「LAMB/ラム」鑑賞後メモ

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 アニメ版チェンソーマンの主題歌は米津玄師の「KICK BACK」という書き下ろしの曲になるそうで、しかもモーニング娘。の「そうだ!We’re ALIVE」からサンプリングしたネタを使っているらしい。実際にモー娘。のその曲を聴いてみたら70年代のディスコ的なサウンドが鳴っていたからヒップホップ的な感覚で使われているものとしてなんとなく理解したりするなど。MVもこの時代に見るとなかなか感慨深いものがあった。サンプル元というフィルターを一枚通すことでリリックに対してもあくまでひとつの時代性を象徴していたものという視点を導入することが出来るから不思議な哀愁すら感じた。ストリーミングで配信されていない楽曲というのも割とミソなのではないか、なんて考えたり(YouTubeで聴けるけれど)。

 というか、なぜいきなりこんな内容から書き始めているのかって、それは、やっぱり人間生きてる限りは「幸せになりたい」と思うよね〜って話をしたかったからである。でもそれって一体何によって担保されるのだろう?タダで、ふとしたラッキーで幸せになることもあるかも知れないが、実は案外薄皮一枚めくったところに腐臭が漂っているものかも知れない。

 「LAMB/ラム」は人間社会における搾取構造についての話だ、と語ることもできるだろう。真面目なテンションで見るとこう読み取るのが最もシンプルな気がする。強者が全てを手にして、弱者がその足元に横たわっている。アイスランドの、なんとなくシガーロスとかビョークとか安易に連想してしまう広大な自然のど真ん中で繰り広げられる話なのに気がついたら資本主義社会についての寓話にもなっているというのがなんとも捻れた構造だ。

 しかし、この真面目な語りからもう少し我々の生活感に近い感覚にこの物語を手繰り寄せるなら、やはりこれは「幸せになりたい」という感情についての物語だと捉えるのもアリではないか。満たされないのは嫌だ、失うものはあってもタイムマシンはない。時間旅行も理論的には可能らしいが、イヤイヤ訳わからんしそんなの関係ねえ〜とばかりに我々はタブーを犯し続ける。

 もう一つ書き記しておきたいのは、この作品は動物の視点に合わせたショットも多分に含まれているということ。冒頭なんて初めて人間が出てくるまでに割と時間がかかったので、思わず「ウォレスとグルミット」的な映画かと思いかけたほどだ。これが動物と人間をあくまで並列して描いていくという作り手からのエクスキューズとして上手く効いており、それによって逆に人間特有の暴力性が浮かび上がる構造にもなっている。

 その暴力性は、「境界線を引く」という行為によって表現されている。これについても冒頭から「内」と「外」を意識させるようなショットが続き、強調して描かれる。異質なもの、日常を脅かす(と思い込んでいる)ものを退けるために柵を設け、ドアを閉め切る。また時にはその線を意図的に飛び越えて新たな快楽を得たり。この物語には数人の登場人物しか出てこないにも関わらず、ひょこっとひとりの他者が介入してくるだけで主役である夫婦の関係性もこじれていく。それもこれもやはり起点にあるのは「幸せになりたい」という感情だろう。

 

 余分な説明的要素を排除する省略話法によって醸し出される不穏さは魅力的なところもあるが、個人的にはそれによる余白が大きすぎるようにも感じられた。演出のキメが少し粗いような印象も。

 それでも基本的なプロットや主題自体は個人的にとてもしっくりくる内容だった。だって、憧れちゃうよな。「幸せってやつ」に。

「百花」鑑賞後メモ

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 「他人の始まり」というフレーズを思い出した。これはECDの著作の中で出てくる言葉だ。家族という続柄や社会的な立場から解き放たれて再びひとりの人間、生き物へと純化していきやがてはこの世界からも逸脱していく。それは泉(菅田将暉)の視点から見れば母親のアルツハイマーの症状が進行するシリアスな過程でもあるが、百合子(原田美枝子)自身はそれをどのように感じていただろうか。

