「キリエのうた」鑑賞後メモ

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 岩井俊二の映画は観たことがなかったのだけれど、少なくとも「キリエのうた」においてこのひとは「揺れ動き」についての話をしたいのだなと感じた。現在と過去を交互に行き来するかのような編集と手持ちで揺れ動きが多いカメラの撮影や人物の表情にグッと寄るショットの多用などは体感としてわかりやすい部分ではあるし、物語のプロットにおいてもアイナ・ジ・エンド演じる主人公のキリエ/路花の存在に着目してみると、発声に難を抱える日常生活と自在にメロディと言葉を繰り出せるストリートライブの時間との間で心が何度も揺り動かされると同時に、震災孤児となったことを契機に宮城から東京、そして北海道へと物理的にも大きな移動を強いられている。そしてこれは、一条逸子/真緒里(広瀬すず)、それから潮見夏彦(松村北斗)といった主人公の周辺人物たちにおいても皆同様であり、そうした心理的、物理的に人々を揺り動かし離れ離れにしてしまった最大の契機として東北の震災が描かれている。

 役者への演技の演出や作品の全体的なトーン自体は軽やかではあるが、それでも今作は震災以降の日本に対する冷たい諦念と絶望に満ちている。Z世代の人間が震災孤児として、または財政的な面において堅実な後ろ盾のない学生として、はたまた夢をもつ若者としてこの国で暮らすことがいかに困難であるのかということがひたすら可視化されていき、それらの登場人物たちは進路に次々とシャッターを下ろされていくような事態に何度も突き当たる。そしてそこに救いはほぼない。J POPソングを引用する演出が多い作品ではあるが、これも主人公らや市民にとっての希望の象徴というよりかは「もう、音楽とかに希望を見出そうとしてみるしかないですよね」というような冷たいエクスキューズであるように思えてならなかった。それでも実際、そうした音楽は社会構造の外側において人々が緩やかな連帯を作り出すための装置として描かれてはいる。クライマックスのコンサートの場面はその意図がはっきりと前景化していくが、しかしそこすらも明確に感動的な場面になっていく直前でぶつ切りにされるような、かなりドライな演出が施されている。そもそもひとりで安定、自立した生活を送れるレベルの社会性を獲得するということにほぼ関心がなさそうなキリエが明瞭な発声を行うことが出来る手段が、いかにも商業主義的なJ POPソング(もしくはそれを思わせるもの)を歌うことであるという設定自体がかなりアイロニカルな構図となっているのは非常に心苦しかった。

 終盤の海辺におけるキリエと逸子との場面が個人的には最も印象的だった。Z世代の人間が抱える諦念を一言で表す「ひとりが好き」というフレーズは自分の胸の中にものすごいスピードで突き刺さってくるようなリアリティを伴っていたのと同時に、「ひとり」のときの身軽さを逸子から少し離れた場所でバレエダンスによって表現するキリエ、そしてそれを見ながら静かに涙を流す逸子という構図を描くことによって、傷つくことが明白な現代日本の社会構造に対しての違和感や戸惑いを回避するためには他者から少し離れた場所で静かに孤立するしかないというこの世代からの切実な回答のようなものを示しているように思えた。そういえば、キリエの過去を描く場面において保健所の職員が「(これは)見過ごせないことなんです」という台詞を放つ場面があり、その一言に今作が作り出された所以が端的に集約されているようでもあった。

 ほぼ3時間の長い上映時間ではあるが、観客側の意識を揺り戻すかのようなタイミングでパッと時間軸が切り替わるような編集にもなっており、個人的には退屈する瞬間は少なかった。この長い尺があることによって示される、どんなに酷い世界でも、そこで大切な人と離れ離れになっても、相手が同じように生きていてくれたらいつかはまた会える(かもしれない)という希望と祈り、それからキリエの重たい荷物に関する描写にささやかな救いが込められている。

