「NN4444」鑑賞後メモ

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 「面白い映画」とは何だろうか、というあまりにも巨大すぎる疑問について考えてみた。そして、きっとそれには音楽でいうところの豊かなハーモニーが宿っているのではないかと思った。映像と音声、さらにはそれらを構成する細かな要素、撮影や照明、役者、演技、脚本、演出、音声の録音、ミキシングなど、それらのものが作品のテーマやトーンなどに沿って一点に寄り集まり鮮やかに噛み合う瞬間、倍音を含んで膨らみや奥行き、重層的な構造を感じさせるようなある種官能的な響きが生まれるのではないだろうか、と。4人の映画監督による4本のホラー短編で構成されている「NN4444」を観た帰り道、そういったことについて考えを巡らせてしまったのは、ラスト4本目に据え置かれていた「VOID」が提示する「ハーモニー」の奥行きの広さが他の作品との比較によって俄然圧倒的に感じられてしまったためだ。

 前提として、他の3本の映画も非常に丁寧に作られている。1本目の「犬」は現代社会における女性と(主に)男性性との関係を飼い犬と飼い主のそれと重ね合わせて描いている作品であり、アイデア一発的な軽さはあるものの、メインの女性ふたりによる演技のチャーミングさがとても魅力的だった。2本目の「Rat Tat Tat」は初め、独特な編集感覚に若干面食らったものの、最後まで見ていくとテーマとしては、(センシティブな内容であるため少しぼやかして書くと)産みの苦しみについての作品であることがわかるようになっている。3本目の「洗浄」は打って変わってB級ホラー的なトーンも交えた作品であり、フェミニズムに対しての言及も先ほどの2本よりはもう少し俯瞰した(まるで主人公の女性のような)視点から成されているように感じられ、押し付けがましさはない。

 さて、そこから最後の4本目「VOID」になるのだけれど、開始10数秒だけで(少し残酷ではあるけれど)他の3本よりも圧倒的な深度をスッと提示してしまうのだ。ドローン的なノイズが流れ始め。スクリーンには一軒家の入り口が映し出される。そこからカメラがスーッと左に動いていくと、とある光景が視界に飛び込み…と言った具合にこの時点で視覚的、音響的にも途轍もない何かが起きてしまっているであろう予感を植え付けにくる。そして本編が進んでいく中でその予感は確信に変わっていく。「恐怖そのもの」の正体が目にハッキリと見える形で現れることがないのは先日鑑賞した黒沢清監督の「Chime」も同様ではあったが、「VOID」はより静的な表現で構成されている。直接的な暴力描写はほぼ皆無、というよりは、全員が何事もなかったように呑気に暮らしている光景が最悪の暴力として機能するように構成されていることに恐ろしさを感じてしまった。

 何かが起きる(もしくは起きてしまっている)予感=スリリングさ、そして前景化しすぎることはない現代社会に対しての言及のスムーズさ、役者の配役や表情の捉え方の上手さ、さらには劇伴や音声のミキシングなど、各要素の隅々にまで手が行き届いている印象がどうしても他の3本よりも凄まじいことが浮き彫りになってしまっていた。ただ、個人的には「面白い映画」とは何かを改めて考える上で非常に勉強になった。