 百合子のなかでバラバラだった時間や記憶、空間がまるで本編のワンカットで撮影されたシームレスな映像のようにつながっていく。最終的に彼女が迎える結末からは、人間を力強く駆動させるものは「悲願」のような感情なのではないかと思わされた。何故かそれが果たされる瞬間というのはなかなかやってこず、それでも手を伸ばさずにはいられない。これは作中の百合子に限った話でもないだろう。そんな、もがきのような過程のなかで百合子は泉という息子を授かった。彼女はきっと泉を通して新たな喜びを知るとともにかつて果たされなかった願いもそこに見ていたはずだ。それが百合子にとっての愛の始まりであったであろうから。

 全編を通して録音も非常に優れており、これが長回しのショットと合わさることで観客は彼女の空間感覚を自分自身に重ねることが出来る。それはあくまで彼女のひとつの側面であり、物語の中に数多く残された余白のごとく「真実」を知ることは限りなく不可能に近い。それでも、百合子が忘れていった記憶が息子の泉にある種誤配されることで今度は彼自身の記憶が想起され始める。それは百合子とは違う視点の物語ではあるが、確かに母親とその瞬間を共有したという事実は存在していた。幸福なすれ違いのなかで、他人としての母親/百合子の姿が浮かび上がり始める。

 水面に反射する花火のごとく、実像の全てを目に焼き付けることはできないが、その美しい断片/虚像の中に忘れられない記憶が宿る。それはひとを癒し、苦しめ、追い詰め、やがて少しずつ透明に澄み切っていくのだろうか。

私の日は遠い #10

 どこまでも真っ直ぐに伸びていくような渇いたアスファルトは真夏の太陽の熱に晒されて蜃気楼にボヤけた空間を生み出していた。その揺らぎを切り裂くように法子は、明るめのブルーの塗装が施された67年型のインパラを走らせていた。カーステレオからはラジオが垂れ流されていて、今はボサノヴァのような音楽がかかっていた。法子はボサノヴァに詳しくはなかったが、涼しげな音が気持ちいいので機会があればいつかレコードを購入してみたいと今まで何度か考えては時間が経つとそのことを少しずつ忘れていった。そしてふとしたタイミングでまたそのことを思い出した。まだボサノヴァのレコードは一枚も棚に収められていない。

 レコードと言えば、音楽好きの友人夫婦の家に招かれたときに分けてもらった手作りのマーマレードを久しく味わっていないことを法子は思い出して少し懐かしいような寂しいような気持ちにもなった。冷蔵庫に入れておいてキンキンに冷えたのを食パンにベタベタ塗って食べるだけでそれはほんとうに美味しかったし、ひんやりふわっとした食感が朝に食べたりすると気持ちよかった。

 法子が訪ねたとき、その友人の家のレコード棚で端の方に並んでいた真っ白なジャケットに彼女はなんとなく興味をそそられた。それはビートルズの「The Beatles」というアルバムで、通称「ホワイトアルバム」と呼ばれているのだというようなことを法子は教えてもらった。よかったら聞いてみますかと旦那さんが気を利かせてプレーヤーに盤をセットし針を落としてくれた。法子にとってはそのタイミングで初めて聴くアルバムだったので、正直そんなにすぐには音に対してピンとくるものがないように思われた。しばらくそんな調子で曲をかけながら法子たちは談笑なんかをしながら過ごしていたが、不意に聴こえてきたピアノのフレーズが妙に胸に響く感覚を覚えて法子は曲名を尋ねた…。

 こんな調子で法子が思い出に浸っていたところを不意に後ろのトランクの中からドタドタと蹴りを入れるような音が遮った。割と長い時間が経ってしまったようだと法子は思った。

 さようなら、またいつか。淡いノスタルジーに対してのささやかな情を数秒間噛み締めた後で、彼女はアクセルを今までよりも少し深く踏み込んだ。

 

 なんだか疲れてきたな、と感じ始めた法子は適当に目に付いた通り沿いのダイナーの駐車場に車を止め、マルボロのメンソールを一本吸ってから車を降りると店内に入っていった。トランクからは蹴るような音が相変わらず聞こえていたが、人通りも特にないようだったので放っておいた。