「ザ・キラー」鑑賞後メモ

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 弾薬、食事、コワーキングスペースiPhone、シェアスクーター、輸送、そして音楽と時間。とにかくあらゆるものを片っ端から消費していくことでマイケル・ファスベンダー演じる殺し屋(The Killer)は生きている。目には見えないけれど遠くに薄ぼんやりと光り輝くように存在していると信じてやまない「安心」を求めて、しかし、あくまで唯物論者的なドライさを伴う思想をベースにして落ち着くことを忘れないようにしながら(しかししばしば忘れることになる)。

 彼の中で「安心」の感覚と80年代イギリスの代表的なロックバンドであるThe Smithsの音楽とはおそらくどちらもぼんやりとした亡霊のようなイメージという共通点において密接に結びついていて、だからこそチャプター1における暗殺のミッションを行う際にはライフルを構えて照準を合わせるような重要なタイミングにおいても「ながら聴き」しているのだろう。だがしかし、彼が強く追い求めるほどにそれはスッと遠のいていってしまう。実際、この作品の推進力の軸となっているファスベンダーによるモノローグにおいても、暗殺対象が遠くにいる場合のミッションの退屈さ、煩わしさについての言及が何度かある。あともうひとつ、それに関する印象的な演出として彼が病院内で知人の安否を看護師に尋ねようとする場面があるのだが、その瞬間に(1秒程度の短い時間ではあるが)建物内の照明が明滅して一瞬辺りが暗闇に包まれるといった描写がある。結局最も消費させられているのは、本来消費を行う主体であるはずの彼自身なのではないかという構図もこの辺りから浮かび上がってくる。

 個人的に面白かったのが、ある場面を堺に主人公に対しての感情移入が困難になるような演出がおそらく意図的に配置されていたところだ。それはチャプター2のドミニカ共和国における主人公とタクシー運転手とのやり取りの顛末のことなのだが、明らかに善良な市民でしかないその運転手をためらいもなく射殺し、さらに車内のラジカセは手に持って持ち帰っていくというお茶目な(?)行動を描写する辺りで戸惑う観客は少なくないのではなかろうかと思う。それはまるで、この演出を挟み感情移入の感覚を削ぐことによって我々を単純なカタルシスから遠ざけ、今作の主人公があらゆるものを消費し尽くすような淡々とした感覚そのものを追体験させようとしているようだった。

 とはいうものの主人公が消費していくのは基本的に物質的なものであって、そこに親密でアダルティーな女性関係やそれを直接的に示すような描写が絡んでくることはないのでなんとなく実直な少年のような無邪気さを感じさせてはくれるというか、トータルでは彼に対して可愛さを覚えなくもないといったバランスには仕上がっている。まあ、今作の殺人の描写はどれもカタルシス皆無でしんどみが深いけれども。

 予測できない未来というイメージに起因する不安を捻じ消すための消費とそれによる安心の希求。今作で言及されていることを一言でまとめるとそんなところだろうか。

 ちなみにこれは余談なのだけれど、最近はKen CarsonDestroy LonelyYeatらの「rage」や「pluggnb」に括られるようなラップミュージックやGeorge Clantonの新作「Ooh Rap I Ya」などが個人的にとても刺激を受ける音楽だったので、「消費」といった概念がキーになっている「ザ・キラー」はそれらと同じ感覚で楽しむこともできた。

「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」鑑賞後メモ

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 アヴァンタイトルにおいてアメリカ先住民の人々による死者を弔う儀式が執り行われる様子が映し出されるのは、作中におけるアメリカ白人男性たちとの「死」に対する見方や価値観の決定的な違いを印象付けるためであるように思えた。先住民の人々は皆ひとつの死に対する悲しみを時間をかけて分かち合うよう感覚を持つ者たちとして描かれるが、主人公であるアーネスト・バークハートレオナルド・ディカプリオ)や彼の叔父で今作における黒幕的存在であるウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を筆頭とする白人男性たちは終始他者(というかアメリカ先住民)らの死を石油の受益権や資産の移動としか捉えておらず、とにかく彼らにとっては金が手元に入るかどうかの問題でしかない。共有するという感覚がそこには存在せず、ひとりで全てを手に入れようとする精神性がギャンブルのイメージとも重ねられるなどしながら描かれていく。

