「窓辺にて」鑑賞後メモ

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 劇中のセリフの中で一度だけ村上春樹の名前が出てくるが、「ねじまき鳥クロニクル」でも10代の女の子が30代の男性と共に行動していたよなあとぼんやり思い出す。しかし、この作品の主人公は浮気をする妻を必死に追いかけるようなことはしない。窓の外に広がる景色をその内側からそっと見守るように日々を過ごし、その中で出会う人々との緩やかな繋がりを確かめながら自分自身の中に根ざしている「静けさ」のルーツを辿ろうとする。

 子供の頃にはスマスマで毎週見ていた稲垣吾郎の顔を久々にじっくり見ると、さすがに歳を重ねたんだなあという感じで序盤はずっとそんなような感慨に浸っていた。それでも彼の人柄というか演技から滲み出る、少し隙のあるようなゆるさは相変わらずで、それは最初から最後まで見ていてとても心地よかった。非マッチョ的な男性像、というかただただ稲垣吾郎稲垣吾郎のままでいるだけであって彼自体は国民的スターなわけだけど、今泉力也による前作「街の上で」において若葉竜也が演じていた主人公よりも個人的には親しみやすさを感じることができたし、不意に口から漏れる「あっ」というちょっとした声や同じ言葉を2回繰り返して言うようなところ、フォークで一口大に切ったケーキを一瞬取り損ねるところなど細かな所作のチャーミングさはなかなか誰でも醸し出せるものではないだろう。

 悩んだり迷ったりする日々といったような、まだ心がどの形にも固まり切っていない不定形な時の中を過ごす人間の物語を今泉力也は常に描いてきている。また、そういったタイミングで人間を突き動かしているのが誰かやなにかを思う気持ち、すなわち「好き」という感情であると言及されるわけなのだけど、その着地も常に一筋縄ではいかないのも今泉監督作品の魅力のひとつだろう。というか、「着地」はいつもしていないようにも思える。それは「mellow」ラストのショットで映される飛行機のごとくずっと宙に浮いたままで動き続けている。結局は何も成長していないような気もしてくる。が、この世界を見つめる角度を少しだけ変えることは出来る。そこにこそ変化していくための道筋が開かれ、生活の意味が宿るのかも、と。

 自分は誰かのために何かの役割を果たすことが出来ていないのではないか、何もしてあげられていないのではないかということを稲垣吾郎演じる市川茂巳が口にする場面があるが、むしろこの物語は彼が中心の軸として存在していることで進行している構造になっているため、彼の存在こそが最も重要なピースのひとつではあったりする。妻である紗衣(中村ゆり)や友人の正嗣(若葉竜也)、作家の久保留亜(玉城ティナ)らとのやりとりが幾重にも重なることで茂巳の日常は過ぎていくが、その中でふと、喫茶店でひとりになって窓から降り注ぐ光をグラスの水に透かして見つめている瞬間にこそ彼はこの世界との最も適切な距離感を見出すことが出来ているのではないだろうか。本編冒頭とラストにおけるそのショットに主人公自身の「好き」という感情そのもののピークが宿っている。

専門的でない、気軽に書き流した文章 Vol.3

ありえない曲名シリーズ

 

ナヨン Wretched feat.Earlsweatshirt

北島三郎 Time Goes By feat.大門弥生

福山雅治 STFU feat. Rico Nasty

ソニン The Girl with Curry and Rice Remix feat. JP THE WAVY, YZERR, ¥ellow Backs

鈴木雅之 Don't Say That feat. Chris Brown

西野カナ with 灰野敬二 The Class is Dismissed

天童よしみ FAKE LOVE AGAIN feat.Roddy Rich

新垣結衣 メシ喰うな!(cover)

little glee monster ソニー損保 Remix feat.Slowthai, James Blake

さとう珠緒 Hit Different feat.J Hus

ヒロミ All I WANT feat.カイヤ

吉幾三 Back in the Day feat.T-Pablow

 

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ジャズとレゲエをこれからは聴いていったらいいんじゃないか

 

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New Jeansに加入したい

 

