「Chime」鑑賞後メモ

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 ひとつの出来事を軸に物語が展開していくような構造ではなく、突発的な事件が次々に発生していくプロットであるのは、こと現代における「恐怖」という概念がもはや原型がどのようなものであったかが全くわからないほどに様々な感情が圧縮された集合体のようなものであるということを喚起させるためだろうか。だからこそ、主人公である松岡(吉岡睦雄)が目にした「恐怖そのもの」を示すものであろう物体が画面に映し出されることはないし、インターホンのモニター越しに見えるものは砂嵐のようなノイジーな映像でしかなかったのだろうというように思えた。

 松岡が料理教室の先生であるという点もこの物語構造やモチーフに対して非常に効果的に機能していて、元々はただの死体の一部であるような豚肉や鶏肉に処理を施していくことでひとが口にすることが出来る料理へと昇華していく過程はそのまま彼なりの処世術のようなものを示しているのだろうし、実際、作品冒頭あたりでの料理教室の生徒とのやりとりの中でも基本的には落ち着いて物事に対処することが出来る人物であることは示唆されていたりもする。しかし、物語が進行していくに連れて、その処理の過程で切り捨てられたもの、そしてそれらが行き着く先(そもそも、そのような場所が存在しているのか)のようなものが描かれていく中で、松岡は次第に追い詰められていく。料理という日常的な動作と突発的に人を駆り立てる暴力衝動とが重ねて描かれるのは、そのどちらも基本的には(少なくともその本人にとっては)邪魔なものを消去しようと試みる動きであるからだろう。その邪魔なものが消え去る間際に放つ断末魔は目には見えないが、しかし、確かにこの世界にこだまし続けて集合体=ノイズと化していく。そして、アスファルトにこびりついた蛇の通り道のような黒いシミは、決して断ち切れないものがこの世に存在しうることの恐怖を可視化させている。