 そもそも、1920年代のアメリカはオクラホマ州において莫大な富を保有するアメリカ先住民の部族 ーオセージ族ー がいたという事実を全く知らなかったのでまずはそこに驚き、さらにそれを富の分配のシステムごと搾取していたウィリアム・ヘイルという白人男性が存在していたということに関してはなかなか信じ難いところがあったが、これは実際にあった歴史上の出来事だ。ヘイルは物語の中盤あたりでフリーメイソンの会員であることに関しても言及しているが、まさにカルト的な方法論において彼が暮らしている街やその周辺地域の人間の強固な信頼を構築してしまっているのは非常に気味が悪いし、これは現代におけるポリティカル・コレクトネス的な価値観が極端なレベルまで進行しているような側面が多く垣間見られるようにもなった近年の北米のウォーク・カルチャーに代表される「正しさ」の暴力のイメージとも重ねられているように思えた。

 ディカプリオ演じるアーネストも作中では例に漏れずヘイルのことを完全に信頼し切っている様子が描かれるが、そこにオセージ族の女性であるモリー・カイル(リリー・グラッドストーン)との損得勘定を(ほぼ)度外視して愛し合える関係性というレイヤーが重なっていく。それによって今作におけるエモーションは3時間半近くの長い時間をかけてゆっくりと増幅していくのが今作の肝なのではないだろうか。欺瞞と嘘によって築かれたシズテムの上で育まれた愛情は果たしてどこまでが真実と言えるのだろうか。例えほんの短い瞬間であったとしても、その欺瞞を食い破る愛はたしかに存在しうるのだとしたらそれはとても尊いことなのであろうし、そういった感情をこそ他者と分かち合えれば本当の意味で豊かなコミュニティというものが醸成されていくのかもしれない。終盤におけるアーネストの「後悔ばかりで、もうすでに悲劇だ(意訳)」という台詞やその後の展開には思わず胸を打たれたが、同時に冒頭から仄めかされていた、先住民と白人男性(ないしアーネストとモリーの間)との決定的な死生観の違いがそこにおいて浮き彫りにもなる。

 ラストショットにおける光景は悲劇的な歴史上の出来事に対する哀悼の意と、それに対しての怒りを暴力ではなく仲間たちと共有することで時間をかけて受け入れていこうとする静かな、しかし同時に激しくもあるアメリカ先住民の人々の慎ましい側面を表しているようであった。

「ザ・クリエイター/創造者」鑑賞後メモ

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 ストーリー自体はとてもシンプルだと思うけれど、細やかな演出の積み重ねによって「人間らしさ」を可視化していく手腕や、ネパール、インドネシア、中国や日本といったアジアの国々を中心とした8カ国80ヶ所にクルーが赴いて撮影を行うことによって生み出された作品内におけるロケーションやルックの豊かさといった要素が133分のあいだ常に刺激を与えてくれた。一般的なハリウッド大作映画の三分の一程度の予算で作られているという情報を前もって知っていたため、なんとなくそういったところは表面的な質感から感じられなくもなかったけれど、むしろ少し乾いたような質感のCGは東南アジアの水田や山奥の風景とマッチしていたように思えた。そこには長年CGクリエイターとしての技術を積み重ねてきた監督のギャレス・エドワーズや、ドゥニ・ヴィルヌーヴによる「DUNE/砂の惑星」でも撮影を担当していたグレイグ・フレイザーによるところが大いにあるのだろう。美しいライティング(特に渋谷で撮影したと思われる夜の街の見せ方が美しかった)、そして細かくレイヤーが積み重ねられているような音響も非常に印象的だった。要は、体感としてものすごく気持ちの良い作品ということでもあるのだと思う。