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「純粋な喜び」のようなものを歳を重ねても感じ続けられるようにいることは、実はかなり難しいことなのではないかなと思う。音楽にしろ映画にしろ文学にしろ常に新しいものをインプットして感性を磨き続けていかなければいけないから。シンプルかも知れないけれど途方に暮れそうになる。瑞々しい感性はお金では買えなくて、地道に時間を積み重ねていくことで重層的になっていくものであると思うし。そして、なんでか知らないけれどこういうことを急に真面目に考え出す自分がいる。何かアート関連の活動をしているわけでもないのに。そういう努力をし続けている人って実際どれくらいいるのだろう?新しい価値観を受け入れられなければそこで自分の中での時間が止まってしまう気がするから怖い。「愛」とか「家族」、「男性性」のようなものに対する価値観が異様に陳腐で古臭い人の話を聞くとうんざりするようになってきてるような気もする。これはもう映画とか批評にかぶれすぎてる気もするが。自分もまだ上等な言葉でそれらを語る能力にはひどく乏しいと思うけれど、せめて想像し続けていたい。本当に大切なもの、少なくとも自分にとってのそれは今まで出会った人から受け取った優しさとか思い出みたいな本当に儚いものばかりだなという実感があるから、それを忘れないためにも感性を研ぎ澄ませていたい。

 

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春ねむりはNINE INCH NAILS

 

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俺は「雪の宿」みたいな存在になりたいのかもしれない。

少しひっそりとした場所にあって、誰でも好きなときに訪れ、また離れていくことができる、そんな存在。

自分から無理やり近づいたり、何かを積極的にけしかけるようなのは性に合わないのかなと思う。

だからこそ、常に何か新鮮な素材を用意しておいたり、快適なもてなしをできるようにスタンバっておきたいのかもしれない。

 

私の日は遠い #12

 真昼のジャングルにそびえたつ名前も知らない高い木々たちはまるで摩天楼のように遥か上空から汗をかいた夏樹と隼人を見下ろしていた。涼しさという概念が天まで吸い込まれていってしまったかのような暑さに加え意味不明な湿度の高さを誇るこの場所において夏樹たちはもはや呼吸をすることすら億劫に思え始めていた。普段何気無く手に取っていた冷えたコカコーラの2リットルボトルを今すぐにでも抱きしめてやりたいと夏樹は思わずにはいられなかったし、たまにコップに注がずにそのままボトルに口をつけて飲んだりしたことを急に悔やみ始めたりしていた。知らない間に身内の間接キスをかまされる家族に3ミリ程度の同情を捧げようとしている夏樹の横を歩く隼人はあまり表情を変えずに淡々と歩いていたが、それでも額には汗が浮かんでいた。

 「あともう少しで休憩が取れそうな場所にたどり着けるはずですので、頑張りましょう。慣れていない人には大変な道のりですからね」

 ジャングルの案内人であるサンファさんが穏やかで涼しい表情と声で夏樹たちを気遣う言葉をかけてくれた。おそらくアフリカ系の血を引く彼は透き通るような漆黒の肌の透明度を崩すことなくスイスイと道なき道を進んでいく。まるで近所の河原を散歩しているかのような気楽さすら感じさせるほどにその歩みは軽やかだった。それに対して夏休みの間ぐうたらしていた夏樹の足はもう100年くらい前からオーバーヒートしていた。いまならこの足裏でお好み焼きでも焼けるんじゃないかなどとくだらないことをボヤけた意識の中で考えながら夏樹はフラフラと歩いていた。

 「これだけ意識ボヤけてたらさ、もし今ここで拳銃拾ったらキツすぎて頭ぶち抜いちゃうかもしれないね」

 気がつくと夏樹はそこそこ不謹慎な冗談をニヤニヤしながら口にしていた。前を歩いていた隼人が振り返ると、ちょっと心配そうな顔をしていて夏樹は何故か嬉しくてほんの少しだけ泣きそうになった。しかし、「お前も素直じゃないな」と言うと隼人は思ったよりも早く前を向いてしまったので、夏樹は「ほら、拳銃あったよ!どーん!」とバカでかい声で叫んでみた。すると、今度は無視されて振り返ってくれなかったので夏樹は逆に少し元気になってきた。

