私の日は遠い #11

 朝から雨が降っていた。普段よりも落ち着いた空気の中を涼しい風が通り抜けてきて、ベッドで横になっていた達夫の肌をスッと撫でた。朝食まではまだ少し時間があるからということで、彼はしばらく寝転がりながら濡れた窓と景色を眺めていた。それは達夫にとってなかなか快適なひとときだった。まるで曇り空のグレーに自分の心を浸して潤いを取り戻していくような感覚を彼は覚えていた。どこまでも満たされて透き通るイメージと共にゆっくりと深呼吸をすると、近所のコンビニで雑誌を立ち読みしながら涼むことを夏の喜びだと信じていた小さな自分が少しずつ蜃気楼のように遠のいていく気がした。

 達夫は自分が寝ている部屋を見回してみた。寝室だけで一般的な一人暮らしの部屋よりもデカかったし、家具はどれも無駄に黄金でピカピカしていた。コカコーラを飲むために借りたグラスでさえ王者のような輝きを放っていて達夫はもはや気後れするような感じすらした。ドレイクとかビヨンセぐらいになれば現実でもこういう家に住めるのだろうかとくだらない妄想も浮かんだ。

 オグレの屋敷でしばらく過ごしても達夫には彼が一体何者なのかはよくわからなかった。二人で食事をとったりバカでかい庭でテニスに興じてみたり、大浴場で同じ湯船に浸かったりもしてみたが肝心なことがボヤけているような気がしてならなかった。いつも微笑んでいて余裕がある様子でくつろいでいる彼はただのんびりしている人にしか見えない時もあるが、どこか技巧的というか作り物を見せられているようでもあった。風呂に入った時もなぜか湯けむりが濃いように感じられて彼のモノのサイズ感も達夫は確かめ損ねていた。それがなんだか妙に悔しかった。とにかく色々と快適ではあるが、常に小さな不安が胸の片隅に張り付いているような心地のまま出来の悪い夢の中でくつろいでいる、そんな感じだろうかと達夫はさっき鼻から引き抜いた長めの鼻毛を静かに眺めながら思った。

 

 しばらく後になってメイドの女性が朝食の準備が出来たことを知らせに来てくれた。年の頃はたぶん23歳、とかその辺りだろうかと思われるその細身の女性はこれまたオグレと同じく常に微笑みを表情に纏っていたが、そこに温度感はあまりなかったためどうしても得体の知れないところがあった。それでも、基本的にはずっと良くしてもらっていたので達夫は素直に彼女に礼を言った。何日か前に彼女が部屋を訪ねてくれたとき、部屋に常備されているチョコレート菓子を彼女に勧めてみたのだが、やはり丁寧に断られた。今後、彼女との距離感がふとしたきっかけで縮まることもあるのだろうかと考えながら、そのひとがドアを閉じて去った後で達夫は服を着替えた。

 食堂までの無駄に長い廊下や階段を、特に急ぐ必要もなかったので達夫はゆったりと歩いた。

 屋敷内の通路はほぼ全て赤い絨毯が敷かれており、足を踏み込むとふわりと柔らかな弾力を感じることが出来た。達夫にとってそれは訳がわからないレベルのホスピタリティ精神であり、この親切さを全人類に均等に配分出来れば忘れかけた大切な感情を取り戻し始める人々も増えるのではないだろうかと思われた。

 階段を下り食堂がある階に向かう。すると、降り切ったところでオグレと鉢合わせた。すっかり見慣れた微笑みと共に軽い会釈を寄越してきたので達夫も適当に軽く頭を下げて反応した。それから、二人で並んで食堂まで歩いた。

 「昼にはあがるらしいですよ」とオグレは言うと視線を窓のある方に向けた。相変わらずパタパタと雨粒が弾ける音がしていた。

 「マーサさんも顔出しに来るかな?」と達夫。

 「まあ、天気予報の通りになれば来るのではないでしょうか」とオグレが返す。

 「中世ヨーロッパ風の屋敷に住んでるくせに天気予報はチェックしてるんだな」

 「便利ですからね、そういうテクノロジーには頼っていきたいものです」そう言うとオグレは手首に巻いてあるスマートウォッチのような装置のモニターに目をやった。

 「とは言うものの、いつチェックしても私の体調には数値的な変化がなかなか訪れないので場合によってはただ鬱陶しいだけですね。少し落ち着きすぎなようです」

 「お前はガジェットマニアか何かなのか?」と達夫が尋ねる。

 「こんなところに住んでおいて難ですが、そういう側面はあるのかも知れないです。あるいは単にミーハーっぽいのかも、なんてね」とオグレはいたずらっぽく笑ってみせた。

 「俺も大人になってからはテレビゲームやるのに興味ないんだけど、最新のゲーム情報とかチェックするのはなんか今だに好きなんだよね。それみたいなカンジ?」

 「なるほど、そういう感覚があなたにもあるのですね。つまりは子供の頃の習慣が今だに心身に染みついたまま、ということなのでしょうか」

 「オグレの子供時代なんて想像しにくいな。母ちゃんの腹の中から出てきた瞬間からそうやって微笑んでそうだもんな、お前」と達夫は冗談めかして言った。

 ふふふ、とオグレが小さく笑う表情を達夫は横で眺めていたが、透けて見えてきそうな彼の過去の幻影はそこにはないように思えた。

 そうして見つめる視線に反応するようにオグレがふっと達夫の方に顔を向けてきたので彼は少しドキッとした。

 「もしくは、交信していたいのかもしれないですね」とオグレが何故かさっきよりも少し落ち着いた響きでポツリと呟いた。

 しばらく反応に戸惑った後で、達夫は「…それは誰と?」と返した。

 すると、オグレは再び前に向き直ってから言った。

 「夢、ですかね」

 オグレが真面目なのかふざけているのか達夫は捉えかねて、思わず立ち止まってしまった。

 数歩先の方まで歩いたオグレがそれに気づいてゆっくりと振り返った。

 「訳のわからないことを話してしまってごめんなさい。好きなんですよ、こういうこと考えるのが」

 さあ、食堂はもうすぐそこですよと言いながらまた歩き出したオグレの後を追うように達夫もまた歩き出した。湯けむりでボヤけたオグレの股間のことを思い出しながら。

 

 

 

続く