 「人間らしさ」の描写についてもう少し詳しく書いていきたい。個人的に全編通して常に感動的だったのは、主人公であるジョシュア(ジョン・デヴィッド・ワシントン)やアルフィー(マデリン・ユナ・ヴォイルズ)らに限らず、ほとんどの登場人物たち(AIも含めた)はそれぞれにとっての「平和」のために行動しているのだが、最終的に肉体や精神の危機に陥ると愛する人の存在についての思いが溢れ出てしまう描写が積み重ねられていくところだった。しかもそれは変に長い愁嘆場となって物語の進行を妨げることはなく、スムーズな流れが続いていくあたりも非常に丁寧であったと思う。この描写が繰り返しあることやキリスト教神話的なモチーフの引用などによって、「愛」と「罪」の起源は紙一重の場所に存在しているのだということを端的に示してくれているようでもあった。その場所に象徴的な名前があるとすれば、作品内に登場するノマドという軍事施設ないし兵器の形状が端的に示してもいる「母性」と言えるだろうか。エヴァンゲリオンからの影響を思わせる演出も含まれているあたり、やはり母性はこの作品において大きなテーマであることは間違い無いだろう。アルフィーが幼い少女を模ったシミュラント(模造人間)として作られた所以とも関連していることは作品を観ていくとわかる。

 ベトナム戦争、冷戦、そして911以降のアメリカとイラクの構図などを作品世界の大きな背景としながらも、人間とAI(ないし人間、AI同士)が母性を介して相補的な関係性を築くことを目指す未来について思考するきっかけを与えてくれる作品だ。最終的にはSF大作を観た、というよりは狂おしいほどの「人間らしさ」とそれに対しての愛あふれる視点を孕んだ作品であったという後味が強烈に胸に残る。

私の日は遠い #16

 「豊かな想像力」というものはどこからやってくるのだろうか。シズオはいつも自分の脳みそが渇いているような、潤いが欠落したような状態で生きているようなイメージを日常において覚えることが多かったので、そんな無にも等しい状態から何かが勝手に湧き出てくるようなことは起きないだろうと考えていたし、実際そうだ。何もない。あるのは地味な積み重ねだけ。その先に光るものがあるのかはわからなかったが、少なくともシズオの乾いた脳みそではそこで勝負するのが関の山といったところだろうか。

 

 怒りのような強い感情との向き合い方についてふとシズオは考えを巡らしてみた。歳をとるごとにもしかしたら難しくなるのかもしれない。世の中の状況の変化を見てみぬふりをすることはかえって自分自身を苦しめることになるのだろうし、だとすればこの先自分はどのような方法でそういったものにアクセスするのだろうか。今は音楽や映画、本などを通して世界を見つめていることが多いように思えるけれど、これはいつまで続くのだろうか。もしかしたらこの先もずっとこの方法の延長線上で生き続けるのかもしれないし、場合によっては変化していくこともあるのだろうか、なんて考えてみたりしながら彼はYouTubeの動画を見ていた。

 

 嘘や真実といった観念はあくまでこの世界を見つめるためのレンズのひとつに過ぎないのかもしれず、実際にはその両方が混ざり合っていくつものグラデーションを生み出しているというのが実際のところなのだろうかとシズオは考えていた。この自分の脳みそひとつで認識できることは思った以上に限られていて、どこまでいっても無知な生き物でしかない。それは悲しいことかもしれないが、とりあえずはそれを受け入れ、少しずつでも自分なりの世界へのアクセスの仕方を模索し続けることが大事なのだろうか。血を流さずに、伸びすぎた髪を断ち切りながら日々を紡ぐように。

 

 つまらないことがあまりにも多すぎるので、シズオはある意味ではものすごく必死にどうでもいいことを脳内で考え続けていた。いかにして日常に刺激を与え続けるか、エキサイティングなものが眠っていそうな鉱脈を常に探し続けながら日々を送っていて、それは仕事上の業務をこなすための効率性を全く度外視したレベルで常にそれと並行して行われてもいた。はっきりいって脳細胞の無駄遣いであるような気もするが、なんとなくそうやって過ごすのが彼にとっての日常になっていた。そのようにしてシズオの中でエネルギーの循環のようなものが生まれているのかもしれなかった。

 