 「なんだよ、隼人くんも疲れてんじゃないの〜?」とからかうように夏樹は隼人の後ろからまた声をかけた。

 「…そりゃーそうですよ」と抑揚のない調子で隼人が返す。

 「そもそもさあ…なんでこんなとこ歩いてるんだ、俺たちは?」と隼人。

 「それはー、私たちがきっと…多くを望みすぎたから?」と夏樹が返す。

 「なんかまたエラく哲学的なこと言うね」と言うと隼人はふう、とため息をついた。

 「冴え渡ってんのよ、私の脳みそは今。この天然美顔器みてえな湿気のせいでね」

 「美しくなれたらいいな、この旅路の果てに」

 「何言ってんだあんた。いつから目悪くなったんだ?」

 そう言うと夏樹は両の手の人差し指と親指で輪っかを作り眼鏡のように目元に押し当て、ニヤニヤしながら隼人の背後にそそくさと近寄っていった。

 「変なタイミングで元気出るよな、お前は」と隼人は振り返らずに歩きながら呆れた調子で返した。その横顔は少し微笑んでいるようだった。

 「こんなに訳わからないような場所いてもそれだけ元気なら、世界が滅びる時でも楽しく過ごせそうだな。夏樹となら」

 夏樹はぼんやりとした意識の中で隼人が不意に発した言葉をひとつずつ拾い集めるようにゆっくりと反芻した。思った以上に素直な言葉に彼女は少し驚いた。

 「…そうだよ、私なら照らしていけるからね、未来も」

 照れ隠しでぶん投げるように夏樹がそう返すと、隼人は少し口籠るような感じになった。

 しばらく歩いてから、「今、ちょっとやっぱり水族館にしとけばよかったなって後悔してる」と彼は言った。

 「まあ、ジャングルで訳わからん鳥の鳴き声聞くのもありっちゃありってカンジじゃない?」と夏樹は返して、しばらく隼人の横顔を眺めた。なにか言いたいことを上手く言葉に出来ずにいるような、戸惑いの表情が見えたように彼女には感じられた。

 そこで急に「お二人とも、見えてきましたよ!」というサンファさんのよく通る声が聞こえてきて夏樹たちはハッとその方向に意識を向けた。そこには相変わらず落ち着いた柔らかな表情で休憩地点の小さな丘を指差すサンファさんの姿があった。「さあ、もう目の前なので頑張っていきますよ〜」という呑気な声の響きは夏樹からするとどうしてもジャングルの中を数時間歩いた人間の声とは思えなかった。

 

 丘の上には扉が突っ立っていた。まるでモノリスのように薄い長方形のそれが地面からニョキッと生えているようで、なんだか異様な雰囲気を醸し出していた。遠足気分でおにぎりでも食いながら休憩がしたいと考えていた夏樹の脳みそはその光景を正確に処理するまでに割と長い時間を要した。夏樹よりはなんとなく飲み込みが早かった隼人は静かな声で「扉があるね」と呟いたが、それからしばらくは誰も何も話さなかった。

 

 「よかったら、開けてみてもいいと思いますよ」と何故かサンファさんは笑顔で訳のわからない意見を口にしてくれた。夏樹は返答に困り、3人で輪を描くように座っている状態ではあったもののとりあえず聞こえなかったフリをした。

 「これって、どこかに繋がってるの?ただのハリボテじゃなくて?」と隼人が代わりに反応してくれた。

 「それは…開けてみないとわからないですね」とサンファさんがここでは珍しく神妙な面持ちになった。

 「あなた、なにか知ってるようね?」と夏樹はここで図々しく突っ込んでみた。

 「知っているといえば知っているのかもしれませんが…こればかりは心と体で体感していただかないと分かりにくいかもしれません」

 そういうとサンファさんは水筒のカップに水を注いでそれを一口でグイッと飲み干した。ゴキュっと喉が鳴る音がした。

 「…この世界って、一体どんな場所なんですか?」と隼人がサンファさんに聞いた。もっと早く聞いといてもよかった質問だな、と夏樹は思った。

 「まあ、パッと見た印象は奇妙なものだったかもしれませんが、おそらくはあなたたちが住んでいる現実世界とそんなには変わりないです」とサンファさんはキッパリと言い切った。

