まるで仙人のような映画だ。説教を垂れるのではなく、そこに進むべき道があること、いや、もうただゆっくりと思うがままに歩んでいけば良いのじゃと言わんばかりに我々を静かに「物語」へと誘ってくれる。それは至高の体験と呼んでもいいかも知れない。まるで最高品質の鍋と出汁が始めから用意されていて、あとはお好みの肉や野菜を好きなペースで入れては食べられる店のようというか、そもそも座るソファやテーブルの材質から選ばせてもらえるようなそんなレベル(それは逆に面倒臭くないか?)。まあ、要は全編に渡ってとにかく映像と音の快楽に溺れることが出来る。なのでまずはみんな観てみよう。
さて、いきなりやたらと褒めちぎってしまったが、逆にはっきりとした筋書きや派手な展開を求める人には向かない作品なので、ある意味好き嫌いの分かれやすいものではあるかも知れない。(駄目だった人は「サイバーパンク」か「リコリコ」を観よう)
本編冒頭、薄明かりがカーテンから透けている寝室が映される長回しのショットでこの作品の基本的なテンポ感がなんとなく示される。非常にゆったりとした作品であり、それでいて情報量は多いということを数分間に渡る寝室を中心とした場面のみで示す手腕のスムーズさに始めからシビれる。その予感が裏切られることはない。病室やレコーディングスタジオでのやりとり、また交差点でのとある出来事を映した場面から示唆されるのは、この作品が一人ひとりの物事の捉え方の違いを描くものであるということだ。同じものを聴いたり見たりしているけれどそれを通して感じていることや考えていることは全く異なっている。それでもその感覚を誰かに可能な限り正確に伝えようとする行為の尊さを描いているし、まさにこの作品自体がそれに対する一つの試みであることは間違い無いだろう。
「伝える」という行為において鍵となるのは記憶だ。聞き手の記憶に共振するような伝え方をすることでより具体的な理解を目指す。それは映画というアートフォームが観客に感動を与える構造とも合致する。他人の心に直接触れることは不可能だ。作品の後半に登場するある男が「眠る」姿によってそれをまさに体現しているようでもあった。それに対して作品内において人々の間の架け橋となるのが「音」を通して示される物語だ。ミュージシャンたちによるセッションや終盤での主人公たちのやり取りがそのモチーフになっている。「妄想の深淵」において、人々は指先ではなく波動によって誰かの心に触れることを試みている。
そしてさらにこの作品の凄みは、物語という形式の根幹に普遍的に宿る感情にまで深く潜り触れようとしているところにある。作品終盤において、物語とは痛みだというひとつの見方が提示される。主人公が抗不安薬の処方を医師に求めた際に「そういった薬は共感力を失くす」という旨の台詞が返されるのは物語による共振のメカニズムの根幹に痛みという感覚が存在していることを示すためでは、と考えている。生活において避けがたく存在する様々な不安や痛みはときに我々を容赦なく追い詰めるが、それらは共感力、エンパシーといった能力に転化することも可能であり、他者をサルベージするための鍵になり得るという希望がここにあるのではないだろうか。
とまあ、色々書いてきたが、こういった主題に沿って他にも不思議なポイントがいくつもある映画だ。複数の自動車の警報装置がなんの前触れもなく作動して不思議なアンサンブルが始まったり、ティルダ・スウィントンvs野良犬という謎の構図が拝めたり、急にどこかに消えてしまう人がいたり…しかもなにげにユーモアのセンスもバリ高くてちょいちょい笑える箇所がある。恐るべし、アピチャッポン。
ラストのとあるトンデモ演出も含め、やはりあくまで「触れざる領域」がそこにはある。それでも1日のうちの2時間16分をこの作品のために割いて物語に深く潜る価値は十二分にあると言えるだろう。その深淵に響く「あなたにしか聞こえない」波動にそっと耳を澄ましてみればいい。