「キリエのうた」鑑賞後メモ

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 岩井俊二の映画は観たことがなかったのだけれど、少なくとも「キリエのうた」においてこのひとは「揺れ動き」についての話をしたいのだなと感じた。現在と過去を交互に行き来するかのような編集と手持ちで揺れ動きが多いカメラの撮影や人物の表情にグッと寄るショットの多用などは体感としてわかりやすい部分ではあるし、物語のプロットにおいてもアイナ・ジ・エンド演じる主人公のキリエ/路花の存在に着目してみると、発声に難を抱える日常生活と自在にメロディと言葉を繰り出せるストリートライブの時間との間で心が何度も揺り動かされると同時に、震災孤児となったことを契機に宮城から東京、そして北海道へと物理的にも大きな移動を強いられている。そしてこれは、一条逸子/真緒里(広瀬すず)、それから潮見夏彦(松村北斗)といった主人公の周辺人物たちにおいても皆同様であり、そうした心理的、物理的に人々を揺り動かし離れ離れにしてしまった最大の契機として東北の震災が描かれている。

 役者への演技の演出や作品の全体的なトーン自体は軽やかではあるが、それでも今作は震災以降の日本に対する冷たい諦念と絶望に満ちている。Z世代の人間が震災孤児として、または財政的な面において堅実な後ろ盾のない学生として、はたまた夢をもつ若者としてこの国で暮らすことがいかに困難であるのかということがひたすら可視化されていき、それらの登場人物たちは進路に次々とシャッターを下ろされていくような事態に何度も突き当たる。そしてそこに救いはほぼない。J POPソングを引用する演出が多い作品ではあるが、これも主人公らや市民にとっての希望の象徴というよりかは「もう、音楽とかに希望を見出そうとしてみるしかないですよね」というような冷たいエクスキューズであるように思えてならなかった。それでも実際、そうした音楽は社会構造の外側において人々が緩やかな連帯を作り出すための装置として描かれてはいる。クライマックスのコンサートの場面はその意図がはっきりと前景化していくが、しかしそこすらも明確に感動的な場面になっていく直前でぶつ切りにされるような、かなりドライな演出が施されている。そもそもひとりで安定、自立した生活を送れるレベルの社会性を獲得するということにほぼ関心がなさそうなキリエが明瞭な発声を行うことが出来る手段が、いかにも商業主義的なJ POPソング(もしくはそれを思わせるもの)を歌うことであるという設定自体がかなりアイロニカルな構図となっているのは非常に心苦しかった。

 終盤の海辺におけるキリエと逸子との場面が個人的には最も印象的だった。Z世代の人間が抱える諦念を一言で表す「ひとりが好き」というフレーズは自分の胸の中にものすごいスピードで突き刺さってくるようなリアリティを伴っていたのと同時に、「ひとり」のときの身軽さを逸子から少し離れた場所でバレエダンスによって表現するキリエ、そしてそれを見ながら静かに涙を流す逸子という構図を描くことによって、傷つくことが明白な現代日本の社会構造に対しての違和感や戸惑いを回避するためには他者から少し離れた場所で静かに孤立するしかないというこの世代からの切実な回答のようなものを示しているように思えた。そういえば、キリエの過去を描く場面において保健所の職員が「(これは)見過ごせないことなんです」という台詞を放つ場面があり、その一言に今作が作り出された所以が端的に集約されているようでもあった。

 ほぼ3時間の長い上映時間ではあるが、観客側の意識を揺り戻すかのようなタイミングでパッと時間軸が切り替わるような編集にもなっており、個人的には退屈する瞬間は少なかった。この長い尺があることによって示される、どんなに酷い世界でも、そこで大切な人と離れ離れになっても、相手が同じように生きていてくれたらいつかはまた会える(かもしれない)という希望と祈り、それからキリエの重たい荷物に関する描写にささやかな救いが込められている。