 それに対して、いや、そんな訳あるかと隼人が珍しくスピーディなツッコミを入れた。

 「気づいたらジャングル歩いてるなんてこと、現代日本じゃ絶対ないから」と隼人。

 サンファさんは腕を組み「ふむ」と何やら考えるような姿勢になった。丘の下からは何かの動物がジャングルの中を駆け抜けていくような音が聞こえた。本当に得体の知れない場所だった。

 「私にとっては池袋駅の地下もジャングルみたいなものでしたよ。要は、めちゃくちゃ、ということです。どうしてこんな世界がいつの間に出来上がったのか、それについてのもう少し詳しいヒントがあの扉の奥にはあるかも知れませんよ」とサンファさんはそっと扉を指差した。

 夏樹と隼人は座ったまま互いに目線を交わした。サッパリわからん、ということで無言のうちに合意に達し、そのまましばらく座り込んだままでいた。

 

 

続く。

「アフター・ヤン」鑑賞後メモ

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 繰り返す日常と毎日見る同じ景色、そして自分自身の意識という狭い覗き窓からそれらを感じとること。それが生活という名のリズムを生み出している。

 同じ屋根の下に暮らす家族であっても同じテンポで振り付けがピッタリと重なり合うように踊り続けることは難しい。その美しい瞬間は儚い幻のようでもある。それでも手繰り寄せようとする意思が人間には備わっている。まるである種の呪いのように、目に見えないものを追求し続ける。まだ言葉でどう表せば良いのかわからないものに、いつか形を与えるために。

 AppleTV +のドラマシリーズ「パチンコ」はかつての朝鮮半島における日本の植民地支配という、日本人にとっては省みるべき非常に重大な意味を持つ歴史的背景をベースにしながらも主人公のソンジャをはじめとする登場人物たちの母性的な包容力や寛容さを思わせるような柔らかなトーンでまとめ上げることによって、まるで喜怒哀楽全ての感情が混ざり合ったかのような感覚に触れさせてくれる作品であったが、「アフター・ヤン」においてもその技巧は健在である。しかし、「パチンコ」のそれとは少し違ったものではあった。ゆったりとしたテンポ感とリアリズムに徹したトーンアンドマナーで進行する作品ではあるが、時代設定はおそらく数十年は先の未来であり、SF映画の様相を呈してもいる。しかしそこで描かれる感情の機微は普遍的なものであることは間違い無いだろう。作中の登場人物たちが抱える先行きの見えない不安や悲しみと何かが新たに始まる予感が同時に存在するような感情の揺れ動きは途轍もないリアリティを伴ったタッチで我々の心に触れる。

 人を特別たらしめるのはその人を見つめる誰かの眼差しであり、その孤独で細いレンズが反射する光はときに他者の見つめる景色に鮮やかな彩りや意味を添える。その無数の重なりが誰かにとっての生活の意味であり、リズムである。その虚像を見つめるたびにこう口ずさむ。”I wanna be…”

 最も遠い場所へと離れた瞬間に今まででいちばん近くに感じることが出来るようになるものが存在するということ。それはまるで、広い夜空に隣り合う星たちのように。

「MEMORIA メモリア」鑑賞後メモ

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 まるで仙人のような映画だ。説教を垂れるのではなく、そこに進むべき道があること、いや、もうただゆっくりと思うがままに歩んでいけば良いのじゃと言わんばかりに我々を静かに「物語」へと誘ってくれる。それは至高の体験と呼んでもいいかも知れない。まるで最高品質の鍋と出汁が始めから用意されていて、あとはお好みの肉や野菜を好きなペースで入れては食べられる店のようというか、そもそも座るソファやテーブルの材質から選ばせてもらえるようなそんなレベル(それは逆に面倒臭くないか?)。まあ、要は全編に渡ってとにかく映像と音の快楽に溺れることが出来る。なのでまずはみんな観てみよう。

 さて、いきなりやたらと褒めちぎってしまったが、逆にはっきりとした筋書きや派手な展開を求める人には向かない作品なので、ある意味好き嫌いの分かれやすいものではあるかも知れない。(駄目だった人は「サイバーパンク」か「リコリコ」を観よう)

