれない。

 

 夜中に雨が降り続いている音が眠っている間にずっと微かに聞こえていた気がした。朝起きると雨はもうあがっていて、何も音を立てない静かな曇り空だけが街の上でだらしなく伸びていた。シズオは休日だったので9時くらいに起き、顔を洗ってトイレに行ってから朝食を作り始めた。といっても大して料理の腕前があるわけではなく、テキトーにソーセージとオムレツもどきのようなものをささっと焼いて作り上げる程度なのだが。シズオはスマホでなにかの動画を見ながら食事をすることが多く、その日も見ている途中だったゲーム実況動画をぼんやりと見つめながら自分で作ったものを食べていた。

 

 普段あまり雑誌を買わないシズオが今日は珍しくポパイの最新号を購入した。それは夏の特別増刊号のような仕様になっており、何よりシズオが最近好きなK-POPグループが表紙を飾っていたために購入したのだった。雑誌の内容はソウル市内のイケてるスポットを紹介しているような感じになっており、シズオにとっては全く意味のない内容といっても差し支えはなかった。海外にいくことなどちっともイメージしたことはなく、この小さな島国の内陸でただただのたれ死んでいくだけなのではないかとどうしようもない空想だけが彼の脳内を占めていた。もはや天国のような領域に等しいソウルを、シズオは質のいい紙に印刷された写真の数々を通して静かに見つめていた。

 

 雨が降るとシズオはまず始めに傘を持ち歩かなければいけない煩わしさを思い出すところから1日を始めることになる。大した量が降っているわけでなければ折り畳み傘を使ってしまおうと思えるのだが、彼の場合はなんだかよくわからない勢いの雨に遭遇することが多く、テキトーに折り畳み傘を持って行った日にはかなり勢いのある雨が降り続いたり、逆にしっかりとした大きい傘を持って行った日には途中から晴れ間がのぞいてきたりする。要は世界のテンポ感と全く噛み合わないままだった。何年生きても噛み合う気がしなかった。

 

 雨の6月が始まって一週間程度が経った。去年の今頃に観に行った映画のことを思い出す。今なら観に行こうとは思わないであろう作品だったなとシズオはなんとなく感じた。毎日大して変わらないようで、なにかが少しずつ変化している。そのことを実感するには時間がかかるし、気づいた頃には後戻りができない。