 重苦しい日常に軽やかさや刺激を添えるためにはどうすればいいのかということをシズオは常に心のどこかで考え続けている気がした。退屈がなんとなく怖いという感覚は誰しも持っていることが多いだろうけれど、それに対して真剣に争おうとしている人間にはあまり出会うことがない気がする。というか、少なくともそれを身近に感じ取れるような人間はいない。とはいうものの、シズオも特別派手なことをしているわけでもなく、時間があれば映画館に行ったり音楽を聞いたり本を読んだり、といったようなこれまたごくありふれた人間のひとりに過ぎなかった。些細な反逆者でしかなかった。

 

 だらしない日々を送りながらシズオはふと同年代の人間の活躍を目の当たりにしたりもする。彼と同じ二十代後半のラッパーたちが彼好みの曲をどんどんリリースしていく。なんだか不思議な気持ちにもなるが、彼にとってはそれは意外と楽しいことでもあったりした。普段あまり友達と会うこともない彼にとっては、そういった楽曲群を聴くことはちょっとした友達と一緒にいるような感覚に近いものがあり心地よかった。自分という人間がどのようなジェネレーションに属しているのかを肌感覚で理解することもできた。自分自身の輪郭を掴む手掛かりのようなものにもなっていた。

 

 真夜中に目が覚めた時、つい数秒前まで見ていた夢と懐かしい顔を思い出しながら、友達に会いたいのだなと思った。金や、仕事や、人間関係、ついでに自分が苦手な酒なんかを度外視していい関係性を手繰り寄せたいのだろう、と。そしてそれがなんだかもう難しいなとも思った。それを補うためだけの、映画や音楽、そして小説に対しての異常な陶酔。そして、たしかにそれに起因する寂しさに対しての処方箋として恋愛を当てがうのはかなりズレていて、どうりで上手くいかないのだろうなということにもだんだん気がつき始めた。

 いま自分ができるのは、他人に優しくすることくらいなのかもしれないが、それによってなにが返ってくるのか(そもそも、そんなものが存在するのか)を、俺はまだよく知らないようにも感じる。だから、虚しくて、ストレスを感じる。受け入れがたいと感じている物事は、胸の奥に言語化されないまま、まだいくつもあるはずだろう。我ながら、どうやって生きていたのか不思議に思えてきている。

 

 自分の中に未だある子供っぽさはどこからやってくるのかを、少しずつ時間をかけて理解しているのかもしれないとシズオはふと思った。仲のいい友達が欲しい、もしくはすでに仲のいい友達と会いたい。そんなような思いがおそらく15歳くらいの頃からずっと胸の内で消化しきれないまま残り続けてしまっていて、いつしかそれは言語化されない不定形な思い、執念、というか次第にネガティブな腐臭を伴うものに変わり果てていたのを彼は最近ようやっと自覚した

 

 自分が本当に興味があるものはいったいどんなものなのだろうかということを、できる限り多くの映画や音楽などといった創作物に触れてみることで垣間見ようとしているのではないだろうかとシズオは自分自身のことを分析してみたりした。特定のアーティストを追うためだけに、というよりかは自分なりに全体の相関図のようなものを作り上げていくことで自分の中にある気持ちの正体みたいなものを掴もうとしているのだ、と。果たしてどのくらいの時間をかければそれが具体的な形を帯びてくるのかはわからなかったが、少なくともシズオはその過程を楽しんでいた。

 

 少し前に聴いてたバンドの音楽の話を自分より若い人としていた、というのがシズオにとってなんだか不思議なことのように思えていた。聴き飽きた、とまでは言わないものの自分にとっては「少し前まで大好きだった音楽」という認識に落ち着いている音楽をいま現在進行形で追っている自分より若い人、という構図は、まあ、別にそこまで珍しいことでもないのかもしれないが。こういうことが起き始めると歳を重ねてきているのだなと少し実感したり。

 

 自分がある程度好意を抱いている人間が振ってきた話題に対して、本当は大して共感できないということは別にしてとりあえず相手の気分を損ねないように寄り添うような言葉をかけるというようなことがシズオは上手くできた試しがなかったように思えた。どうしても自分の気持ちが少し前のめりに出てしまう傾向があり、それによって相手の話の腰を若干折ってしまうようなことがままあった。基本的にはテキトーなことばかり喋っているくせに、そういう瞬間だけ妙に正直になるのはいったいどういうことなのだろう。シズオは自分が大してモテない理由をその部分に勝手に感じていたりしている。本当にそうなのかは、まあ、知らないが。