 本編冒頭、薄明かりがカーテンから透けている寝室が映される長回しのショットでこの作品の基本的なテンポ感がなんとなく示される。非常にゆったりとした作品であり、それでいて情報量は多いということを数分間に渡る寝室を中心とした場面のみで示す手腕のスムーズさに始めからシビれる。その予感が裏切られることはない。病室やレコーディングスタジオでのやりとり、また交差点でのとある出来事を映した場面から示唆されるのは、この作品が一人ひとりの物事の捉え方の違いを描くものであるということだ。同じものを聴いたり見たりしているけれどそれを通して感じていることや考えていることは全く異なっている。それでもその感覚を誰かに可能な限り正確に伝えようとする行為の尊さを描いているし、まさにこの作品自体がそれに対する一つの試みであることは間違い無いだろう。

 「伝える」という行為において鍵となるのは記憶だ。聞き手の記憶に共振するような伝え方をすることでより具体的な理解を目指す。それは映画というアートフォームが観客に感動を与える構造とも合致する。他人の心に直接触れることは不可能だ。作品の後半に登場するある男が「眠る」姿によってそれをまさに体現しているようでもあった。それに対して作品内において人々の間の架け橋となるのが「音」を通して示される物語だ。ミュージシャンたちによるセッションや終盤での主人公たちのやり取りがそのモチーフになっている。「妄想の深淵」において、人々は指先ではなく波動によって誰かの心に触れることを試みている。

 そしてさらにこの作品の凄みは、物語という形式の根幹に普遍的に宿る感情にまで深く潜り触れようとしているところにある。作品終盤において、物語とは痛みだというひとつの見方が提示される。主人公が抗不安薬の処方を医師に求めた際に「そういった薬は共感力を失くす」という旨の台詞が返されるのは物語による共振のメカニズムの根幹に痛みという感覚が存在していることを示すためでは、と考えている。生活において避けがたく存在する様々な不安や痛みはときに我々を容赦なく追い詰めるが、それらは共感力、エンパシーといった能力に転化することも可能であり、他者をサルベージするための鍵になり得るという希望がここにあるのではないだろうか。

 とまあ、色々書いてきたが、こういった主題に沿って他にも不思議なポイントがいくつもある映画だ。複数の自動車の警報装置がなんの前触れもなく作動して不思議なアンサンブルが始まったり、ティルダ・スウィントンvs野良犬という謎の構図が拝めたり、急にどこかに消えてしまう人がいたり…しかもなにげにユーモアのセンスもバリ高くてちょいちょい笑える箇所がある。恐るべし、アピチャッポン。

 ラストのとあるトンデモ演出も含め、やはりあくまで「触れざる領域」がそこにはある。それでも1日のうちの2時間16分をこの作品のために割いて物語に深く潜る価値は十二分にあると言えるだろう。その深淵に響く「あなたにしか聞こえない」波動にそっと耳を澄ましてみればいい。

私の日は遠い #11

 朝から雨が降っていた。普段よりも落ち着いた空気の中を涼しい風が通り抜けてきて、ベッドで横になっていた達夫の肌をスッと撫でた。朝食まではまだ少し時間があるからということで、彼はしばらく寝転がりながら濡れた窓と景色を眺めていた。それは達夫にとってなかなか快適なひとときだった。まるで曇り空のグレーに自分の心を浸して潤いを取り戻していくような感覚を彼は覚えていた。どこまでも満たされて透き通るイメージと共にゆっくりと深呼吸をすると、近所のコンビニで雑誌を立ち読みしながら涼むことを夏の喜びだと信じていた小さな自分が少しずつ蜃気楼のように遠のいていく気がした。

 達夫は自分が寝ている部屋を見回してみた。寝室だけで一般的な一人暮らしの部屋よりもデカかったし、家具はどれも無駄に黄金でピカピカしていた。コカコーラを飲むために借りたグラスでさえ王者のような輝きを放っていて達夫はもはや気後れするような感じすらした。ドレイクとかビヨンセぐらいになれば現実でもこういう家に住めるのだろうかとくだらない妄想も浮かんだ。

