「ある男」鑑賞後メモ

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 他人の過去の話はどうしてどれも面白そうに聞こえるのだろうか。自分自身の過去にはいくら思い出そうとしても特にパッとしたエピソードがなくてひどく味気ない。ほとんどの場合において実は他人の方が自分より豊富な経験を積んでいたり苦労しているような感じがあるし、なんとなくきれいに筋が通っているようにも思えてしまう。だからそういう誰かの生きた道筋を自分のそれと勝手に重ね合わせて、それをあたかも自分自身の物語のように誰かに語ってみせたくなる。少なくとも自分の中にはそういう欲望を感じることはしばしばあり、実際に似たようなことは何度かしている気がする。どうしてそのようなことをするのか。なんだかその方がきまりがいいというか、わかりやすくもなるので話を面白くし易いというのはひとつある。実際の自分の過去というのはなかなかシュールというか、あらゆる行動の動機のようなものが上手く説明しづらいのだ。そこにはおそらく恥ずかしさや後ろめたさが多分にあって、きちんとそこに焦点を合わせることが出来ていない、もしくはそうする気がないのだろう。自分の中の薄暗い部分を後ろ手にそっとしまい込んで、もう少し見栄えのいいものを表面にトレースしていく。そうやってつまらない面子を保ってきたような、そんな気がする。

 石川慶監督の新作「ある男」は全編ヨーロピアン・ビスタサイズというフレームのサイズになっており、一般的な映画の画面よりも少し横幅が狭くなっている。これによって様々な登場人物の姿が折り重なることでひとつの物語が形成されていくような感覚がより強調されるような効果が生み出されている。インタビュー記事内においても「自画像に近いような作品」を石川慶監督自身がイメージしていたと発言されており、鑑賞後には冒頭のルネ・マグリット「複製禁止」の絵画のイメージも頭にこびりついて離れなくなる。

 城戸(妻夫木聡)が「ある男」に対して強烈に惹かれてしまったのは、出自や境遇は違えどそこに同じような孤独や痛みを感じられたからであろうし、そういった「ある男」の肖像から反射されたイメージによって城戸は自身の中にある「触れざる領域」に触れることが出来たのだと思う。誰かの人生のひとつの側面が自分自身の心に強烈に突き刺さってくる瞬間は確かにあって、その破片をひとつずつ組み合わせていくことで「自我」という肖像を形作っている。そしてふとしたタイミングでその全てに嫌気が差したとき、全く違う誰かのイメージをその上にまたトレースしていく。つまりこの作品は「生き直す」ということについての物語でもあるのだろう。その機会を与えてくれる他者に対して「ある男」のように過去の過ちをそこにトレースし、かつて自身が求めていた優しさをそこに注いでみせることで新たな道筋を切り開いていく。そんなひとつの希望のイメージがこの作品に込められているように感じられた。個人的にも後半以降の「ある男」の過去やそこに登場する柳沢(カトウシンスケ)や茜(河合優美)らの存在感、そして窪田正孝の演技が特に印象的で後を引く味わいになっている。こういうのには弱いので、やられた。

 横幅が狭い画面のアスペクト比を採用しているが、冒頭の文具店での里枝(安藤サクラ)らのやりとりの場面から構図や演出が冴え渡っていてそれが最後まで心地よかった。この記憶を何度でも反芻しながら、少しずつ生き直していきたい。そんなことを思いながら、コロナ感染後の療養期間を終えたばかりのグニャグニャの脳みそを回転させてこの文章を書いた。