 ダイナーのドアを開ける。昼下がりの時間帯で、客は法子の他には数人ちらほらといる程度だった。「いらっしゃい」と気の良さそうなコックのおじさんが厨房の奥から声をかけてくれた。

 法子はカウンター席に腰掛けるとウイスキーオンザロックで頼んだ。注文を受けた店員が厨房に戻ろうとしていたところで法子はふと思い立って彼を呼び止めた。

 「マーマレードと普通の食パンはここにおいてあるかしら?」と法子。

 店員は少し戸惑うような素振りを見せたが、「ないことはない」ということだったので持ってきてもらうことにした。

 程なくしてオンザロックが目の前に置かれた。法子は再びタバコに火をつけ、それを人差し指と中指の間に挟んだままグラスを掴み酒を何度か口にした。そしてしばらくぼんやりとした意識に浸った。クソ暑い夏の光がホコリを被った窓を通り抜けて新聞を読んでいるメガネの中年男性の後頭部を照らし続けていた。彼の目の前には鶏皮だけを除けてある、カレーライスを食べ終えた食器が置きっぱなしになっていた。それは誰にも気づかれずに置き去りにされ表面が渇ききっていた。

 あの食器を洗うにはまずしばらくは水につけておきたいなとぼんやり考えていた法子は「お待たせいたしました」という店員の声でやっと我に返った。大きめの食パンが2枚とマーマレードが入った小さな透明の瓶がひとつ置かれていた。

 「ありがとうね。何故だか知らないけれど、久しぶりに食べたくなったの」

 そういうと法子は彼に少し多めのチップを手渡した。それからマーマレードティースプーンで何度かすくっては食パンの表面にぶちまけていき、さらに全体に満遍なく塗りたくったところで一口かぶりついた。二、三口食べたところで彼女はふと、オンザロックではなくコーヒーを注文すればよかったと少し後悔した。けれどもう面倒臭かったのでそのまま最後まで食べた。ひんやりとした食感自体は気持ちいいものだったが、やはり思っていた味とは少し違っていて、なんとなく目当ての場所に帰り損ねたような感覚を彼女は覚えた。

 

 食事を終えると法子はさっさと店を後にし、車を駐車してある場所まで歩いて戻った。

 しかし、車から少し離れた場所で法子は異変に気づいた。トランクの隙間から銀色の液体が溢れ出していた。ボタボタと品のない様子で垂れていた。

 「こちとら食後なんだ。もう少し綺麗なもの見せてくれないか。せめてナイアガラみたく虹を纏って輝いてくれよ」法子は車に向かって歩きながら言った。

 「真夏の車内。想像もしたくないよな。俺としては南アルプスの天然水を意識したムーブだったんだがな」

 ドロドロの液体の一部が口の形をして大倉の声を発していた。

 「ここではまだあんたを始末するつもりはないよ。やってもらいたいことがあるんだ」法子はそう言うと、手に持っていたタバコを指先で弾いて捨てた。

 

 

 

続く

私の日は遠い #9

 シーラは自由自在に自身の姿を変えることができるが、戦闘には長けていない。暇な時にこっそり忍び込んだ図書館で読んだ生物図鑑でカメレオンの項目を見つけて読んだときは親近感が湧いた。カマキリやバッタも割と近いバイブス持ってるなと感じた。人間は身体を変形させることは出来ないが衣服というものを纏って日々違うフォルムを提示しているようだと、街中をふらつきながらシーラは気づいた。しかし、そんなことはそれほど重要なことではなかった。それよりも、シーラは早くもとの住処に戻りたかった。しかし方法がわからなかった。そもそも、どうしてこの世界に紛れ込んでしまったのかもよくわからなかった。

 人間が住む街には木々が少ないようにシーラには感じられた。それでも、コンクリートアスファルトといった硬質な素材で構築された都市の隙間をひっそりとすり抜けるように水が流れている場所もあり、シーラはその水が流れていく様子を見る度に仲間の存在を思い出した。シーラの住んでいる場所ではみんな基本的に本来の姿である液状のフォルムで生活していたからだ。