 オグレの屋敷でしばらく過ごしても達夫には彼が一体何者なのかはよくわからなかった。二人で食事をとったりバカでかい庭でテニスに興じてみたり、大浴場で同じ湯船に浸かったりもしてみたが肝心なことがボヤけているような気がしてならなかった。いつも微笑んでいて余裕がある様子でくつろいでいる彼はただのんびりしている人にしか見えない時もあるが、どこか技巧的というか作り物を見せられているようでもあった。風呂に入った時もなぜか湯けむりが濃いように感じられて彼のモノのサイズ感も達夫は確かめ損ねていた。それがなんだか妙に悔しかった。とにかく色々と快適ではあるが、常に小さな不安が胸の片隅に張り付いているような心地のまま出来の悪い夢の中でくつろいでいる、そんな感じだろうかと達夫はさっき鼻から引き抜いた長めの鼻毛を静かに眺めながら思った。

 

 しばらく後になってメイドの女性が朝食の準備が出来たことを知らせに来てくれた。年の頃はたぶん23歳、とかその辺りだろうかと思われるその細身の女性はこれまたオグレと同じく常に微笑みを表情に纏っていたが、そこに温度感はあまりなかったためどうしても得体の知れないところがあった。それでも、基本的にはずっと良くしてもらっていたので達夫は素直に彼女に礼を言った。何日か前に彼女が部屋を訪ねてくれたとき、部屋に常備されているチョコレート菓子を彼女に勧めてみたのだが、やはり丁寧に断られた。今後、彼女との距離感がふとしたきっかけで縮まることもあるのだろうかと考えながら、そのひとがドアを閉じて去った後で達夫は服を着替えた。

 食堂までの無駄に長い廊下や階段を、特に急ぐ必要もなかったので達夫はゆったりと歩いた。

 屋敷内の通路はほぼ全て赤い絨毯が敷かれており、足を踏み込むとふわりと柔らかな弾力を感じることが出来た。達夫にとってそれは訳がわからないレベルのホスピタリティ精神であり、この親切さを全人類に均等に配分出来れば忘れかけた大切な感情を取り戻し始める人々も増えるのではないだろうかと思われた。

 階段を下り食堂がある階に向かう。すると、降り切ったところでオグレと鉢合わせた。すっかり見慣れた微笑みと共に軽い会釈を寄越してきたので達夫も適当に軽く頭を下げて反応した。それから、二人で並んで食堂まで歩いた。

