私の日は遠い #12

 真昼のジャングルにそびえたつ名前も知らない高い木々たちはまるで摩天楼のように遥か上空から汗をかいた夏樹と隼人を見下ろしていた。涼しさという概念が天まで吸い込まれていってしまったかのような暑さに加え意味不明な湿度の高さを誇るこの場所において夏樹たちはもはや呼吸をすることすら億劫に思え始めていた。普段何気無く手に取っていた冷えたコカコーラの2リットルボトルを今すぐにでも抱きしめてやりたいと夏樹は思わずにはいられなかったし、たまにコップに注がずにそのままボトルに口をつけて飲んだりしたことを急に悔やみ始めたりしていた。知らない間に身内の間接キスをかまされる家族に3ミリ程度の同情を捧げようとしている夏樹の横を歩く隼人はあまり表情を変えずに淡々と歩いていたが、それでも額には汗が浮かんでいた。

 「あともう少しで休憩が取れそうな場所にたどり着けるはずですので、頑張りましょう。慣れていない人には大変な道のりですからね」

 ジャングルの案内人であるサンファさんが穏やかで涼しい表情と声で夏樹たちを気遣う言葉をかけてくれた。おそらくアフリカ系の血を引く彼は透き通るような漆黒の肌の透明度を崩すことなくスイスイと道なき道を進んでいく。まるで近所の河原を散歩しているかのような気楽さすら感じさせるほどにその歩みは軽やかだった。それに対して夏休みの間ぐうたらしていた夏樹の足はもう100年くらい前からオーバーヒートしていた。いまならこの足裏でお好み焼きでも焼けるんじゃないかなどとくだらないことをボヤけた意識の中で考えながら夏樹はフラフラと歩いていた。

 「これだけ意識ボヤけてたらさ、もし今ここで拳銃拾ったらキツすぎて頭ぶち抜いちゃうかもしれないね」

 気がつくと夏樹はそこそこ不謹慎な冗談をニヤニヤしながら口にしていた。前を歩いていた隼人が振り返ると、ちょっと心配そうな顔をしていて夏樹は何故か嬉しくてほんの少しだけ泣きそうになった。しかし、「お前も素直じゃないな」と言うと隼人は思ったよりも早く前を向いてしまったので、夏樹は「ほら、拳銃あったよ!どーん!」とバカでかい声で叫んでみた。すると、今度は無視されて振り返ってくれなかったので夏樹は逆に少し元気になってきた。

 「なんだよ、隼人くんも疲れてんじゃないの〜?」とからかうように夏樹は隼人の後ろからまた声をかけた。

 「…そりゃーそうですよ」と抑揚のない調子で隼人が返す。

 「そもそもさあ…なんでこんなとこ歩いてるんだ、俺たちは?」と隼人。

 「それはー、私たちがきっと…多くを望みすぎたから?」と夏樹が返す。

 「なんかまたエラく哲学的なこと言うね」と言うと隼人はふう、とため息をついた。

 「冴え渡ってんのよ、私の脳みそは今。この天然美顔器みてえな湿気のせいでね」

 「美しくなれたらいいな、この旅路の果てに」

 「何言ってんだあんた。いつから目悪くなったんだ?」

 そう言うと夏樹は両の手の人差し指と親指で輪っかを作り眼鏡のように目元に押し当て、ニヤニヤしながら隼人の背後にそそくさと近寄っていった。

 「変なタイミングで元気出るよな、お前は」と隼人は振り返らずに歩きながら呆れた調子で返した。その横顔は少し微笑んでいるようだった。

 「こんなに訳わからないような場所いてもそれだけ元気なら、世界が滅びる時でも楽しく過ごせそうだな。夏樹となら」

 夏樹はぼんやりとした意識の中で隼人が不意に発した言葉をひとつずつ拾い集めるようにゆっくりと反芻した。思った以上に素直な言葉に彼女は少し驚いた。

 「…そうだよ、私なら照らしていけるからね、未来も」

 照れ隠しでぶん投げるように夏樹がそう返すと、隼人は少し口籠るような感じになった。

 しばらく歩いてから、「今、ちょっとやっぱり水族館にしとけばよかったなって後悔してる」と彼は言った。

 「まあ、ジャングルで訳わからん鳥の鳴き声聞くのもありっちゃありってカンジじゃない?」と夏樹は返して、しばらく隼人の横顔を眺めた。なにか言いたいことを上手く言葉に出来ずにいるような、戸惑いの表情が見えたように彼女には感じられた。

 そこで急に「お二人とも、見えてきましたよ!」というサンファさんのよく通る声が聞こえてきて夏樹たちはハッとその方向に意識を向けた。そこには相変わらず落ち着いた柔らかな表情で休憩地点の小さな丘を指差すサンファさんの姿があった。「さあ、もう目の前なので頑張っていきますよ〜」という呑気な声の響きは夏樹からするとどうしてもジャングルの中を数時間歩いた人間の声とは思えなかった。

 

 丘の上には扉が突っ立っていた。まるでモノリスのように薄い長方形のそれが地面からニョキッと生えているようで、なんだか異様な雰囲気を醸し出していた。遠足気分でおにぎりでも食いながら休憩がしたいと考えていた夏樹の脳みそはその光景を正確に処理するまでに割と長い時間を要した。夏樹よりはなんとなく飲み込みが早かった隼人は静かな声で「扉があるね」と呟いたが、それからしばらくは誰も何も話さなかった。

 

 「よかったら、開けてみてもいいと思いますよ」と何故かサンファさんは笑顔で訳のわからない意見を口にしてくれた。夏樹は返答に困り、3人で輪を描くように座っている状態ではあったもののとりあえず聞こえなかったフリをした。

 「これって、どこかに繋がってるの?ただのハリボテじゃなくて?」と隼人が代わりに反応してくれた。

 「それは…開けてみないとわからないですね」とサンファさんがここでは珍しく神妙な面持ちになった。

 「あなた、なにか知ってるようね?」と夏樹はここで図々しく突っ込んでみた。

 「知っているといえば知っているのかもしれませんが…こればかりは心と体で体感していただかないと分かりにくいかもしれません」

 そういうとサンファさんは水筒のカップに水を注いでそれを一口でグイッと飲み干した。ゴキュっと喉が鳴る音がした。

 「…この世界って、一体どんな場所なんですか?」と隼人がサンファさんに聞いた。もっと早く聞いといてもよかった質問だな、と夏樹は思った。

 「まあ、パッと見た印象は奇妙なものだったかもしれませんが、おそらくはあなたたちが住んでいる現実世界とそんなには変わりないです」とサンファさんはキッパリと言い切った。

 それに対して、いや、そんな訳あるかと隼人が珍しくスピーディなツッコミを入れた。

 「気づいたらジャングル歩いてるなんてこと、現代日本じゃ絶対ないから」と隼人。

 サンファさんは腕を組み「ふむ」と何やら考えるような姿勢になった。丘の下からは何かの動物がジャングルの中を駆け抜けていくような音が聞こえた。本当に得体の知れない場所だった。

 「私にとっては池袋駅の地下もジャングルみたいなものでしたよ。要は、めちゃくちゃ、ということです。どうしてこんな世界がいつの間に出来上がったのか、それについてのもう少し詳しいヒントがあの扉の奥にはあるかも知れませんよ」とサンファさんはそっと扉を指差した。

 夏樹と隼人は座ったまま互いに目線を交わした。サッパリわからん、ということで無言のうちに合意に達し、そのまましばらく座り込んだままでいた。

 

 

続く。