 しばらく歩くうちにシーラはきれいな水の流れる広場がある公園にたどり着いた。少し疲れていたので空いていたベンチに腰掛ける。昼間の暑い時間帯で、あまり人気もなかった。

 水辺を眺めながらしばらくぼんやりしていたシーラの視界にふと、一人の女性の姿が入り込んできた。スタスタとシーラのいる水辺の広場まで彼女は歩いてくると、特にためらう様子もないまま水に足を突っ込んだ。彼女の足元で大きな水飛沫が上がった。かなり勢いがあったようで、彼女が着ていたTシャツも少し水に濡れていた。涼しげな空気を纏い始めた彼女の顔は少しだけ微笑んでるようにシーラには見えた。

 呆気に取られたようにその様子を眺めていたシーラの目線が不意に彼女と重なった。私の今の姿とおそらく同じような年齢の人間だろうとシーラは思った。

 「水、めっちゃ気持ちいいよ」

 濡れたブルージーンズと黒いゆったりとしたサイズ感のTシャツを着た彼女が笑いながらシーラに声をかけた。少し舌足らずな発音で、しかしとてもチャーミングな明るい響きを持つその声は透明感のある優しさを纏っているようにシーラには感じられた。

 「私も、綺麗だなと思いながらここで眺めていました」とシーラは返す。

 「ねえ、よかったら一緒にここ入らない?」とその女の子は足元の水辺を指差していた。

 しばらくベンチに座ったままで汗もかいていたので、シーラは自然と履いていたサンダルを脱いで水辺に足を入れていた。強い日差しの中に晒されていたからか、水の中は少しぬるく感じた。

 「真ん中の方まで行ったらもう少し冷たいかもね」

 彼女は中央の噴水を見ていた。まるで小さな間欠泉みたいに天に向かって水が噴き出していた。

 「行ってみようか」

 そういうと急に彼女はシーラの手をとって駆け出した。驚いているシーラをよそに水飛沫をバシャバシャ上げて「ぎゃー」とはしゃぐ彼女は無邪気な魚雷のようだった。一度放たれると止まらずに突き進み続ける大きなエネルギーの塊だった。

 「うーん、思ったより涼しくねえな!」

 降りかかる大量の飛沫を浴びながら彼女は大きな声で言った。間近で見る噴水は鮮やかというよりかはまるで手に負えない暴走機関車のようで音も大きく忙しなかった。

 「でも、今のすごい楽しかったです!」シーラも大きな声で返した。水飛沫のせいでうまく目を開けていられなかったので、彼女の姿がボヤけて見えた。

 「あたしね、アリサって言うんだ。あなたはなんて名前なの?」とアリサ。

 「私の名前は…シーラと言います。少し変わった名前ですよね」とシーラも返す。

 「確かにね。でも、覚えやすくていいじゃん。シーラカンスみたいだし」

 「私もこんな状況で自己紹介をしていただいたのは初めてなので、多分アリサさんのことは忘れないと思います」

 シーラが妙に生真面目な調子でそう話したからか、アリサはふふっと少し笑うと、「こんなびしょ濡れな出会い、なかなかないよね」と言った。

 

 

 

続く

「ZOLA」鑑賞後メモ

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 「周りが勝手に動いているだけなんだ」というフレーズが語られるのは今年の5月に劇場公開されていた佐向大監督の「夜を走る」という作品においてだったが、「ZOLA」におけるゾラはどうだったろう?彼女もまた、そんなフィーリングを常に抱え続けながら終わらないBADな「トリップ」に巻き込まれ続けていたのではないだろうか。今作の映像が60年代的な質感でまとめ上げられているのは「トリップ」を描いた映画の系譜に連なるものであるからなのだろうけれど、そういったジャンルにおける過去の作品群と違っている点はゾラがかなり早い時点から常に冷め切っていたということだ。