 「昼にはあがるらしいですよ」とオグレは言うと視線を窓のある方に向けた。相変わらずパタパタと雨粒が弾ける音がしていた。

 「マーサさんも顔出しに来るかな?」と達夫。

 「まあ、天気予報の通りになれば来るのではないでしょうか」とオグレが返す。

 「中世ヨーロッパ風の屋敷に住んでるくせに天気予報はチェックしてるんだな」

 「便利ですからね、そういうテクノロジーには頼っていきたいものです」そう言うとオグレは手首に巻いてあるスマートウォッチのような装置のモニターに目をやった。

 「とは言うものの、いつチェックしても私の体調には数値的な変化がなかなか訪れないので場合によってはただ鬱陶しいだけですね。少し落ち着きすぎなようです」

 「お前はガジェットマニアか何かなのか?」と達夫が尋ねる。

 「こんなところに住んでおいて難ですが、そういう側面はあるのかも知れないです。あるいは単にミーハーっぽいのかも、なんてね」とオグレはいたずらっぽく笑ってみせた。

 「俺も大人になってからはテレビゲームやるのに興味ないんだけど、最新のゲーム情報とかチェックするのはなんか今だに好きなんだよね。それみたいなカンジ?」

 「なるほど、そういう感覚があなたにもあるのですね。つまりは子供の頃の習慣が今だに心身に染みついたまま、ということなのでしょうか」

 「オグレの子供時代なんて想像しにくいな。母ちゃんの腹の中から出てきた瞬間からそうやって微笑んでそうだもんな、お前」と達夫は冗談めかして言った。

 ふふふ、とオグレが小さく笑う表情を達夫は横で眺めていたが、透けて見えてきそうな彼の過去の幻影はそこにはないように思えた。

 そうして見つめる視線に反応するようにオグレがふっと達夫の方に顔を向けてきたので彼は少しドキッとした。

 「もしくは、交信していたいのかもしれないですね」とオグレが何故かさっきよりも少し落ち着いた響きでポツリと呟いた。

 しばらく反応に戸惑った後で、達夫は「…それは誰と?」と返した。

 すると、オグレは再び前に向き直ってから言った。

 「夢、ですかね」

 オグレが真面目なのかふざけているのか達夫は捉えかねて、思わず立ち止まってしまった。

 数歩先の方まで歩いたオグレがそれに気づいてゆっくりと振り返った。

 「訳のわからないことを話してしまってごめんなさい。好きなんですよ、こういうこと考えるのが」

 さあ、食堂はもうすぐそこですよと言いながらまた歩き出したオグレの後を追うように達夫もまた歩き出した。湯けむりでボヤけたオグレの股間のことを思い出しながら。

 

 

 

続く

「ザ・ミソジニー」鑑賞後メモ

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 高橋洋監督による前作「霊的ボリシェヴィキ」において描かれていたのは人間が触れざる領域や力とのすれ違いであったと思う。直接的にはっきりと目にしたり手に触れることはほとんどないが確かに存在していることだけはなぜか確信出来てしまう、言葉では説明できない何か。各登場人物の体験をそれぞれの語りのみで描くことでその言葉に出来ない感覚を倍音の如く増幅させ、あまりにも奇妙な、しかしそれでいて無駄なく研ぎ澄まされた降霊の儀式をカタチにしていた。それに対して最新作である「ザ・ミソジニー」はそもそも人間の中に存在している触れざる領域を「神秘」として描いている。

 そもそもミソジニー、つまり女性蔑視という感情自体が人間に特有の屈折した感情だ。あまり専門的な知識はないが、個人的にはこの感情は母性的な愛情を強く求める感覚と分かち難く存在しているのではないかと考えている。劇中の「母娘」の描写の如く互いに愛情のピースを嵌めることが出来ないことに強い苛立ちを覚えると同時に、無意識に理想的な母性に執着し続けてしまうことでマグマのように噴き上がるどす黒い感情なのではないか。だからこそイメージ通りの型に当てはまらない(つまりは「理想の母」以外のすべての)女性たちを憎むことになる。これは「神秘」というよりは「地獄」であるかも知れないが、人間として生きていく上では誰もが避け難い領域であるはずだ。たとえ論理的な理解が可能であったとしても、だ。

 ミソジニーについて語られるとき、男性が持つそれについての話になることが多いとは思うが、この作品においては「母」と「娘」の関係性を通して語られる。「男は死んでも何もないが、女は流した血の量に比例したダークな感情を抱えて蛇に生まれ変わる(ちょっとうろ覚え)」という劇中での言及が、男性原理主義的な社会構造に起因する怨嗟の連鎖に絡め取られ続ける女性性のひとつの側面を端的に表していた(もちろん人によってその感覚は異なるとは思うが)。

 世界を取り巻く既存の構造から抜け出しきれない人間の愚かさ、執着の強さがミソジニーの根源にある。「すべては神秘に始まり政治に終わる」ことは、ある種の地獄であるのだろうか。

 それでもこの作品が最後に二人の女性が互いに手を振り合うショットで終わるのは、あくまで人間が持つ神秘性を肯定したいということだったのではないか。一方が手を振り、それに反応して相手も手を振ってみるというあまりにも単純な言葉を介さないやりとり。まるでふたりはこの混沌に塗れた世界において友達同士のように励まし合っているふうにも見えた。

 いくつドアを開いてもまともに把握しきれない領域が無数に存在し折り重なるこの世界の中で、それでも人間はときに途轍もない執着心と共に「見えないもの/触れざるもの」を呼び起こそうと力を尽くす。その姿は俯瞰して見るとクスッと笑えるほどに奇妙なものであるのかも知れないが、そこに魔があり神秘もある。それを映画というアートフォームを通して表現しようとする人々がいるということが、とても素敵に思える。