 

 自分はどんなラッパーが好きなのだろうか、とシズオはふと考えてみた。といっても、彼がラップ/ヒップホップに括られるような音楽を聴き始めたのはここ数年のことであり、まだまだ知らないこともたくさんあるような状態ではあるのだが、それでも彼なりにある程度の好みが固まってきたタイミングではあったので、改めてここで自分の興味を再確認してそのあたりの認識をはっきりさせたいという気持ちがあった。そういった考えを巡らす中でなんとなく気づいたのは、ラップに限らずどのジャンルの音楽を聴く場合でも最終的に彼が好きになるのはイビツさを抱える音楽であるということだった。あまりに酷いものはもちろん聴きたいとは思わないが、やたらと洗練されたものもそれはそれで彼にとっては聴いていてひどく退屈に思える瞬間が多かった。なので、強いて言えばその中間くらいの音楽で、尚且つ不可解なイビツさ、醜さを抱えているようなものを求めているのかもしれないな、というような考えに落ち着き始めたところでこの問題に関しての興味は徐々に薄れていった。

 

夜にはどうしても眠りたいと思ってしまうのは、朝型や昼間における自分自身の脳内があまりに混濁しきっていて疲れてしまうからなのではないだろうかとシズオは二十代後半である今になって気づいた。夜になると逆にかなり落ち着いてしまうので、何もしたくなくなる。彼にとって仕事をしている日中は(そしてたまには休日においても)なにか強迫観念のようなものに追われ続けているような感覚がつきまとうのだろう。

 

 日常からこぼれ落ちていくような、取るに足らない思いを掬い上げて残しておくために文章を書いているようなところがあるようにシズオは感じていた。ポジティブな感情や楽しい感覚というのはほっといても記憶に焼きついていくが、それと比べるとひどく地味で垢抜けない思いのようなものこそが彼にとっては日常の本質であり、リアルであるように思えるからだ。基本的には毎日がつまらないし、あまりにどうでもいいと思う。そのどうでもよさを彼は、静かに祝福したいのかもしれない。

 

 大袈裟なことはひとつも起こらないし、日常には小さな積み重ねとシュールでどうでもいい事件だけがいくつも存在しているだけなのだというのが30年弱生きたシズオなりの人生観だった。力むほどに空回りをし、適当に手を抜くほどに周りの人間を苛立たせる。このふたつの両極の間を上手い塩梅で揺れ動き続けることで彼なりに世界の均衡を保っているような、そんなところがあった。

 

 ゆっくりと落ち着いた気持ちで陽の光を浴びる、という行為は日常をふつうに過ごしていると意外に達成されていないものかもしれないなとシズオはふと気付いた。仕事の行き帰り、外に出てはいるがリラックスしているとはあまり言えない状況であるように思えるし、休憩時間もシズオ個人としては「飼い殺し」のような気持ちになってしまっているために、とてもじゃないが落ち着いた環境とは言えないだろう。休みの日、映画館までの道のりでシズオはしばしば休日の「カラッポ」な感覚を思い出す。なにもない、空気と鉄と青い空、もしくは雲か雨だけが存在しているような、静かに虚しい永遠の宇宙がそこにふと思い出されるのだ。

 

 小さな別れは静かに、そして突然やってきたりする。特別親しいわけでもないけれど割と世話になるひと、というのは意外とたくさんいて、そういった方たちに対してそれ相応の挨拶ができた試しはあまりない気がした。なるべく多くの人に優しくできたらとシズオはいつも思うが、社交辞令のようなフォーマルな挨拶が苦手な彼はいつもどこか舌足らずな感覚に最後は囚われて、なし崩し的に別れの挨拶を終えるようなことを何度も繰り返した。ひとを大切にするとはなんだろうか。それは彼が思う以上に痛みを伴うものであって、自らの心を引き裂いてそれを火に焚べて生まれるわずかな温もりを他人に分け与えようとするようなことを言い表しているのではないかと、そんなふうにも思えてくる。