 周りはやたらと煌びやかで騒がしい音に塗れているけれど、それらの何ひとつとして自分自身の興味関心には訴えてこないし、むしろ露悪的なムードすらそこに感じてしまう。Mica Leviによる劇伴がこの感覚に見事にフィットしていく。魅惑的かつ悪夢的、セクシーだけどグロテスクな数日間がゾラの周りを勝手に駆け抜けていく。ただひとつの始まりかけた友情を信じていたかっただけなのに。

 作品内で巻き起こる事態に対してゾラが常に受け身の状態でいることしか許されないのを見ている内に、宇野維正氏による「NOPE」評の内容を思い出した。

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主に北米におけるアフロ・アメリカンの人々が置かれる抑圧的な環境やそれに起因する不快感、孤独感がまさに「NOPE」の主人公であるOJの姿と重なる。しかも、「ZOLA」においては大きなカタルシスが訪れることもないのだ。ただひたすら、過激になっていくだけ。ある意味今作で最も衝撃的な、ぶん投げるような幕引きにはそういった社会の構造に対する批評的な視点が込められているはずだ。

 今作のアヴァンタイトルは顔にメイクを施すゾラとステファニの姿が無数の鏡に反射していくつもの像を映し出していく幻惑的なショットから始まるが、これは要するに人間は他人に関してほんのひとつの側面をあてにすることしかできないということを表していたのではないかと考えている。ポスターアートにおいても、作品を鑑賞する前にはふたりがまるで鏡像関係にあるかのような印象を覚えていたが、これもよく考えてみるとふたりとも横顔しか映されていないわけで、つまりはゾラのように我々もまた「トラップ」にかけられるような構造になっているのだろう。

 かなり変わった映画だ。それでも、日常生活においてしばしば感じるこの世界の騒がしさに対しての虚無感、冷めた感覚をきちんとキャプチャーすることに成功しているという点においてこの作品はとても魅力的だと個人的に思う。「これは、私の」感覚だと思わずにはいられなかった。

「NOPE」鑑賞後メモ

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 「失ったものを再びこの手に取り戻す」という物語の軸になっているプロットや、広大なアメリカの荒野の景色とその大地を駆け抜けていく馬といったような西部劇的なモチーフがメインになっているのは、IMAXカメラによってスペクタクルな映像を作り出すために必要な要素であり、コロナ禍以降の劇場公開作品が向き合っている現状に対する姿勢の表明でもあるのだろうけれど、それらと同時に怒りやヒロイズムといった感情に対して新たな切り口を提示していくことで、この作品は西部劇(というかSFもしくはホラー)というフォーマットの精神性を更新することを試みてもいる。

 アヴァンタイトルで描かれる猿のゴーディに関するエピソードは、怒りや恐怖に対して動物的ないし直線的に感情をぶつけてしまった者の末路を描くためのものだろう。おそらく「彼」は自らの孤独を共有できる存在が周りにいなかったために、感情の暗い部分と「目を合わせ」てしまったのではないだろうか。これは同時に今までジョーダン・ピールが描いてきたような、北米におけるアフロ・アメリカンの人々が搾取される構造を端的に示してもいるだろう。ある意味「ゲット・アウト」と同じ怒りの爆発のアナロジーでもある。他にもいくつかの場面において、特に序盤は映画やその業界、または社会そのものの構造に対しての言及を表すショットが多いようにも感じられた。

 血みどろで悲劇的な末路を辿るゴーディと対になる存在としてOJ・ヘイウッド(ダニエル・カルーヤ)がおり、彼はとにかくどんな時でもクールさを保とうと努める。冷静にその場の状況を把握し、必要以上に人と目を合わさないような素振りを見せる。物語の後半で、エメラルド(キキ・パーマー)とエンジェル(ブランドン・ペレア)に対して早く車に乗り込むよう急かす場面においての演出がとても印象的だった。この場面でも描かれるように、OJにとっての戦いはいかに「それ」と直接目を合わさずに冷静でいるかということに終始する。圧倒的な力で敵を倒すようなことなどはしない。そういった旧来の男性的なポジションを担うのは、女性のエメラルドだ。ちなみに、彼女が終盤でバイクを乗りこなした後のとあるわかりやすい演出は、個人的にはいい意味ですごいくだらなくて笑えた。ここでこれカマすのかよ、みたいな。

