「ケイコ 目を澄ませて」鑑賞後メモ

youtu.be

 2020年の4月ごろからコロナ禍という言葉で形容される時代の中で生きることになって、そこからの日々は今振り返ると正直キツかった。ユニクロのエアリズムマスクが発売されても売り切れていたので買えず、最初は使い捨てのマスクを使い捨てずに使い続け、耳はヒモが当たり続けて痛いし自分の口臭で生地がクサくなっていくし何もいいことがなかった。社会人1年目もいまはハッキリと思い出せないくらいしんどかったけれど、目に見えないウイルスに怯えながら生きるのもなかなか面倒くさくて、そんなブレードランナーみたいな世界で生きているうちに少し鬱っぽくなったりもした。べつに毎日呑気に生きているのだけれど、ふとしたときに自分が何者なのかを忘れた。どんな日々を送ってきて何を大切に思っていたのかを忘れると自分自身に生きている価値を与えられなくなる、でも自殺するのは怖くて出来ない。自分の話で笑ってくれた友人たち、生きたくてもCOVID-19に感染し亡くなってしまったひとたち、そして命を落としてもおかしくはなかった状況を生き延びた親友のことを思い出したりしてみる。それで自分が今まで生きていられた理由を少しだけわかったような気持ちになれたりなれなかったりしながらまた少しずつ歩き出す。その場所から少し離れられてからようやく「ちょっとセンチメンタルすぎたな」「悩む必要ないことで悩むの意味ないね」なんてまた呑気にひとりごとを言ってみたりして、2021年も過ぎていった。映画や映画批評、哲学の本を通して自分の中で世界を見つめるためのチャンネルを少し増やせたのが良かったのかなと思う一年だった。ブログを始めた年でもあった。

 「ケイコ 目を澄ませて」は再開発とCOVID-19への感染対策に塗れた2020年の東京が舞台で、主人公のケイコ(岸井ゆきの)は生まれつきの感音性難聴で両耳が聞こえない状態で日々を過ごしている。朝早く起きランニングをして、日中はホテルの客室清掃員として部屋の清掃業務を行い、夜は1945年からその地に門を構えている小さなボクシングジムでトレーニングに励む。街の中では常にあらゆる方向に向かってたくさんの自動車や電車がすごい速さで駆け抜けていき、もはや人間には理解不能な秩序でもってノイズまみれのカオスを形成し続けている。それに加えて人々はマスクをしているため、口元の動きが見えず手話話者でない人とのコミュニケーションも困難を極め、ただ日常を過ごすだけの描写も常にスリリングだ。会長(三浦友和)とケイコが早朝の河原でふたり並んで準備体操をしている場面は心地よい安心感を覚えるシークエンスではあったりするものの、序盤におけるケイコの表情に滲んでいるのは主に理解できない、わからないといった思いであったように感じられたし、それは彼女のボクシングの試合時における恐怖心と無関係ではなかっただろう。まるで真っ暗闇の中にポツンと浮かんでいる空間のように切り取られるリングはケイコの心の葛藤を目に見える形にしているようでもあった。

 三宅唱監督の前作「きみの鳥はうたえる」においてもそうであったが、この作品は大事なことをアクションや演出を通して語る。本編がフェイドインから始まることでいまもコロナ禍の日本で暮らす我々の日常と地続きの物語であるという印象を与える効果が生まれているし、繰り返し登場する鏡はラストショットにも繋がるこの作品の主題をはじめから示唆している。右、左、前、後ろを見たりその方向に向かって動いていくこと全てが登場人物の心情と絡み合う。例えば、ケイコが試合に対して前向きな気持ちを見出せていないときにジムの中を通り抜ける場面があるのだけれど、この瞬間ジムにいる全員が違う方向を向きながらそれぞれが別々のトレーニングに励んでいる。それに対して、後半の場面でケイコがジムのトレーナーである松本(松浦慎一郎)とのミット打ちを行っているときに同じくトレーナーの林(三浦誠己)と若いボクサーもケイコらの動きを目で追いながら同じステップで動き始める瞬間があり、そういった演出の対比によってバラバラに離れていたように思えた登場人物らの心情が少しずつ重なり合っていく様子が描かれている。この瞬間の気持ちよさはもう実際に観て体感してもらうほかはないと思われる。このシンプルな映画的カタルシスをある種究極的に突き詰めた作品であることは間違いないだろう。

 会長は記者からの取材においてケイコのことを「才能はないかなぁ」と評するが、その後で「人間としての器量があるんですよ。素直で率直で」と語る。その器量とは何なのか、それはおそらく会長の妻(仙道敦子)による朗読の場面に全て込められていたのだと個人的に感じた。心の中で会長やジムに関わるひとたちのことを思いながら試合に臨むケイコ、さらにその後ろから彼女をずっと見守り続けていた会長という構図が視覚的に示される夜のジムでの一幕がそれを裏付けていると考えている。そこからの試合に向けた練習を描くシークエンスも含めてほんとに拳で殴られるような勢いで感動させられる。バラバラだったものがスッときれいにひとつに折り重なって澄み切っていくようで、これはほんとに圧巻としか言いようがない。

 何者でもないけれど連続的な時間の流れのなかで生きてきたこと、多くの人々と繋がっている瞬間があったことが何よりも特別で、それが自分にとってなにひとつかけがえのないものとして静かに存在している。再開発の破壊とノイズに塗れて消えゆくものの中にはそうしたものがきっと多く含まれているのだろうし、日本に限った話ではないことも確かだろう。銃弾が飛び交い爆撃が繰り返されること、そして資源問題に対しての具体的な解決はまだなく、厳しいキャンセルカルチャーによって精神的にも排除されゆくものはきっと数多くあるだろう。時代の変わり目、進歩、淘汰。そんな2020年代をこれから生きていくらしい。どうやって?わからない。けれど、目を澄ましてみたらかつて出会ったひとからの応答があった。そのラストシーンにおけるケイコの表情の独特な揺れ動き方と、その後のアクションはあまりにも完璧で、素直で率直だった。

 そういえば、カフェで友人たちと会話している場面でのケイコの笑顔がなんだか恐竜みたいで大学のときの親友を思い出して懐かしい気持ちになった。だけど今はもう2022年の1216日で、あと二週間と数日で2023年が始まる。