 

 小さなモニター越しに幾つかの世界を垣間見ている。そんなような感覚をスマートフォンやパソコンなんかを通してシズオは感じていた。だだっ広い世界を狭いレンズから覗き込むような、偏った体験を何度も繰り返しながら自分だけの世界像やレイヤーを徐々に積み重ねていくのが生きる意味のひとつであったりするのかもしれない。何かを知ったつもりになってもすぐになにも知らないことを知る。その繰り返し。と、なんだかみょうに堅苦しい内容をシズオは書き出してしまったが、実際のところはただ眠いだけで、要は疲れていた。

 

 心が揺れ動き続けて定まらないような状態はとても疲れるなとシズオは思った。人の心なんてわからないものであるということはあまりにも分かりきったことだろうけれど、現実にはあまりにもそういったことが多すぎて心がすぐに許容範囲を追い抜かれてしまう。ただ取り止めのないような日々を過ごしているだけなのに、それでへとへとになることはしばしばある。スッと、自分が一番思っていることを伝えたり、分かりやすい言葉で胸の中を切り取ることができたらな、と彼はよく思う。

 

 休日ではあったが、なんだか疲れていてシズオは結局日がな一日なにも特別なことはせずにただのんびりと過ごした。それでもいいと思えるほどに疲れていたし、最近は映画やら音楽もたくさんリリースがあってそれらを追うのにも少し辟易としていたところもあったのでちょうどいいといえばちょうどよかったとも言える。むしろ最近は、こうした「何もなさ」こそが自分の日常や人生そのものであるのではないかとすら考えていたりする。ただひたすらにシュールで、訳のわからないことが多々起きる日々をゆるやかに受け止めるための、シズオなりの世界の見つめ方でもあった。

「熊は、いない」鑑賞後メモ

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 正直にいうと、中盤あたりで眠たくて何度か目を閉じてしまった。朝から快便で気分が良かったからとか、劇場内の空調が程よい加減だったからとか、珍しく近くに変なお客がいなかったからとか作品とは関係ないレベルの要因も色々あったような気はしているけれど。まあ、それはそうとして、作品自体は結果的には観て良かったと思っている。

 ジャファル・パナヒ監督はイラン社会に関するジャーナリズム的な作品を90年代から撮り続けているが、2010年にイラン政府から「国家の安全を脅かした」として20年間の映画制作と出国を禁じられる。しかし、そんな状況下の中でも極秘裏に制作を行いながらいまでも映画監督としての活動を続けている。

 そんなパナヒ監督の最新作「熊は、いない」は終始ドキュメンタリー的なトーンでありつつ、まるで気軽にカメラの置き場所を決めて自身の生活を撮り溜めているかのようなカジュアルさ、軽やかさのようなものまで感じられた(だから眠たくなったのかな)。作中で巻き起こる出来事自体は最終的に非常にシリアスな顛末を辿るものの、極端なしんどさを観客側に浴びせるようなところはないので肩の力を抜いて観ることができる。ストーリーラインを簡単に説明すると、イランのかなり保守的な政治ないし宗教思想がベースにある田舎の村を舞台とした若い男女の悲劇にパナヒ監督が思わぬ形で巻き込まれていくというようなものになっているのだが、こうした出来事を通してイラン社会のひとつの側面がはっきりと浮き彫りになっていくと同時に、ある種世界全体を覆うネット社会におけるダークな側面のアナロジーにもなっているようにも思えた。宗教をはじめとした神秘主義的な思想と、本来はそれと対をなすはずの唯物主義的なそれとが現代、ことイランの一部の地域などにおいてはごちゃ混ぜになって人々の思考が撹乱されてしまっているのだという構図が示されており非常に印象的だった。あともうひとつ、冒頭のショットからパナヒ監督がいる部屋のショットにスライドしていくまでの流れで今作の入れ子的な構造を視覚的に示すことでラストショットがまるで我々の現実と完全にシンクロしてしまうかのような効果を生み出していたように思えるし、実際その瞬間における緊張感を通して映画というアートフォームが持つ腕力のようなものを再認識させられた。