 また、「それ」のフォルムがなんとなくカウボーイハットっぽかったり、OJが「Gジャン」と呼称を定めたりしているのからして、おそらく怒りや恐怖だけではなくヒロイズムを象徴する装置としても機能しているのではないかなと個人的に思った。そう考えることで、何人かの人物が辿る末路も納得しやすい。

 OJが上述したような旧来の男性的ヒロイズムに「吸収」されることなくクールさを保つことができたのは、「最悪の奇跡」の後に亡き人となってしまった父親と共に続けてきた馬の調教という仕事に誇りを持っていたからであろうし、それがなにより彼のパーソナリティを形作るものであったからだろう。だからこそ巨大な未知の「恐怖」に対して攻撃的な手段ではなく、特性を理解して上手く誘導する、なんならちゃっかりお金も稼いでしまおうという方向性で仲間たちと協力して行動を起こすことができたのだろうし、何よりもOJが常に離ればなれになってしまった馬たちをどうにかして取り戻したいと考え続けていることは彼のセリフの断片から垣間見えるようにもなっている。

 映画史の原点として作品の序盤に語られる「動く馬」に対してのアンサーとも捉えられる、本編の終わり際で馬に跨るOJの静的な佇まいは新たな「ヒロイズム」の形を提示している。

 「それ」と目を合わせてはならないし、完全に掌握しようとしてはいけない。なぜならそれは我々には理解しえない領域に息づいているものだから。”NOPE”=「知らん」とOJはシラを切ってみせる。だがしかし、エメラルドに対して彼は決して目を逸らさない。奇跡と対極の日常における愛情が存在していたことを確信する目線のやりとり、それはもはや奇跡。

「セイント・フランシス」鑑賞後メモ

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 本編の冒頭で自殺の話をする男とラストでドアを開けるフランシスの姿は対になっており、その両極の間で主人公のブリジットは常に揺れている。死と生、ノスタルジーと前進の間を泣きながら笑って生きる。その姿が現代の家父長制的なシステムの中でタフに生き抜く女性たちに重ねて描かれる。男には知り得ない痛みと孤独がここにはあり、「ここまでやってあげたのだからいいだろう」という境界はただの都合のよい幻であることを緩やかに、しかし鋭く突きつける。

 序盤からこれでもかというほどに「血」が映される。基本的にはインディ映画的なゆったりとしたトーンやマナーで物語が進行していくが、かなり直接的、具体的に問題提起がなされてもいる。笑える場面が多いけれどそこには痛みが確かにある。繰り返し描かれるブリジットが個室トイレに座っている姿は、(この文章を書いているひとりの男にはどうしたって知り得ないし、想像し続けることしかできないであろう)孤独を象徴的に表している。

 育児をする女性たちも当たり前のように個人的な感情を抱えている。それを吐き出したり共有することを難しくしているのは、社会が押し付ける母親像や女性像というものがあまりに高潔なものであるということに一因があるのは間違いないだろう。そのイメージを喚起し続けているのはやはり家父長的な性質を持つこの世界の構造だろう。

 疲れたり頭にきたりするのは当然であるし、「過ち」を抱えているのは人間の特徴のひとつであるはずだ。だからこそブリジットが奮闘する姿やフランシスの自由気ままな振る舞いにはチャーミングさがあるのだし、その点は大人も子供もきっと同じはずだろう。

 この世界にはまだ「解決」がない。ブリジットのように揺れ動き続け、戸惑っている人々が数えきれないほど存在している。そこには一般的に「過ち」と見做される振る舞いもあるかもしれない。だがその根底にはそもそも歪みきった社会の構造があるわけで。だからこそ、そんな時にせめてもの社会への反抗として「過ち」に手を差し伸べることが出来ればそれは素敵なことなのかもしれない。なんなら自己紹介付きで。