「ホワイト・ノイズ」鑑賞後メモ

youtu.be

youtu.be

 OMG

 ここはどこなんだ?

 え、2023年なのか、もう。そうか。

 どうしようか、とりあえずマスクをしてコンビニにでも行こうか。なんかダルいし、モンスターエナジーを買って体に流し込む。エネルギーを体内で循環させる。コーラも飲んでおこう。スーパー行くなら洗剤も買って、野菜も肉も買い足しておこうか。不足してしまっては不安だからな。詰め込めるだけカートに詰め込んだら人混みをかき分けながらレジまで駆け抜けていく。荷物は車のトランクに詰めてしまおう。ガソリンを少し足してから家に戻ろうか。いつもの道路を駆け抜けていく。少し窓を空けて風を感じながら、そう思ったけれど想像以上に寒くてすぐに窓を閉めた。ガレージに車を止めようとしたら、さっきまでそこでくつろいでいた野良猫が慌てて逃げていった。車をバックさせている途中でなぜか、鼻の内側にニキビが出来ていることに気づいた…

 ノア・バームバックの新作「ホワイト・ノイズ」はNetflixで観れるので、年末年始の暇な時間に観始めた。割と狂ってるな、という印象を序盤から持った。69年のハリウッドを舞台にしたタランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム イン・ハリウッド」や73年のサンフェルナンド・バレーを舞台にしたポール・トーマス・アンダーソンリコリス・ピザ」など、70年代アメリカを舞台にした傑作が最近は多いような気がするけれど、この「ホワイト・ノイズ」に関してはひたすらカマしにきているというか、少なくとも賞レースを狙った作りではないように思われた(「マリッジ・ストーリー」でそこはやり切った?)。とにかく極端なエナジーに溢れている。一見、色鮮やかなようで段々と毒々しさを感じてきてしまうようなカラーコーディングに感情の振り幅が広い人物たちのやりとりが四方八方にとっ散らかっていく。全てはどこか破滅的な勢いのままに突き進んでいく。どこに向かって?それは、死。

 映画という表現形態、特にアメリカから生み出されるそれにおいて車体が衝突し合う瞬間の美しさや興奮を語る幕開けと、その後実際に起こる衝突事故による有害な化学物質の拡散。それらの相反するような運動はこの作品において人間やこの世界全体を循環させる原理を表すモチーフとなっている。アダム・ドライバーグレタ・ガーウィグ、そして彼らの子供たちの家でのやりとりはまさに衝突と拡散の連続だ。アダムが抱える男性としての劣等感とヒトラーへの関心、それから不意にグレタを惑わす死への恐怖と「ダイラー」の副作用による忘却。さらに3人の子供たちのやたらとスピーディなやりとりなど、とにかくぶつかって、飛び散る。カット割りも細かい。色鮮やかなスーパーマーケットはわかりやすく資本主義社会の構造を示してもいて、これ見よがしにケロッグプリングルズ、コカコーラなどのロゴが目に飛び込んでくるようになっている。資源の枯渇という「死」が現実の世界においても少しずつ具体性を帯び始めているが、我々はそれでもスーパーマーケットやコンビニに行き続けるだろう。それは破滅の物語を更新していく行為でもある。

 衝突、破滅、そして死。物騒な言葉ばかり並べてきたが、この作品の過剰にファニーなトーンはどこからやってくるのかというとそれはオプティミズム、即ち楽観主義的なものの見方だ。それは冒頭でのドン・チードルの語りの中でも言及されている。アベンジャーズではウォー・マシンとしてミサイルをぶっ放したりしながら戦っていた彼がここではスクリーン上に投影される自動車の衝突場面と共に落ち着いたトーンでそれの存在意義を語っている。浮遊感、手放しの楽しさ、それらが「衝突」を極上のエンターテインメントに仕上げる。ぶつかって、飛び散る。それは我々が抱える不安や恐怖ごと燃やし尽くしてしまうようでもある。ある意味この楽観主義はアメリカ白人社会の病理としても描かれてはいるが、普段から映画を楽しんでいる人間としてはなかなか他人事でもない。スーパーマーケットとゴミ山の対比を通してそんな業の深さが視覚的にも提示される。

 ところで、序盤における長男坊の「すべては車」というセリフもとても象徴的だ。金を出してガソリンを足して、それが尽きるまで走って、また足して。それを繰り返し続ける。マスクをして有害なウイルスを避けながら、人体に有害かもしれないものを購入し続ける。我々はそんな社会で暮らしている。みんなが死に向かっている。それでも、その道中の「曖昧」な瞬間こそが人間にとってはとても大切な物語になり得るのではないか。全てのメディアから垂れ流される情報はどれも少しずつ曖昧で、それをもとに生きる我々もどうしたって曖昧さを抱えたままではあるけれど、その中から少しずつ希望をでっち上げていくしかないのではないか。戦争、各国の右傾化、格差社会、資源の枯渇、気候変動など、破滅のシナリオは考え始めると無数に広がっていく。それでも、ひとのなかに宿る白い靄のような曖昧さやだらしなさをそのまま肯定しようとするまなざしはいつの時代においても尊いはずだ。偶然性と想像力に導かれて、この旅はまだまだ続く。朝は遠すぎる。それでも、心臓は高鳴り始めている。

youtu.be