「兎たちの暴走」鑑賞後メモ

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 シェン・ユー監督長編デビュー作である「兎たちの暴走」のフライヤーに記載された作品紹介文において「母と娘が娘の同級生を誘拐した2011年の実際の事件から着想を得て映画制作に取り組んだ」と記載されているように今作は実話ベースのものとなっている。しかし、実際に作品を鑑賞してみると、真夜中の工業地帯や昼間の住宅街、建築物の質感をフェティッシュに切り取るかのような撮影や黄色を基調としたカラーコーディング、そして主人公らの隠れ家的な空間として使われる無人の舞台劇場など、観客の意識を現実からゆるやかに浮き上がらせるかのような映画的なモチーフがいくつも視界に飛び込んでくる。それらは今作が描くシリアスな物語を、しかしどこか優しさを感じさせるようなタッチで包み込み我々に提示してくれるようであった。

 なぜこの作品に先述したような「優しさ」が伴うのか。それは、この作品が後悔についての物語であり、それを真っ直ぐ見つめ直すことで受け入れようとする過程そのものを浮かび上がらせるかのようなところがあるからだというように思えた。「見つめ直す」ということをもう少し具体的に表現すると、どうしてひとは(この作品においては主人公である高校生の女の子シュイ・チン(リー・ゲンシー)や彼女の実の母であるチュー・ティン(ワン・チェン)ら)過ちを犯してしまうのか、その行動の動機となった心の動きはどういった思いに起因するものであったのかをきちんと整理し、認識し直すということだ。

 本編の中盤に当たる場面で、チュー・ティンが運転する黄色い自動車にシュイ・チンとそのクラスメイトであるジン・シー(チャイ・イェ)とマー・ユエユエ(ヂォゥ・ズーユェ)らが乗り込んで真夜中のドライブに繰り出す解放的なシークエンスがあるのだけれど(車の窓を開けて身を乗り出し、雨と光にさらされるシュイ・チンの笑顔に落涙)、ここにおいてとある象徴的なポップソングが劇伴として流れ始める。この楽曲のリリックにおいて、時間や空間の制約から解き放たれた「過去も未来もない世界(意訳)」というフレーズがあり、これがまさに映画という時間芸術が持つ、観客側の空間ないし時間感覚を拡張していくような特性や構造を指し示すものになっている。ここでのそういった要素は先述した過去や後悔を見つめ直すという今作の主題にも絡んでいて、ラストショットの解釈にも大きく関わっているように思える。実際、この作品は解釈の余地を残した演出が多く、鑑賞し終えてしばらく時間が経ってから「あの時の発言や行動にはそうした思いが秘められていたのか」と気付かされる。鑑賞後の時間感覚にも影響を及ぼしてくるほどの、さりげないけれどたしかな腕力が今作にはある。

 主人公のシュイ・チンが劇中において何度も灯すライターの火の色は、ポスターアートを見ればわかることでもあるのだけれど、チュー・ティンが乗る自動車、そして「戻りたい過去に戻るための装置」として描かれるトンネル内の照明の色と同じであり、摩擦を起こして火を起こすライター自体の構造も含めて今作のストーリーラインを示すアナロジーやモチーフとしても非常に印象的だった。そのほかにも、作品を見終えてから工業地帯のショットを思い出したとき、それがまるで欲望の赴くままに動き続けることで後悔の念を生み出し続けている装置のようにも思えてくる。それはシェン・ユー監督の出身である中国という国が現代においてどのような存在であるか、そしてそれが属する資本主義社会全体に対しての言及としても受け取ることは可能だろう。また、冷たさや物悲しさを滲ませるような鉄や建築物の質感は、まるで人間の肉体や心をこの世界に重く縛り続ける楔のようにも見えてくる。

 終わり方が美しい映画だと思う。シュイ・チンがどの位置にいて、どこに向かって語りかけているのか。その構図自体が端的にこの作品が生み出された意味を物語っている。時間は傷以外を癒す。それなら、その傷にせめてもの祝福を。